ここから永遠に
「じゃあ、私たちはこれで失礼しますね!」
「……また明日、昼過ぎに」
そう言って、レティとエリーは帰っていった。
セルジュの作業はもうほとんど終わり、明日はマチルダの絵を描くことはなく、レティの絵は乾かすだけ。
少し時間が空いたところで、エリーの絵を見ることにしたのだ。
「ええ、それではお待ちしています」
「気を付けて帰るんだよ。……って二人とも冒険者だから要らない心配かね」
そう笑いながら、手を振って見送る。
程なくして、二人の姿が見えなくなって。
どちらからともなく、手を下ろす。
彼女たちが去っていった方を見つめたまま、マチルダがぽつりとつぶやいた。
「……いいのかい? 言わなくて」
「良くはないんだろうけど、ね。
どのタイミングで、どんな顔して言ったらいいのやら」
無意識に、胸に……肺に手をやる。
まだ、発作は来ない、が。
ずん、と鈍く重い感覚は拭いようもなくて。
「……完成した時、かな……やっぱり」
「順当にいけば明後日、かい?」
「そうなるように、がんばるよ」
やや自信なさげにそう応える。
……正直なところ、もう、ほとんど完成と言っていいのだ。
後はもう、自分の満足とのせめぎあい。
どこが、と言葉にできない領域の話なのだから。
「ああ、満足いくとこまで、さ……がんばっとくれ」
ぽん、と背中を労わるように叩く。
その感触に、おっと、と目を見開き、細めて。
「どうしたんだい、なんだか今日は優しいね?」
「ははっ、たまには、さ。
それに、今からお宝を運ぶのを手伝ってもらわないと、さ」
そう言いながら、室内を振り返った。
傾きかけて薄っすらと赤らんだ光を浴びたその絵は、少し照れているようでもあって。
何よりも、その持っている温度が、一層暖かくなっているようだった。
「そう、だね……お宝、にしてくれると、嬉しいな」
「バカ言ってんじゃないよ。……とっくに、さ」
そういってそっぽを向いたマチルダの耳は、夕日に染まったかのように赤かった。
絵に保護用の布をかけて、軽く縛って。
えっちらおっちら、二人で運んでいく。
途切れることなく続く、他愛ない会話。
時々交互に二人で。時々二人で支えて。
気が付けばいつしか、見慣れた家の前。
「やれやれ、やっとこさ、だねぇ」
「お疲れ様。……まあ、これ抱えながらだったし、ね」
そう言いながら、ふぅ、と汗を拭う。
秋めいて涼しくなってきたとはいえ、まだ日があるうちにそれなりの運動をすれば汗ばみもして。
慣れないなぁ、と心の中でちょっとだけ弱音をこぼす。
ふと少しだけ黄昏ていると。
「かあちゃんお帰り!
……あれ、とうちゃん何でいんの?」
扉が開くと、活発そうな少年がマチルダへと声をかけて。
ついで、セルジュを不思議そうに見つめた。
「いや、なんで、って……この絵を運んできたからなんだけど」
「絵? へ~、なんでそんなのうちなんかに運んできたのさ?」
不思議そうに首を傾げる少年……テオの顔を見ているうちに、悪戯心が湧き上がってきて。
「なんでかは、かあちゃんに聞いたらいいと思うよ」
「……余計な事言うんじゃないよ、あんたは!」
恥ずかしそうにしていたマチルダが、手加減なしにその背中を叩いた。
「ふぁ……え、誰、これ。
かあちゃん、だけど、え、何これ」
混乱したような声を、テオが零す。
布を外され、露わになった絵を前に、彼は立ち尽くしていた。
混乱と、高揚と。
その両方の感情に翻弄され、身動きもできない。
確かに知っている人。
まるで知らない空気。
いや、知らないわけでもないのだが。
滅多に感じることのなかったそれ。
「とうちゃん、やりすぎだろこれ」
「うっさいよ、あんたは!」
ばしん、とテオの頭を叩く。
やりすぎ、とは自分でも思っていたからなおのこと。
八つ当たりを受けたテオは、涙目で抗議している。
「んだよ、かあちゃんだって自分でもわかってんじゃん!」
「やかましい、わかってるから言われたくないんだよ!」
唐突に始まった親子喧嘩に、セルジュは絵をこっそりと避難させる。
……相変わらずだ。
そう、内心で呟く。
その空気は、随分と心地よかった。
店を営むマチルダの両親も戻ってきて、少しぎこちなく挨拶をして。
飾られた絵についてああだこうだと話して、食卓を囲んでいるうちに打ち解けて。
食事の間も他愛もない親子喧嘩を繰り広げるマチルダとテオに思わず笑って。
時間は、あっという間に過ぎていく。
「そろそろお暇しないと、だね」
そう言いながら、セルジュが立ち上がった。
マチルダの眉が、少しだけ歪んだ。
「なんだい、なんなら泊まっていけばいいじゃないか」
「あはは、それも考えたけど、ね。
でも、ごめん。戻ってあの絵の次を考えたいんだ」
困ったように、笑う。
そんな顔を見せられたら、困るのはこっちだ。
そう、マチルダは心の中で愚痴る。
「なんだ、とうちゃんもう帰んの?
んじゃ、またな!」
テオはあっさりとしたもので、軽く手を振る。
その姿に、二人は一瞬言葉に詰まる。
「そう、だね……また、ね」
瞳が揺れそうになるのを堪える。
声は、震えていない、大丈夫だ。
マチルダが一瞬天井を仰ぎ、息を吐き出して。
何かを堪えるような切なげな笑顔を見せた。
「ああ、また、ね……。
セルジュ。……あの絵、ありがとう。
すごく……すごく、嬉しかったよ」
ぐ、と胸を掴まれるような感覚に、言葉が詰まる。
何も言えず、見つめあって。
……ああ、この顔も描きたかったなぁ。
そんなことを思う自分は、本当にどうしようもないらしい。
「ありがとう、気に入ってくれて。
……ありがとう、その……色々、と」
言いたいこと、言えないこと。
語るには、あまりにありすぎて。
あまりに時間が足りなくて。
きっと、人はそれを未練と言うのだろう。
「じゃあ……二人とも、お義父さんもお義母さんも、お元気で」
振り切って、笑顔でそう挨拶。
満点の星空を背景に浮かべたその笑顔は、そのまま虚空へ飲み込まれそうで。
「ちょ……セルジュ!」
手を伸ばそうとしたところで、扉が閉じた。
「かあちゃん? どうかしたの?」
その言葉に、ぐ、と色々なものを飲み込む。
一秒だけ、時間をかけて。
「いや、忘れ物でもしてそうな顔してたから、さ」
そう、笑った。
……笑えた、はず、だ。
この、唐変木っ
心の中で、一度だけ罵倒して。
振り切るように、扉に背を向けた。
忘れていたものを味わった。
人として満足できたそれに、画家としては、さて。
飢えた画家は、家路を急ぐ。その飢えを満たすために。
次回:画竜点睛を欠く
その時彼が見た色を、誰も知らない。




