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迷宮のナダ  作者: 乙黒
第三章 古石
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第二十五話 秘めた思い

 唇に甘い水が落とされる。

 だが、ナダの意識は深い水底に沈んだままだった。

 体が動く気配もない。

 唇にもう一度水が落とされた。

 刺激をきっかけにナダの意識が急激に浮上する。記憶が徐々に蘇り、体の感覚が戻ってくる。右足を大きく上げて、地面を強く叩いた。先ほどまでの戦いを思い出すように。

 そして完全に意識が戻ったナダは上体を勢い良く上げて、まるで水面に浮かび上がったかのように目を大きく開けて口をぱくぱくとしながら深く呼吸をした。


「起きたようだね――」


 ナダの耳に若い男の声が聞こえた。

 きっと年齢はそう変わらないだろうと、思った。

 自分を見下ろす人物をナダは注意深く見上げた。

 やはり、彼は男だった。

 色褪せたローブを身に着けている。フードは被っていなかった。長い白髪が特徴的だった。端正な顔立ちだった。どこか優しそうな雰囲気が伺える。どこか中性的にも見えるが、太く発達した大胸筋はきっと男だろうと思えた。

 ただ、最も気になるのは血で濡れているかのように赤く目立つ目だった。その目は瞳孔だけではなく、眼球全てが赤く染まっていた。


「あんたは……?」


 ナダは振り絞るように声を出した。

 だが、その声はがらがらであり、うまく発音出来ている気がしなかった。まだ頭もうまく働いていない。

 思い出すのは浮遊感だ


「まだ気分がどこかに行っているようだね。まるで地上にいないようだ。まず、これを食べるといいよ」


 男はナダに桃色の果実を投げ渡した。

 ナダは咄嗟に投げられたそれを利き手である“右手”で受け取った。甘い香りがする果実を、大きな口を開いて頬張った。

 果実の皮に歯を食い込ませると、濃厚な果汁が口の中にあふれた。少し酸味があるが、それがより甘みを強くし、瑞々しい果肉はまるで口の中を暴れると、すぐに噛み潰されて飲み込まれた。

 ナダが普段食べている果物であるアジェドと比べると信じられないほどおいしい果実だった。

 小さくなるとナダはそれを全て口の中に含み、果肉をそぎ取って種となってから迷宮の床に吐き出した。


「美味しいだろう? それは迷宮内にしかない果実でね、地上にいる人はほとんど食べたことがないと思うよ。それに水分も補給出来て、栄養も得られる。まさに冒険者のためにある果実と言ってもいいよ――」


男はおいしそうに食べるナダを見ながらもう一つ同じ果実を渡した。

ナダも甘みを補給出来てやっと思考能力も回復しだしたのか、果実を食べながらもう一度訪ねる。


「で、あんたはいったい何者なんだ?」


 ナダは二つ目の果実の種を吐き出した。


「オレが何者なのか? それはいったいどういう意味だね?」


「……俺は迷宮から落ちたはずだ。迷宮の深部で内部変動に巻き込まれて。ということは、ここは普段迷宮に潜っている冒険者がいるよりも最下層。本来なら、前人未到の領域に俺はいるはずなのに、人と会っている。俺はいったい“誰”と会っているんだ?」


 ナダは同じように胡坐で座る男を訝しげに見た。

 冒険者なのは間違いないだろう。

 太い腕。鍛えられた肩。著しく発達した太もも。どれも太いというよりは絞られたような印象があり、ナダよりも随分と細いだろう。だが、果実を投げる腕には幾つもの獣傷や切り傷が刻まれており、歴戦の戦いを潜り抜けた戦士だという事は分かる。


