人間の、目覚め。
書いているうちに、予定がずれてしまいました……当初のサブタイトルから変更します。
……そして、朝の光に目を覚ます。
若干の気怠さはあるが、いつもに比べると随分と頭がはっきりしていた。
ゆっくりと呼吸をすると、嗅ぎ慣れたシーツのかび臭さに混じる、久しぶりの匂い。
……案外、忘れてないものなんだな、と苦笑する。
お互い、年を取った。それはわかっていたし、よくわかった。
それでも案外と馴染むものだ、などと言ったら彼女は怒るだろうか。
ふと、漂ってくる匂いに気付いて体を起こす。
そういえば、これも何度も嗅いだことがあるな、なんて思いながらベッドから降りると、伸びを一つ。
若干節々が痛いが、まあ気にするほどでもあるまい。
簡単に身繕いを済ませると、台所を覗き込む。
予想した通りの後ろ姿が目に入る。
「おや、もう起きちまったのかい。後で起こそうと思ってたのに」
「なんだか目が覚めちゃってね。何か手伝おうかい?」
「よしとくれ、あんたに触られちゃ、かえって邪魔だよ。大人しく座ってな」
追い払われるように手を振られると、仕方なしに大人しくテーブルへと座る。
……いつもより片付いているのは、決して気のせいではないのだろう。
そして待つことしばし、食事が運ばれてきた。
簡素なスープに、パンは今朝パン屋で買ってきたのだろうか、まだ柔らかい。
ありふれて、覚えのある食卓。
簡潔に祈りの言葉を唱えて手をつける。
「……久しぶりに人間の朝を迎えた気分だよ」
「ほんと、あんたほっとくと何もしやしないんだから」
咎めるような口調に、ごめん、と小さく謝る。
お互いにそれを諦めて受け入れられたのは、年を取ったからだろうか。
言葉に棘はあるが、それは、枯れて丸くなっている。
少し、沈黙が流れて。
「ねえ、セルジュ。
今度でいいからさ、あたしをまた描いてくれないかい?」
「また? 君の絵は何枚も描いただろう?」
そして、その時は緊張していたり、退屈そうにしていたり……少なくとも好きそうではなかったが。
「そうだけどさ、今のあたしを、今のあんたに描いて欲しくなっちまったんだよ。
……それとも、こんなおばさんじゃ嫌かい?」
そんな恥じらうような表情はどれくらいぶりだろう。
釣られて、こちらも照れくさくなってしまう。
「そんなことないさ、その、マチルダは今も魅力的だよ」
「ははっ、そいつは嬉しいね。
まあ、そうだよね、少なくとも……元気になってもらえるくらいには、まだね」
からかうような言葉に、思わずスープを吹き出しそうになって、むせる。
しばらくゴホゴホと咳き込み、口元を拭いてから。
「……朝っぱらからそういうのはやめてくれないかな……」
そう抗議しながら、その表情は満更でもなさそうで。
こんなやり取りをどこかで楽しんでいる自分は、確かにいた。
「それなら、早速今日から描こうか? ちょうど、あの絵を乾かさないといけない日だから」
「へ? いやぁ、さすがにそいつは急すぎるよ、うちのこともしないとだし。
じゃあ、明日またあの絵を塗るわけだから……明後日からなら?」
随分と乗り気なセルジュに、今度はマチルダが慌てる。
それでも指折り数え、これなら、と頷くあたり、彼女も人のことは言えない。
うん、とセルジュも頷き返して。
「じゃあ、明後日から、始めよう」
今の自分で、今の彼女を。
それはそれで、心が浮き立つような感覚があった。
……ただ、どうして急いで描こうとしてるかは、言えないままだったが。
朝食を食べ終えて片付けると、軽く掃除までして。
ついでに、セルジュの服を洗濯して、今日着るものはせめてもと皺を伸ばしてやって。
「ほら、ちったぁシャンとしなよ? 折角お嬢さんたちが来てくれるんだからさ!」
バシン、と背中を叩いて笑顔を見せると、マチルダは家へと帰っていった。
また咳き込み、涙目で抗議しながら、それを見送る。
そうして、一人室内に戻ると、ふぅ、と吐息をもらす。
「あ~あ、まいったな……予定が崩れちゃったよ」
そう言いながら、描くつもりだった画布へと目をやった。
生活のために、マルダーニの要求する絵を描く。
そんな気持ちは、もう完全になくなっていた。
それに、先日何枚か渡したのだ、しばらくは来ないだろう。
「まいったなぁ……本当に。
描きたい絵が二枚もできちゃうなんて」
レティをモデルにした絵は、今も描きたくて描きたくて仕方がない。
そして、マチルダの絵も、間違いなく描きたくて仕方がない。
ただ、その欲求が出てくるところが、少し違う気がして。
じぃ、と描きかけの絵を眺める。
もっとこうしよう、ああしよう、と画家としての本能のようなものが訴えかけてくる。
今も収まることなく、昨日の構想の続きがすぐに湧き出し始める。
では、マチルダを描きたいと思ったのは?
「……本当に、まいったなぁ……」
そのことに気づいて、両手で顔を覆う。
どうやら、人間として、彼女を描きたいらしい。
自覚してしまうと、酷く恥ずかしく、照れくさい。
「……どんな顔して、今から来るあの二人と顔を合わせればいいんだ……」
途方にくれたように、ぼやく。
どうにかして、誤魔化せないものか。
そんなことを考えていると、妙案が浮かんだ。
これなら絶対に誤魔化せる。間違いない。そう、確信していた。
そしてセルジュがある提案を告げると。
「え。……え?」
反応に困ったように時折ちらちらとエリーの方を見るレティと。
「師匠が、私たち二人の絵を描いてくださるんですか!?
しかも複数ポーズで!?
お願いします、お願いします、土下座でもなんでもします、言い値で払いますから、ぜひ!!」
すでに土下座しているエリーがいた。
こんな生き方をしてきた。
こんな生き方をしている。
その全てが自分を形作っているのだから、その自分が描くこれは、きっと。
次回:その筆に、籠めたもの
そして、その筆が描くものは。




