ムギ
敷金なし家賃四万円の格安物件を賃貸契約したら、もれなく幽霊が付いてきた。
夜中に用を足していると誰かがトイレの戸を引っ掻くのだ。
薄いドア一枚へだてた向こうに誰かいる。私は身がすくんで声も出せなかった。
しばらく固まっていたら、やがてか細い声が聞こえた。
ナーオ
え、猫?
ガリガリ、ナーオ。
ドアを開けると、スッとなにかの動く気配を感じた。
どうやらその部屋に取り憑いていたのは、猫の霊らしかった。
猫なら怖くない。母が猫好きで、実家では今もたくさんの猫を飼っている。
その日から私は仕事から帰ると、暗い部屋へ向かって呼びかけるようになった。
「ムギ」
ムギとは私が勝手につけた名前だ。
運が良ければニャアと返事がかえってくる。足もとへジャレついてきたこともあった。もちろん触れることはできない。ペットと呼ぶにはあまりに儚い存在だけど、都会で一人暮らしする私はそれでずいぶんと癒された。
あるとき残業で遅くなって帰宅すると、ベランダの手すりに碧い目が二つ光っていた。
「ムギ?」
テーブルに蹴つまずきながらベランダへ駆け寄る。
ムギの目がじっと私を見ていた。
サッシュを開く。
「あっ」
思わず叫んでしまった。私はそのとき初めてムギの姿を目にしたのだ。
黒猫だった。頭は半分つぶれ、足が変な方向にねじ曲がっている。
ニャア
ムギは悲しげに鳴くと、そのまま手すりから身を躍らせた。小さな影が夜の闇へスーッと溶けてゆくのが見えた。
そのとき私は悟った――ムギはかつてここから投げ落とされたのだ。
翌日エノコログサを摘んできてベランダに活けてあげた。
以来、部屋にムギが現れることはない。




