居住篇
私はソーシャルディスタンスを心掛ける男。
早速だが、私はついこの間山を買った。そしてその山にある小屋へと引っ越しを行った。
というのも、会社をクビになったのだ。おそらくオフィスを全焼させかけ、さらには消費期限切れの物を食べ続けて体を壊し、一週間ほど休んでいたのが原因だろう。
しかし私の決死の交渉により退職金はたんまりともらえたため、これを機にソーシャルディスタンスを徹底しようと人里離れた山に住むことを決めたのだ。
散々これまでソーシャルディスタンスを心掛けていたが、この究極の一手により、もう心掛ける必要はなくなった。ソーシャルディスタンスを極めたがゆえに、ソーシャルディスタンスが不要となる。何とも言えない話である。
とはいえこの一手。プラスのことばかりとは言えない。
まず、人と一切関わらなくなるというわけではない。文明的な生き方を完全放棄するつもりはないので、時には人里に降りなくてはならないことも当然ある。
できるだけ自給自足の生活を心掛けることにはしているが、家庭菜園を始めるにしても、一週間やそこらでは野菜も育たない。当面は食料を買いに山を下りる予定だ。その際はこれまで培ってきたソーシャルディスタンサーとしての力を再び発揮することになるだろう。
また、現状私は狩猟免許も持っていないし、銃砲所持許可申請もしていない。そのため、仮に猪や熊に襲われたら反撃する術を持たない(猪や熊が出るのかは不明)。普通に都会にいるよりも危険度は増したとさえ言える。
しかしそれでも、私の心は澄み渡っていた。
これまで一流のソーシャルディスタンサーとして日々を過ごしてきていたが、やはり窮屈に感じてしまうこともしばしばあった。行動範囲は極端に減るし、好きなものを好きな時に食べられない。
特に困ったのは人間関係。元々アクティブとは言い難い私のような人種は、何かきっかけでもなければ人と深く話すようなことはない。ゆえに仕事での会議、接待などは私にとって深い会話を繰り広げるためのよい引き金となってくれていたのだ。しかし出社しても極力距離を置き、長話は勿論禁止。そもそもテレワークなどで出社しない社員も多く、会話という行為自体が激減。接待は国の方から止められる始末。
通勤・帰宅時ぐらいでしか人と接することがなく、街を自由に動けないというのなら都会にいるメリットなどないに等しい。
多少の危険・苦労が伴おうと、周囲に気を使う必要のない山暮らしをすることに後悔なんてあるはずがなかった。
山に住み始めてから一週間が経過した。時々ネットを介して情報収集をする限りでは、いまだかつての生活は全く戻っていない様子だった。
ひとまず山を買うという選択肢が無意味ではなかったと、不謹慎ながらもそれなりにホッとしてしまう。
ところで最近、やや恐ろしい話を耳にした。それはかのウイルスが動物を介して再び広がり始めているというのだ。
元々犬、猫などに感染することはニュースで取り上げられていたが、あくまでそれはごく少数。加えてそれらは人から動物に感染が広がったものであり、動物を経由して人に広がったという話は、それこそウイルス騒動の発端となった蝙蝠くらいでしか聞いたことがなかった(それも事実かどうかは分からないが)。
それがここ最近、動物から動物を経由してウイルスが各地に広まり、さらにその動物から人へとウイルスが感染しつつあるという噂が流れている。
もしそれが事実だとすれば、こうして山に住む私も無事では済まない。この地においてはソーシャルディスタンスなど無縁と考えていたが、これからは再び、ときおり見かける野生動物とのソーシャルディスタンスを徹底していく必要があるかもしれない。
――いいだろう。望むところだ。
私は口を三日月形にゆがめ、拳を握りしめる。
実のところ、最近どこか退屈を感じていた。ここ数ヶ月ソーシャルディスタンサーとして身に着けてきたあらゆる極意。それらを一切使わないこともそうだが、どうやらいつの間にか、ソーシャルディスタンスの最適解について考えることに楽しさを見出してしまっていたらしい。
その思考から解放されることは、私に自由を与えると同時に、充実感というものを奪う結果となっていた。
それがここに来て、動物とのソーシャルディスタンスについて考える機会に恵まれた。久しぶりに灰色の脳細胞が活性化するというものだ。
少しだけテンションが上がり、私は新たなソーシャルディスタンスについて考えるため山の散策を行うことにした。
しばらく山をうろうろしていた所、私はあるモノを発見し、ぎょっと目を見開いた。
都会を離れたことからもう二度と会うことはないと思っていた、ソーシャルディスタンサーの申し子ともいえる女子高生。なんと背に猪を担ぎながら、のしのしと山を歩いていたのだ。
色々と状況を受け入れることができず、何度も目をこすって幻でも夢でもないことを確かめる。
これが現実だと認識した後、私は慌てて「なぜこんなところにいるのか」と、彼女に声をかけた。
すると彼女は一瞬驚いた表情を浮かべ、こちらを振り返った。だがすぐ笑顔に戻り、「ちょっと流行りのウイルスに感染しちゃって、人に移さないようこうして山を渡り歩いてるんです。なのであなたも近づかない方がいいですよ」と言って足早にその場を去っていった。
呆然と、彼女の姿を見送ること約一分。働き始めた灰色の脳細胞は、私に二つの真実を伝えてくれた。
一つは、彼女が動物にウイルスを感染させた原因であること。
もう一つは。彼女が一流のソーシャルディスタンサーなどではなく、ただの筋肉女子高生であったことをだ。
私はゆっくりと、彼女が歩いてきた道を目で辿る。
それから静かに瞼を閉じ、これから始まるウイルスとの戦いに思いを馳せ――体を震わせた。




