幕間(interlude) 5
【地中海 <宵月>】
クララは艦橋の隅で、冷たい手すりにしがみつくように立っていた。
<宵月>が地中海の荒波を切り裂くたび、船体が大きく揺れ、彼女の胃がひっくり返る。げろ袋を握り潰すように持った手が震え、青白い顔に汗が滲む。眼鏡の奥で、金色の瞳がぼんやりと曇っていた。
「ミスアッシュウッド、無理に艦橋に立つ必要はありません。お部屋に戻るか、あるいは魔導機関室にいた方がいい」
興津と呼ばれていた士官が、片言の英語で声をかけてきた。怪訝そうな視線が突き刺さる。クララは首を振って、抑揚のない声で答えた。
「どこにいても一緒。この揺れから逃れられない。なら、私はここにいる。その方が効率──」
言葉が途切れ、クララは袋を開いた。食道を焼くような感覚に耐え、彼女は必死に吐しゃ物を袋に収めた。
顔を上げると、軍帽の廂越しに日本人たちの視線がちらつくが、誰も近づいてこない。涙が滲んできた。胸やけのせいだと自分に言い聞かせる。
──やっぱり、彼らには私が異物なんだ。
軍人には魔導の本質なんて理解できない。星室庁の魔導士がみな感じる壁だ。クララも例外ではなかった。彼らにとって自分は、戦争に役立つかどうかでしか測られない道具に過ぎない。それは正しい判断かもしれない。戦場に無駄は許されないのだから。
だが、クララたち魔導士には先例がない。近代戦で魔術をどう活かすか、手本も教科書もない。だからこそ、彼女は自分で道を切り開かなければならなかった。そのためには軍との相互理解が不可欠だ。なのに、言葉の壁も文化の壁もあるこの異国の艦で、どうやってそれを成し遂げればいいのか。
──誰も分からない。
青い顔で確信する。理解されなければ協力も得られない。ただ吐しゃするだけの惨めな少女として、ここにいる意味すら失うだろう。
──こんなところにいたくない。
好きでいるわけじゃない。クララが艦橋にいる理由は、この艦を率いる男─儀堂衛士─にあった。彼だけが、他の日本人と違った。
彼女を一顧だにせず、ひたすら艦首の先を見つめている。背筋を伸ばし、荒波を睨むその姿は、まるで魔獣を屠る刃のように鋭い。だが、その無関心がクララを苛立たせていた。
──私の任務は彼を観察することなのに。
ネシスが仮死状態に陥り、霊力の波動が消えた今、クララは儀堂とネシスのリンクを手がかりにその謎を解かなければならない。
儀堂とネシスは感覚を共有していた。それは微弱な霊力の波を双方向に送りあってリンクしていたからだ。そして、そのリンクは今も途切れてはない。
それがクララの仮説だった。
儀堂の霊力がネシスと繋がっているなら、彼の傍で観察するのが最も効率的だ。ネシスと違い、儀堂は生命活動を維持し、霊力を放ち続けている。後はその儀堂に対して送られているネシス側の波を拾うことができれば、蘇生の手掛かりを掴めるかもしれなかった。
だから、こんな揺れる艦橋に立っている。だが、それを説明しても無駄だろう。一般人に魔導を理解しろと言うのはチンパンジーにシェイクスピアを書かせるようなものだ。
「ミスアッシュウッド、大丈夫か?」
低い声が、突然耳に届いた。クララは驚いて顔を上げた。儀堂衛士がこちらを見ていた。地中海の荒波から視線を外し、彼女をじっと見つめている。その目は無関心に見えて、どこか柔らかい光を宿していた。
「揺れがひどい。副長の言う通り、下に降りた方がいい。吐くなら艦橋より機関室の方がマシだろ」
英語は流暢で、抑揚にわずかな気遣いが混じる。クララは言葉に詰まり、袋を握ったまま呟いた。
「……ここにいないと、見えない」
儀堂が眉を軽く上げた。
「見えない? 何がだ?」
クララは一瞬迷った。説明する意味はないと思っていた。だが、彼の声には押しつけがましさがない。ただ、聞いているだけだ。彼女は小さく息をつき、目を伏せた。
「君とネシスのリンク。霊力の波動が繋がってる。それを見つけたい」
儀堂は黙って彼女を見つめた。クララは視線を避け、続けた。
「ネシスは仮死状態でも、君と感覚を共有してる。彼女が君へ送っている波が、私に分かれば、彼女の波動を追えるかもしれない。だから、ここにいる」
言葉が途切れ、クララは胃がまた揺れるのを感じた。袋に手を伸ばしかけた時、儀堂が口を開いた。
「なら、もっと楽にしろ。そこに突っ立って吐いてるだけでは、それこそ効率が悪いだろ」
彼は艦橋の隅に置かれた折り畳みの椅子を指さした。興津が慌ててそれを持ち上げ、クララの近くに置く。儀堂は淡々と続けた。
「座れ。揺れは慣れる。誰でも最初は時間がかかる。ネシスも……いや、あいつは最初からケロリとしていたな」
僅かな笑みが浮かんだ。
クララは驚いて彼を見た。無関心だと思っていた男が、さりげなく気遣いを見せている。しかも、ネシスとの些細な記憶を口にするその声には、どこか温かみがあった。彼女は無表情のまま、ゆっくり椅子に腰を下ろした。
「……ありがとう」
小さく呟くと、儀堂は軽く頷き、再び艦首に視線を戻した。
「一応、聞いておくが霊力というのは俺を見るだけで追えるのだな? 俺から君に何かする必要はないな?」
クララの胸が、ほんの少しだけ軽くなった。無関心に見えた男が、自分を理解しようとしているようだった。彼女は説明を怠ったのは自分を少し恥じた。
「そのまま近くにいてくれれば、それでいいよ」
抑揚のない声で答えつつ、クララは初めて儀堂をまじまじと見つめた。荒波を切り裂く男の横顔が以前よりも少し柔らかく見えた。
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月一で不定期連載中。
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弐進座
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