第五十七話 マゴスⅢ
「さあ――本番だ」
湖のほとりに一歩入る前でナダがそう言うと、シィナがぼそぼそと祝詞を唱え始めた。
水のギフトを使い、この場にいる冒険者たちの体に薄い水色の膜のようなものを纏わせたのである。
それは水の中でも呼吸ができ、ある程度ではあるが自由に動けるギフトであった。水のギフト使いなら誰でも使えるが、七人もの冒険者に安定してかけようと思えば、出来るギフト使いは少ないだろう。
薄い服を着ているような奇妙な感覚があるが、重さは全く感じない。体を動かすのに違和感もなく、この状態なら陸上でもいつも通り動けるだろう。
この加護については事前に説明を受けており、地上で何度か試している。だから六人は戸惑う様子もなく、そのまま湖のほとりへと足を踏み入れた。
ナダとオウロが久しぶりに見る湖のほとりは依然と変わりはしない。
湖からは今も魚人、あるいはバルバターナが這い出ている。彼らは両生類のように腹ばいになって陸に上がり、腕を使って初めて二足歩行になるのだ。体の表面がぬめっている魚人たちに武器を持っている個体は殆どいない。
彼らの多くは弱く、ラヴァの冒険者にとって一体ならば問題はないモンスターだ。問題なのは彼らの数が異常なほど多いのと、彼らの中に“三体”ほど異常に大きな個体がいることだった。
彼らをガラグゴと言う。
はぐれであり、本来ならば連携を組んだパーティーで一体倒すような相手であり、二体以上いるならすぐに逃げろ、と誰もが言うだろう。
だが、ナダ達に逃げる様子はなかった。
この日の為に準備を積んだのだ。
だからナダ達は迷いなく奥へと進み、ニレナとシィナが少しだけ立ち止まって祝詞を唱え始める。
「――溢れ出す清らかな水」
シィナは前方にいる全てのモンスターを包むかのように左手を伸ばし、右手でニレナと手を繋いだ。
「――氷の女神様」
ニレナは全てのモンスターを撫でるかのように右手を動かし、左手でシィナと手を繋いだ。
「幾多もの姿に形を変え、溢れて、絡み、縛る不定なる水の糸、常に包む水の牢獄となりたまえ」
シィナの言葉と共に、湖のほとりにいるモンスターの足元にある水が糸のように舞い上がった。
最初は糸のように細かな水であったがモンスターの体に絡むと、すぐに太くなる。だがそれ自体にモンスターを拘束する力は殆どなかった。
ナダ達を狙ってモンスター達は先ほどと変わらず動いていた。
「哀れな子羊たる私に力をお貸してください。私が望むのは凍てつく力」
だが、シィナに続けて唱えたニレナの祝詞により、モンスターに絡まった水が氷となった。
殆どのモンスターの動きが止まる。
シィナとニレナのギフトの掛け合わせ。お互いの力の量をセーブ出来て、より大きい力を生むギフトの使い方だ。
本来ならば長い年月を共に過ごすことで息が合う二人でしか使う事が出来ないギフトの使い方だが、ニレナとシィナはお互いに熟練の冒険者だ。初めて会った冒険者であっても、それなりに息を合わすことができる。
その上でずっとギフトの掛け合わせを練習すれば、このように大きなギフトであっても二人で共同して行う事が出来る。
これが、パーティー全体で考えていた作戦の一つ。
倒すのに値しないモンスターはギフト使いによって、動きを完全に止めるのだ。
だが、それでも動きだすモンスターはいる。二人のギフトでは止められない力の持ち主だ。それが“三体”も。
その内の一体にナダは駆け出した。
ガラグゴだ。
屈強な肉体に固い鱗。武器を持っておらず拳で戦うモンスターである。
ナダはガラグゴと相対すると、目の前で一瞬だけ足を立ち止まった。
