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迷宮のナダ  作者: 乙黒
第四章 神に最も近い石
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第六話 驕りⅣ

 ぽたぽたと顔に水滴が落ちる。

 ナダが目覚めたのは、迷宮の一室だった。どこの壁も緑がかっており、床には水が張ってある。

 ナダの知るマゴスだった。


 始めたのは状況確認だ。

 周りにモンスターはいない。あの渦に巻き込まれた後、どうなったのかは分からないがどうやらこの部屋に移動したようだ。

 そしてナダは自分の体を調べた。

 傷はもう治っている。右腕は生えており、指は以前と変わらず動く。足首も治っているが、靴はなかった。裸足であるが、足の裏を地面につけて力を入れると問題なく立てそうだ。


 ナダは立ち上がって体の調子を確かめるかのように首を鳴らした。

 問題はない。

 これから冒険を行うのには全く違和感がなかった。


 だが、ナダは思わず心臓を押さえてしまった。

地上では時折激しい痛みが襲うというのに、迷宮内で痛みが襲ったことは一度もない。むしろ体の調子がよく、いつもよりか鮮明に動く気さえする。

 さらに体のどんな怪我をも治し、腕がなくなっても、足がなくなっても再生する。血を失っても死ぬことはなく、冒険者にとっては誰もが憧れる肉体だろう。


 だが、ナダにはそれが忌々しかった。

 心臓の痛みさえなければこの病に甘えていたのかも知れないが、あれは耐えがたいものだ。痛みに襲われれば自分の身を斬り裂いて心臓さえ取り出したいと思うほどなのである。


 そんな怒りをナダは捨てて、これから先の事を考えた。

 まだ迷宮の中にいるのは確実なので、地上に帰らなければいけない。

 だが、問題が幾つかある。

 まずナダは武器を持っていなかった。愛用の武器である青龍偃月刀は斬られた右腕と共に水の底へと消えていった。ククリナイフの感触は左手に残っているが、気の失っている間に落としたのだろう。少なくとも周りにククリナイフはなかった。

体に投げナイフの入ったベルトも付けていたが、今はそれすらなかった。きっと魚人たちに切られたのだろう。あの時はそんな事を確認する余裕はなかったが、今のナダに服は殆ど残されていない。傷だらけの上半身が裸であり、ズボンも膝から下はなかった。


 また今の位置がどこかも分からない。

 マゴスにいるのは間違いないようだが、ここの地形は見た事がなかった。広く開けた空間も謎であるが、モンスターが一匹もいないのも不思議だった。

 渦に巻き込まれてからの記憶はない。


 どうしてこんな場所にいるのだろうか。


 ナダは捻って考えてみるが、頭が悪く答えは出なかった。渦に巻き込まれてどこかに行って、内部変動にでも巻き込まれたのだろうか、と思う事にした。

 迷宮内で意識を失って別の場所に移動するのは初めてではない。

 よくある事なのだ。

もう慣れたものだったので、焦ることも叫ぶこともなかった。

 他の冒険者から同じような話を聞いた事はなかったが。


 手元に何も持っていないのは不安なので、近くに落ちていた緑がかった拳大ほどの石を持った。

 もしモンスターが現れて逃げる暇すらなかったら、この石で殴り倒そうと。


 それからナダはぴちゃぴちゃと音を立てながら歩き始めた。

 大部屋の終わりは早かった。すぐに狭い道へと移動する。幾つかに分かれた道を、他の冒険者が刻んだシンボルに従って歩いて行くと、大通りに差し掛かった。


 こうして歩いていると、ラルヴァ学園で一年生の事を思い出す。初めて迷宮に潜った時だ。あの時も迷宮内で武器を全て失って、拳大の石を握っていた。

 そんな懐かしい思いに浸っていると、三体の魚人、あるいはバルバターナと出会った。


 あの湖の中で見た個体とそう変わりはしない。

 彼らもきっとあの中から現れたのだろうか。もしかしたら水中でナダを痛めつけた個体もいるのかも知れないが、ナダにとっては魚人、あるいはバルバターナの区別などつかず、どれも同じに見える。