「そうだね。じゃあ、まずは自己紹介をしようか。オレの名前は――アレキサンドライト。気楽にアレクとでも呼んでくれ。君の名前は?」


 アレクは隠す様子もなく、自分の事を告げた。

 そもそもナダが勝手に怪しんでいるだけで、アレク自身に隠す様子はないようだ。気楽に名乗っていた。


「……俺はナダだ」


「ナダ君だね。初めまして。よろしく頼むよ」


 アレクは右手を差し出した。

 ナダはそれをじっと見つめてから握り返した。


「ああ。よろしく」


 この場で警戒しているのはナダ一人だった。

 アレク自身は自然体だった。力すらも抜けているかも知れない。温和な表情で腰のポーチからナダに先ほどと同じ果実を差し出している。

 ナダは差し出された果実を受け取った手が震えていた。

 ああ。ナダ自身にもその理由が本当は分かっている。

 ナダは、怯えているのだ。

 歴然とした力の差に。

 アレクは――偉大な冒険者だ。

 肌がピリピリする。

 きっとナダがこれまで会ったどんな冒険者よりも素晴らしい冒険者だと、本能が気づいているのだ。


「……さて、君はオレが何者なのかと聞いたね?」


「ああ」


「君は察しがいいようだ。本当は気づいているのだろう?」


「……ああ。決まっている。アレクは、冒険者だ」


 ナダは普通の冒険者なら潜ることができないこの場にどうしてアレクがいるのか先ほどまで不思議だったが、今となっては当然だと思えた。

 アレクは、冒険者だ。

 きっとナダよりも深い階層に普段から潜っている冒険者であり、これまでに戦ったどんなはぐれであっても簡単に倒すことができると思う。


「ああ、そうだよ。オレは冒険者だよ。君と同じね」


 アレクは優し気に微笑んだ。

 ナダに敵意はないようだ。

 むしろ後輩を見るかのように生暖かい目を向けている。


「で、アレクが冒険者だという事は分かった。俺よりもきっと優れた冒険者だ。きっとこれまで俺が会ったどんな冒険者より――」


 イリスやコロアなどの先輩は勿論、ナダが出た宝玉祭にいたどんな冒険者よりも上のステージにいるだろう。

 もしかしたら現代において英雄と言われているマナでさえも、アレクの前だったら霞むようにも思える。


「それは言いすぎだよ」


「言いすぎじゃねえよ。きっとあんたは凄い冒険者だ。それなのに、どうして俺はあんたの名前を知らない? あんたの名前はどうして知れ渡っていない? あんたは一体――何者なんだ?」


 ナダはアレクを睨んだ。

 明らかに警戒していた。

 ナダは武器を持っていない。抵抗もできない。だが、強大な相手を前におびえるだけの素直な小動物でもなかった。


「オレはちょっと君よりも“古い”人間なだけさ。きっと知っている人もいる。有名じゃないが、名が知れ渡っていないわけでもない。君も調べれば出てくるはずさ。でも、君が聞きたいのはそういう意味じゃないはずだ」


「ああ。俺はあんたの正体が気になるんだ」


「オレの正体が、何者か? それを簡単に表すのならきっと、一言しかない。オレは君と一緒だよ――」


 アレクは拳を握ってナダの左胸を押した。

 ナダの心臓は、固く石ころのように固くなっている。熱はまだ失われていない。灼熱が体中を巡っているわけではないが、確かに熱はナダの左胸の奥で燻っている。その熱は今にも痛みに変わりそうで、ナダは胸が締め付けられる思いをする。

 そうだ。ナダは思い出したのだ。

 この心臓の病を治すために迷宮まで深く潜ったのだ。

 だが、手掛かりは何も手に入れられていない。


「……あんたは、この病について何か知っているのか?」


「知っているも何も、オレは君と一緒だよ。オレも患っているんだ――」


 アレクは自分の目を指した。

 確かにアレクの目は人が持っている眼球とは言いがたい。虹彩や瞳孔がなく、少しばかり透き通っているように見えた。目の中で光が乱反射して、ほんの僅かだが輝きを放っている。

 いや、それだけではない。

 ナダは気づいた。

 先ほどまで赤色に美しく輝いていた瞳が、今では深い青緑色に見えることを。

 これは錯覚なのかとナダは思う。

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