以前にオウロはガラグゴの中でも変異種と戦ったと聞いた事もあったが、ナダの目の前にいるのは何回も戦ったガラグゴとそう変わりはない。
まぶたがなくよどんだ両目。分厚くたるんだ唇。水かきと爪のついた手。二足歩行の為の太い足。呆れるほどに以前倒したガラグゴと似たような個体だ。多少前に見たガラグゴよりも少しだけ体が大きいような気もするが、ナダにとっては大きな差ではなかった。
本来、冒険者は初めて会うモンスターであっても命を拾わなければならない。倒さなければならない。
だから冒険者は強くあれ、と昔から言われる。
一度倒したモンスター相手に負けるなど許されるような甘い商売ではない。いや、一度殺した相手なら以前よりもたやすく殺さなければならないのが冒険者としての責務である。
ガラグゴが拳を大きく後ろへ引く。
見慣れた行動。予測できるのは簡単な未来。腕の振り、肩の動き、ガラグゴの呼吸、全ての情報がナダに次の手を与えてくれる。
ナダは右斜め前に大きく一歩踏み出しだ。
ガラグゴが地面を強く殴る。
水と氷のギフトによって縛られたモンスターの体が揺れ動くほどの衝撃だったが、ナダは意にも介さず。ガラグゴの足元へと近づいて行く。
ナダは思わず陸黒龍之顎を持つ手に力が入るのを感じていた。
それと同時に心臓から流れる熱が全身を周り、ナダに力を与えてくれる。
そのまま力強く剣を振り上げた。
――三年。
ナダは剣を振るう前に、インフェルノから旅立った時からの事を考えていた。
長かった。
迷宮に挑戦すればすぐに攻略することができて、心臓病の治療法も知ることができると思っていた。
だが、現実はそうではなかった。
ひたすら一人で迷宮に潜る日々。モンスターを殺し、カルヴァオンを得て、また迷宮に潜る何の生産性もない怠惰な日常。それが終わったかと思えばモンスター達に殺されそうになり、また高い壁がナダの前に立ちはだかった。
それらを全て突破して、やっと今日、ナダは自分の為に迷宮を攻略しようとしているのだ。
これほど嬉しいことがあっただろうか。
いや、なかった。
この瞬間こそが、ナダが求めていたのだ。
だから余裕で倒せるはずのガラグゴにもいつも以上に力が入る。
しかし、ナダはそれを止める気がなかった。
ここで少しばかり力を使っておかないと、いつか自分が熱によって溶けそうな気がしているからだ。気のせいかも知れないが、今日はいつもよりも調子がいい。こんな日は久しぶりだ。
そして相手ははぐれと言う事だけあって、これから倒すマゴスで倒す多くのモンスターの試金石としては申し分のない敵だった。
ナダは――全力で剣を振るう。
固いはずのガラグゴの鱗はいとも簡単に斬り裂けた。ガラグゴの右ひざを切り落とし、続けざまに胴体を背骨一本だけを残して斬り裂き、落ちてきたガラグゴの頭部を切り飛ばす。
どれも瞬きの間の攻撃であり、ガラグゴは抵抗すらできなかった。
ナダは剣を振り終えて、ガラグゴが死んだことを手の感触で感じながらも、思ったことは一つだった。
この熱が冷める事はない。
いや、ガラグゴを殺したことで強まっているようにも思えた。
ああ、そうだ。このたった一瞬で自分は少しだけ成長した。この程度のはぐれなら雑魚と同じように倒せることを実感していたのだ。だが、それはナダにとって些細な成長に過ぎず感動すら抱かない。
思う事はただ一つ。
「さて、あいつらの様子はどうかな?」
見渡すは仲間のこと。
残る二体のガラグゴと戦っているパーティーメンバーの事だ。
彼らが負けるとはナダは微塵も思っていない。それだけの実力はある。
ただ、願わくば、万全の態勢で湖に入れることだけであった。