 変わらず、討伐対象だ。彼らはナダを見つけるといつものように走ってくる。冒険者を襲うのだ。

 ナダは石を強く握りしめた。

 一体の魚人が持っているのは剣であった。粗末な剣だ。それをナダに向けて振るってきた。

 それをナダは上半身を反らし、寸で躱した。青龍偃月刀だと躱す必要もなく

相手より遠いリーチから殺すことが出来るのだが、ただの石だとそういうわけもいかない。

 ナダはそれから石を強く握り、魚人の無防備な頭を殴った。頭が揺れる。

だが、ただの石の殴打程度で魚人が死ぬわけがなく、変わらずナダに剣を振るってくる。ナダは甘んじて筋肉を引き絞り、体を固めて剣を左腕で受けた。剣が食い込む。

だが、切れはしない。魚人たちの剣は切れ味が悪いのだ。

 ナダは至近距離まで近づいたことをいい事に魚人を全力で殴った。何度も、何度も。二度殴ったところで魚人の体勢が揺らぎ、足がおぼついた。そんな魚人の足を払う。


 魚人が後ろ手に倒れた。

 ナダはそんな魚人へ飛び掛かった。

 馬乗りになる。

 魚人は暴れてナダから逃れようとするが、それを止めるかのようにナダは石で殴った。顔を、何度も。

 一撃では死なない。

 だから殴った。

 一撃では死なない。

 だから殴った。

何十回も繰り返すうちに、すぐに魚人は動かなくなった。


「青龍偃月刀なら一撃で終わるのにな――」


 ナダは殺した魚人を見下ろして感慨もなく言った。

 湖に引きずりこまれる前の事を思い出しているのだ。あの時の魚人はナダにとって小さな虫と一緒だった。取るに足らない存在だった。それが武器を失っただけでこれほど倒しづらい敵になる。

 冒険者とはなんとも矮小な存在なのだ、とナダは嗤った。


「まあ、いいさ。これで俺も少しは強くなるんだ」


 ナダは血のついた石を投げ捨てて、魚人が持っていた粗末な剣を拾い上げた。

 長さは七十センチほど。刃は潰れており、欠けている。また錆びた鉄で作られており、お世辞にもいい剣とは言い難い。ナダがこれまで持ってきた数多くの剣の中で最底辺のものだった。

 だが、石に比べれば随分とましであるので、ナダはそれを肩に担ぐようにしてまた先を進む。


 それから随分と歩いて、ナダは歴戦の強者が集まったパーティーとすれ違った。冒険者組合の掲示板で何度か目にしたパーティーであり、マゴス攻略に最も貢献しているパーティーの一つである『アクアーリオ』のようだ。

 彼らに地上への道を聞いてみると、親切に道を教えてくれた。地上はまだ遠いが、彼らはここに来るまでにいくつかの紋章を書いていたようで、それを目印に帰ればいいと教えてくれた。


 どうやらナダはマゴスの最奥まで来ていたようであり、先の様子を教えて欲しいと言われたので目覚めてからの道順を言う。

 この先に目ぼしいものはなかった、と。

 彼らは非常に残念そうだったが、念のため新たな道を探索すると言っていた。どうやら数時間前に内部変動があったようだ。マゴス内のマップも大きく変化したらしい。

 ナダがいたのは、そんな新しく開けた空間だった。


 また彼らは親し気にナダにこう言った。


「君の事は知っているよ。ナダ君、だろう? たった一人でマゴスを攻略している冒険者と聞いたよ。こんな奥まで一人で来るのは凄いと思うけど、その恰好は何があったんだい?」


 特に『アクアーリオ』のリーダーであるエスキロは、ナダの姿に興味を持っているようだった。

 彼は大きな体をした人懐っこい笑顔が特徴的な男であり、背中と腰に剣を差していた。優秀なアビリティを持っていると聞いている。


「冒険に失敗したんだよ――」


 ナダはあっけらかんとしていた。


「それでも傷一つなく、生きているんだ。凄いね」


 エスキロはナダを褒め称えるように言った。


「悪運が強かっただけだ」


「この先はそんなに危険なのかい?」


「もう危険はねえよ――」


「それはよかったよ。安心して潜れるからね」


 エスキロはそれだけ言って、パーティーを引き連れて奥へと向かっていく。

 ナダはそんな彼らを見送る様子もなく、地上へと戻る。

 帰りの道のりはそんなに簡単なものではなかった。魚人から奪った剣はモンスターを数体倒すと、すぐに使えなくなる。だからナダは魚人を殺すたびに武器を入れ替えながら、地上へと戻る。


 今回の冒険の事を、冒険者組合の受付にいたいつもの受付嬢に報告すると、彼女は非常に渋い顔をしながらこう言った。


「本当に報告はこれだけでしょうか?」


 ナダが報告したのは、湖の件以外だ。

 迷宮に潜り、内部変動に巻き込まれてマゴスの深奥へと落とされた。その過程で武器や装備を失って、命からがら逃げだした、と。


「どうしてそう思うんだ?」


「いえ、非常にいい顔をしていますから」


「そうか? いつもと同じ顔だ」


「……そうですか。分かりました。今後はこのような事が無いことを祈ります。ナダ様、お疲れさまでした。怪我なども負っているでしょうから、ご自宅でゆっくりと休んでくださいませ。そして次の冒険では、幸運が待っていることを祈ります」


 彼女はナダの冒険に不信感を抱いているようだったが、ナダは水中であったことはレポートには纏めなかった。

 一人帰路について、宿のベッドで横になる。


 失敗した冒険は久々だった。

 ナダはこの日、地上に置いてきた僅かの財産以外の全てを失った。

 迷宮から持って帰ってきたのは、魚人から奪った粗末な斧と少量のカルヴァオンだけだ。


 冒険者としては致命的なはずなのに、ナダはとてもいい笑顔で眠りについたのだった。


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