第三十四話 スピノシッシマ家
入浴回は需要があると聞きましたので、頑張って書きました。
きっとこれでこの作品の人気ももっと上がると思っています。
ナダは湯船からお湯を木で作られた洗面器から掬い、頭から被る。
汗と油によって固まった髪の毛がお湯によってほぐれて、下に流れた。ナダの被ったお湯は、泥水となって床に流れる。
それを何度か繰り返し、体からあらかた汚れを落としてから今度は石鹸を手に取り、固いタオルに泡立ててから体を洗い始めた。傷跡の多い体をなぞる様に。噛み傷、切り傷、火傷など様々な傷が肌に刻まれてあった。
どれも冒険者として未熟だったためにできた傷だ。
既にどれも治っており、痛みなどなかった。
ナダはもう一度お湯を被った。
疲れた体をゆっくりとほぐすように。
「……久しぶりに戦い以外で体を動かしたな」
ナダは先ほどまでの事を思い出す。
テーラとカノンの畑仕事を手伝った後、泥で汚れた二人はそのまま風呂へと向かった。
それがここ、現在ナダがいる浴室だ。
だが、テーラとカノンの姿はない。
現在、ナダは一人で浴室にいた。
二人が浴槽に向かった時、ナダは一人で庭に残り木刀を振っていた。自分のあの程度の運動では足りなかったからだ。王都からインフェルノに帰ってからテーラと再会し、それから体を動かしてなかった。
ナダにとって体を動かすのは、義務であり、習慣だった。
冒険者になってから動けない時を除いて一日だって、体を動かさなかったことはない。暇さえあれば武器を振っていた。アビリティやギフトがないからこそ、武器を振るう力を持っていなければ迷宮で野垂れ死ぬ事が分かっていたからだ。
いや、もしかしたら不安だったのかもしれない。
ナダにとって、武器を振るう事のみが存在価値だ。
武器を振るわないことで少しでも弱くなることが怖かったのかも知れない。
だからこそ、先ほどの畑仕事の後、テーラから「一緒に入ろう」と誘われていたのだが、体を動かしたいが為に断った。息が切れて、体が固くなり、頭が真っ白くなるまで木刀を振ったのだ。
それから地面に横になって休んでいると、執事から風呂に入るように勧められた。そんな体のまま屋敷に入ることを遠回しに禁じられたのである。素直にナダは執事のいう事に従い、こうやって風呂に入っている。
大理石で作られた大きな浴槽。木で作られた洗面器や椅子。さらには部屋に置かれた数個の石鹸。どれもナダが一人で使う事ができる。何人も入ることの出来る浴槽で、ナダは一人で体を洗っていた。
体の汚れを落とすように丁寧に。
そんな時だった。
浴室の扉が開けられて、中に入る足音が聞こえたのは。
「――本当にゆっくり洗っているのですね」
しゃがれた声だった。
「あんたに言われたからな」
ナダは入ってきた足音があまりにも小さく揃っていたことから、浴槽に入ってきたのが執事だと分かった。
名前は知らない。
聞いたことがないからだ。
初老の執事だ。
ナダはそっちのほうを向こうとは思わなかった。初老の爺の裸を見る趣味などないからだ。
「ええ。その通りです。スピノシッシマ家は力こそ衰えたとはいえ、由緒正しき血を持つ者が住む屋敷です。私も多少の無礼などは言うつもりもありませんが、せめて体を綺麗にして屋敷の中を歩いてもらいたいものなのです」
「あんたらの掃除の手間も省けるしな」
「そうですね。絨毯が汚れると掃除が大変ですから」
「だろうな」
それからナダは体を洗って、洗い流すと湯船に浸かる。
白髪の生えた執事も体を簡単に洗うと、ナダと並んで浴槽に入った。
執事の体はナダに比べると数段落ちるが、それでも老人にしては鍛えられた肉体だった。腹部が出る事もなく引き締まっている。肌に刻まれた皺は悠久の年月を伺えるほど深く、それでいてしっかりとした筋肉がついている。体毛まで白髪であったが、老人とは思えないほどの若い肉体をしていた。
そんな大きな二人が並んで座ったとしても、浴槽はあまるほど大きかった。
「この浴室はですね、元々はこの屋敷の主人に作られたものなのですが、カノンお嬢様の善意によって私たちのような使用人にも開放されております。もっとも、私たちが入るのはお嬢様方の後ですが」
「……知るかよ」
ナダはお湯で顔を洗う。
その後に浴槽に背中をかけて、ゆっくりと息を吐く。こんなにゆっくりとするのは久しぶりだった。
