時は過ぎ、しかし
「何こんなとこで寝てんだい、相変わらずだねぇ!」
ばしん。
どすん。
突然の衝撃が、二回。
「うわっ、な、何、何だ!?」
床に転がったセルジュが、慌てて上半身を起こし、周囲をきょろきょろと見回す。
カラカラと陽気に笑うマチルダの顔が目に入り、がくりと肩を落とす。
「マチルダ、起こすならもうちょっとこう、別のはなかったのかい」
「何言ってんだい、そんな長椅子で昼過ぎまで寝こけてる方が悪いんだろ?
今日はあたしを描いてくれるんじゃなかったのかい」
ほれ、と指さされた窓を見れば、すっかり明るくなっていて。
ああしまった、とガシガシ頭をかく。
昨夜はずっと、絵を眺めていた。
ランプの薄明りの中に浮かぶ、未完成のそれは妙に幻想的で。
自身の構想を次から次へと引きずり出しては虚空へと葬りさる、そんな贅沢な時間を過ごしていた。
どうやら、そのまま意識を失っていたらしい。
「ああ……すまない、昨日は、大分乗っちゃってね……」
「だろうねぇ、碌に片付けもしないで、まあ。
こういうところは相変わらずだねぇ」
呆れながら、ざっくりと多分今日使わないであろうものを片付けていく。
さすがに、何年かは連れ添った仲だ、どれを片付けていいかをわかった手つきで。
「ところでマチルダ。すまないついでに、もう一つ謝ることがあるんだけど」
「ん? なんだい、急に改まって」
この前からどうにも以前になかったところが増えてはいるが。
こんな殊勝な態度はなんとも珍しい。
「いやね、実は……もう少ししたら、例のモデルと、弟子が来るんだ」
「は?? え、なんで、モデルが? ってか、あんたいつの間に弟子なんて」
「……ごめん、君を描くってうっかりもらしたら、見学したいって。
それに、練習もしないといけないから、どうせ来るつもりではあったみたいだし……」
ガシガシと頭を掻く、都合の悪いことを誤魔化そうとする時のくせ。
じとっとした、据わった目で思わず睨みつける。
なんとも居心地悪そうにしているが、知ったことではない。
「へぇ? つまりあんた、あんな綺麗なお嬢さんを前にして、こんなおばさんにおすまし顔で座ってろってのかい?」
「だ、大丈夫だ、君なら問題ない!」
「問題大有りだっての、フォローになってないよ!」
ばしん!
と、今日二度目の、一際大きな音が響いた。
「ええと……どうも、はじめまして」
「は、はじめまして! 師匠にはいつもお世話になっています!」
程なくしてアトリエを訪れた二人を前にして、マチルダは沈黙した。
しばらく、二人をじっと眺めて。
ちょいちょい、とセルジュを手招きする。
「ん? なんだい?」
「なんだい、じゃないよこの唐変木!!
弟子までこんなお嬢さんって、あんた何やってんのさ!!」
もう一度、大きな音が、響いた。
「すまないねぇ、あんたらがあんまりにも美人さんだったもんだからさ。
あたしはマチルダ、聞いてるだろうけど……この唐変木の、元女房さ」
一通りセルジュをとっちめたのち、そう挨拶する。
……突然目の前で繰り広げられた夫婦漫才、いや、元夫婦漫才に目を丸くしていた二人は、何とか気を取り直して。
「私は、イグレット……モデルを、してる。よろしく」
「あ、私は、エリーと申します。セルジュ師匠に無理いって弟子にしていただきました!」
そっと、セルジュのフォローを入れるあたり、できる子である。
気づいたマチルダは、目を細めて笑みを浮かべ。
「ちょっとセルジュ、あんたにゃもったいないくらいの良い子たちじゃないの」
「……それは、全くその通りなんだけどさ……。
そういうわけだから、もうちょっと手加減して欲しかったな……」
涙目で背中をさすりながら、セルジュはそうぼやいた。
「それじゃ、マチルダはここに座ってもらって、と。
エリーさんは、あちらでイグレットさんを描く練習を。
……いきなり見学されると、マチルダが多分緊張しちゃいますから」
指示を出しながら、自身もイーゼルをセッティングしていく。
今日はまだ、キャンバスではなく、紙に画板だ。
「おや、今日は練習かい?」
「そうだね、久しぶりは久しぶりだから、掴んでおきたくてね」
そう言いながら、椅子に腰かけ、木炭を手にする。
まずは正面から、と言う前にマチルダが正面を向いた。
じぃ、と見つめれば、見つめ返されて。
……さすがに、少し緊張しているだろうか?
そんな彼女が珍しく……少し、可愛く。
ふ、と微笑むと、なんだい、と少し機嫌を損ねたような顔。
いやいや、と小さく首を振れば、やれやれと肩を竦められ。
気が付けば、いつものマチルダの笑顔になっていた。
「さ、じゃあ、いくよ」
そう声を掛ければ、木炭が躍る。
……改めて、年を、取った。
髪に、肌に、目元に、口の端に。
それは、容赦なく刻まれている。
正直なところ、少しくたびれてもいるだろう。
なのに、自分の目に映る彼女は決してみすぼらしくはなくて。
生きている。そんな言葉が、浮かぶ。
きっと、彼女が生きている、それだけで意味があるのだろう。
だってこんなにも、筆が動くのだから。
彼女から、描いてくれと言いだしてくれて良かった。
今の、少し距離を置いた自分と彼女なら、いい関係でいられる。
良い絵になる。
そんな確信を得ながら、心の赴くままに木炭を躍らせる。
こちらの考えていることが、マチルダに伝わってしまっているのだろうか。
どこか困ったような、照れくさそうな笑みを見せていた。
「……レティさん、見ました? 今の」
「……ええと、見てた、けど……なんだか、不思議なやりとり、だったね……」
「あれが、目と目で通じ合うってやつですよ。
……私たちもあんな風になりたいなぁ……」
脇で練習をしているふりをしながら、そんな光景を見つめている二人がいた。
思うように動く筆、自分を支えてくれる人々。
満ち足りて、キラキラと光るように全てが見えて。
それを、一瞬だけ、忘れてしまった。
次回:輝く日々の、儚さは
しかし、だからこそ、愛おしい。




