幕間(interlude) 4
【地中海】
もはや限界だった。
その袋を開けたとたん、酸っぱい匂いが鼻腔を満たした。途端に胃が痙攣し、食道を酸が駆け上がってくる。
青い顔のまま、袋の中に吐しゃする。顔を上げれば同情と無関心で、周囲の人間が二分されていた。
だから嫌だった。こみ上げてくる涙を気づかれまいと、クララは軍帽を目深にかぶった。
「大丈夫ですか?」
酷い片言の英語を耳にして顔を上げると、オキツとかいう日本軍人が怪訝そうに自分を見ていた。余計にみじめな気分になる。
クララ・ウィニフレッド・アッシュウッド、彼女は数週間前までロンドンにいたはずだった。
【回想 - 数週間前、星室庁ロンドン支部】
クララはロンドン塔の地下に広がる星室庁の執務室で、机の上に広げた書類をじっと見つめていた。薄暗いコンクリートの壁に囲まれた部屋は、防空壕のような無骨さで満たされている。机にはBMの観測データ―その大半は黒い球体の素描と、乱雑に書き込まれた数値の羅列―だった。
いま手にしているのは東欧の一地域に関する報告書と地図だった。彼女の丸い眼鏡の奥で、淡い金色の瞳が一瞬揺れる。
「見える。精霊の波動が強くなってる」
小さく呟いた声が、冷たい空気に溶けていく。重い足音が背後で響くも、クララは顔を上げなかった。誰なのか、分かっている。
星室庁ロンドン支部長、サー・ヘンリー・グラッドストーンだ。恰幅のいい体躯に軍服を纏い、口髭をたくわえた初老の男。スコットランドの荒々しい風土を思わせる、無骨で頑なな気配を漂わせていた。
「また妙なことを言ってるな、クララ」
低く響く声に、スコットランド訛りがかすかに混じる。クララはゆっくりと視線を上げ、無表情のまま答えた。
「森が囁いてる。黒い月が泣いていると」
「また妖精だか何だかの戯言かね。は、私には分からんよ、そんな得体の知れん話は」
グラッドストーンは無愛想に机へ分厚い封筒を置いた。封筒には「極秘」の赤いスタンプと、日本語らしき文字が並んでいる。クララは無言でそれを見下ろした。
「海軍からの要請だ。お前を大日本帝国の駆逐艦に出向させる」
「……私?」
クララの声に、わずかな疑問が滲んでいた。グラッドストーンは腕を組み、目を細めて続ける。
「君の先輩、ローン大尉が持ち込んできた案件で連合国間の協同作戦だ。聞けば<宵月>とかいう駆逐艦らしい。お前も新聞で見たことがあるだろう。魔導駆逐艦と呼ばれるやつだ」
「なぜ私を?」
「知らんよ。いや説明を受けたがわけがわからん。詳細は副支部長にでも聞いてくれ。日本海軍がBMと魔獣を叩くのに、お前のその妙な力が必要だと名指しで来た」
クララは眼鏡を軽く押し上げ、淡々と反論した。
「私が出ていくのは効率的じゃない。オックスフォードで解析を続けた方が成果を上げられる」
「効率だと?」
サー・グラッドストーンの声が一瞬高まり、すぐに抑えた。彼にしたら上官に口答えする部下など、許される存在ではなかった。だが、ここは彼の知る陸軍ではない。わけのわからん魔術と戯れる変人どものあつまりなのだ。
鼻を鳴らすと、苦々しく続けた。
「効率かどうかなんてお前の判断で決まるわけがないだろ。それともお前は次の選挙にでも出て、首相にでもなるつもりか。それなら、その発言も許そう。ああ、出馬するなら労働党からにしてくれ。俺はお前みたいな煙草の値段もわからん小娘に投票したくないからな」
クララは言い返さず、封筒から書類を取り出した。許しがたい反抗的な態度だったが、相手は十代半ばの少女だった。グラッドストーンは怒鳴りたい気持ちを一身に抑えて、なだめるように言った。
「いいか。戦争は効率だけで動かん。それにこれは命令だ。この意味わかるな?」
「わかっている」
クララは中の渡航指示書と<宵月>の概要を一瞥した。揺れる船の甲板と、胃がひっくり返る感覚が頭をよぎる。思えばヨークシャーの森は静かだった。街の喧騒にも慣れてきた。だけど海は駄目だ。
「船は苦手だよ」
ぽつりと呟くと、グラッドストーンが眉を上げた。
「何?」
「揺れる。気持ち悪い。森の方がいい。森は騒いでも揺れないから」
抑揚のない声に、グラッドストーンは一瞬呆気に取られ、失笑気味に言った。
「船酔いか! お前、海が苦手なのか」
幾分かの親しみが声には込められていた。
「まあ、スコットランドの森だって風で揺れるさ。気休めにしかならんが、<宵月>は地中海にいる。あそこの波はまだ大人しいぞ。それにクラスは駆逐艦だが、そこそこデカい艦とも聞く」
「そう……」
呟きとも返事ともわからない一言だった。眉間に手を伸ばし、深くなりすぎた皺を伸ばす。
「とにかく決まったことだ。ローンも急いでいるらしい。もう今日は上がって、荷造りの準備をしろ」
彼は踵を返し、部屋を出る前に振り返った。
「ああ、どうしてもというのなら医務室でドクターから船酔いに聞く薬でももらっておけ」
グラッドストーンの足音が遠ざかり、クララは一人残された。
封筒を手に持ったまま、彼女は目を閉じる。ダンケルクの失敗で左遷された男の苛立ちが、その背中に滲んでいた。おそらく、あの男は前線に戻りたいのだろう。クララにはよくわからない感情だった。
机の上の地図へ目を落とす。彼女にしか見えない揺らぎが東欧に見えていた。
「黒い月……あの森の揺らぎが私を海に導いているの?」
誰ともなく呟き、クララは静かに立ち上がった。旅支度をしなければいけなかった。ふと眩暈にも似た感覚を覚える。見慣れたコンクリートの部屋が頼りなげで、自分がどこに立っているのかわからなくなった。気が付けば世界は揺れ動くようになってしまった。
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月一で不定期連載中。
ここまでご拝読有り難うございます。
弐進座
◇追伸◇
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