ここ数日の列車での旅の疲れが洗い流されるような気がする。
「そうですね。客人であるナダ様には関係のない話でした。でも、ナダ様は知っていますか? 私たちのような者に入浴する機会はそうありません。私たちにとって入浴とは最高級の娯楽の一つです」
「……知っている」
昔はお湯を作るのに薪を使ったらしい。薪を使った入浴は貴族にしか行えなかった。庶民には入浴の為に薪を買う余裕もなければ、火加減を調整する使用人もいない。
今の世では、お湯を作るのに使うのはカルヴァオンだ。だが、カルヴァオンを入浴の為のお湯に使う者は庶民の中には少ない。町に大浴場はあるが、毎日入るには少々高いだろう。だが、昔よりも技術の発展とカルヴァオンの普及によって、昔よりも入浴は庶民にとって少しだけ身近なものとなった。
「でも、冒険者であるナダ様は入浴に慣れている様子です。お湯に抵抗がない。貧民街に住む子供の中には、お湯に慣れておらず嫌いなものさえいるというのに――」
「よく入ったからな」
「そうなのですか?」
「ああ――」
アギヤにいた頃、ナダのパーティーにはイリスやニレナと言った上流階級のものがいた。彼女たちはスピノシッシマ家よりも家格が上で、入浴など娯楽でもなく当たり前に行われる習慣の一つだった。だから大量のカルヴァオンを使い、当たり前のようにお湯を使う。
高い賃貸料を払うアギヤ専用の施設には他の施設とは違い、専用の入浴施設まで用意されていた。それも男性用と女性用の二つ。他のパーティーでは考えられないほどに贅を凝らした造りであり、ナダにとっては夢のような施設であったが、イリスは小さいと文句をよく言っていたのを思い出す。
「確かに冒険者とはそういうものかも知れませんね。商人とは違う方法で、巨額のお金を稼ぐ。特に素晴らしい冒険者は、財力も、権力も、並みの貴族よりも上と聞きます。ナダ様だってそうでしょう? 私たちはそのおこぼれにあやかる蛾のような存在です」
「どういう意味だ?」
「知らないのですか? あなたが契約するまで、ご主人様の領地はカルヴァオンに飢えておりました。勿論、入浴に使うカルヴァオンなんてありません。ですが、ナダ様のおかげで領地にカルヴァオンは供給されて、産業も発展しました。今ではささやかですが、こうやって屋敷の入浴に使うほどの余裕があります。全てはナダ様のおかげですよ」
「……そんな大した事はしてねえよ」
「そんな事はありません。カノン様にとって、ナダ様は支えです。私たちは所詮使用人ですから、カノン様の心の支えになることは出来ません。むしろカノン様にとっては重みでしょう。病に伏せているサラ様も、カノン様にとっては重みです。スピノシッシマ家が没落すればするほど、カノン様は私たちを切らなければならない。勿論、領地も貧困に喘ぐでしょう。彼女はそんな重圧の中で生きているのです」
サラとは、カノンの母親だ。
ナダは会ったことはないが、昔から病によってずっとベッドの上で生活していると聞いている。
「あいつの母親はそんなに悪いのか?」
「ええ。そうです。最近は起きている時間も長くはありません」
カノンの母親の詳しい病名をナダは知らない。
興味がなかった。
知っていることと言えば、家から出ずに一日中をベッドの上ですごしていることだけだ
「どんな母親なんだ?」
「お綺麗で、聡明なお方です。元々、商家の生まれなのですが、事業を手伝っており、昔はその手腕を発揮しておられました。ナダ様はしらないでしょうが、スピノシッシマ家も昔は裕福だったのですよ。旦那様が生きていて、サラ様も元気だった頃はもっと裕福だったのです」
「……回復の見込みはあるのか?」
「いいえ、残念ながら……」
「そうか……」
「ええ、でも、サラ様は立派に病魔と闘っております。カノン様も立派に務めを果たしておられます。私たちはナダ様に感謝しているのですよ。あなた様のおかげで、カノン様はまだ頑張れる」
「そう思うと、あいつの運命は酷だな。まだ若い頃から戦わなくてはいけない――」
「そうですね。私もそう思います。まだ十二歳だというのに――」
「なら、仕方ねえよ。冒険者だって似たようなものだ。俺だって十二の頃から戦っている――」
「そういうものですか――」
執事はほがらかに笑った
それから二人はしばらくの間、無言で入浴を楽しんだ。




