戻れぬ日々
そして、翌日。
「……イグレットさん?
なんだか、こう……疲れてませんか?」
「違うから……気にしないで……」
昨日と違う表情が気になったセルジュが声を掛けるも、張りの無い声でそう返されては、疲れていないようにはまるで見えない、のだが。
あまり触れられたくない空気が出ていたので、触れないことにした。
……反面。
「エリーさんは、なんというか、元気いっぱいですね……?」
「ええもう、描きたくて描きたくて描きたくて!!
辛いくらいでしたよ、昨夜は!」
ツヤツヤ。
そう表現するしかない表情、肌の艶。
何があったというのだろう。
……まさか。
いや、どうやらそうでもないようなのだが。
それでも、明らかに昨日とは違う空気に。
……何が、あったんだ……?
心の中で何度も、そうつぶやかざるを得なかった。
そうして、モデルのレティが椅子に座り、セルジュとエリーがそれぞれの構図でそれぞれに画板を構える。
すでにその時点で、かなり居心地悪そうにしていたのだが。
「……エリーさん、ちょっと待ってください。
それはさすがに、デフォルメのし過ぎです。
いずれはそういうのもいいかも知れませんが、今はもっと忠実に」
「はっ?! す、すみません、つい、色々とあふれ出してしまって!」
……見たくない。見てはいけない。
でも、ちょっと見たい。
そんな感情に、微妙にもじもじとしてしまう。
「まあでも、こういうのもありだとも思うんですよね……。
こう、エリーさんの熱意みたいなものが伝わってきます」
「そうですか!? ありがとうございます、気持ちだけは目いっぱい籠めてますから!」
そんな二人の会話に、知らず、顔が赤くなる。
見られている。
描きあがったばかりのラブレターが、見られている。
それは、どうしようもなく恥ずかしいのに。
その意味するところは、レティとエリーの二人しか知らないのだから、セルジュを止めるわけにもいかない。
もしかして、恥ずかしさで死ぬのかな。
そんなことまで思ってしまう。
それでいて、セルジュはあくまでも技術的な話をしていて。
エリーはそれに応じているようでもあり、確信犯的でもあり。
二人の会話を聞いているレティは、止めることができなかった。
そうして、レティがいたたまれないままモデルになる日々が続く。
その間に、エリーにもりもりバリバリと描きまくられて、セルジュからスケッチされて。
「うん。……やっと、イグレットさんが掴めたかな。
明日から、本格的に描いていきますね」
セルジュが、そう宣言した。
その間に描かれた、エリーにとってのお宝は、膨大な数になっていた。
「やっと、ですか……。
師匠でも、そんなにかかるものなんですね……。
でも、うん、なんだか……質感だとか、そういったものがさらに表現されてるように見えます」
セルジュの描き上げてきたスケッチの数々を見比べる。
最初から、素晴らしい作品だったのだけれど。
それが枚数を重ねるごとに、さらに、さらに……真に迫ったものになっていた。
「私だって神様じゃないですから、いきなりは無理ですよ。
何枚も、色々な角度から描くことで対象の質感を掴んでいかないと。
……できれば、外だけでなく、中まで。
金属と木だと、同じ四角のブロックでも明らかに違うでしょう?
それをどこまで表現できるか、だと思うのですよね、私は」
そう言いながら、何も見ずにささっと、二本の四角柱を描いた。
……明らかに片方は冷たく硬質な金属であり、もう一方は温かみのある木製だった。
それを見たエリーは、しばし沈黙して。
「師匠、これもいただいていいですか?」
「え、ええ……それは、構いませんが……」
通常運転のエリーでもあり、さらに加速しているエリーでもあった。
そうして、ついに。
「では、今日は本番、の下書きに入りますね。
イグレットさんには、いつも以上にモデルとして要求していくことになると思います。
……まあ、大体こなしてはくれてますけども」
あの日以降、慣れはしないものの、なんとか表情を作り直すことはできるようになった。
体をコントロールするのと同じように表情をコントロールするのだ、できないわけがない。
……その、はずだ。
若干、当初は硬かったかも知れない、が。
「ん、わかった……いつもよりも気を付けてポーズを固定する」
こくり、と頷く。
いつもより真剣みの増したセルジュを見ていると、自分も身が引き締まる思いがする。
今までも彼の凄味のようなものは幾度も感じていたが、今日は特に違う。
どうやら今までは本当に練習で、これからが本番らしい。
そんな彼の眼に晒されるのだ、気を抜くわけにはいかない。
「拝見させていただきます、師匠!」
普段ならばひたすらに描きまくっているエリーが、雰囲気を感じ取ったのか観察モードだ。
一瞬たりとも見逃せない。そんな予感がする。
「……あまり見られても緊張しますが……そうですね、見ててもらうのもいいでしょう。
では、いきますね」
既に地塗りも終わらせていたキャンバスを、イーゼルに立てかける。
それを合図に、一つ、大きく呼吸をして。
要求されたように、窓に向かって斜めに椅子を置き、背筋を伸ばして座る。
少し顔はさらに右へと向けて……セルジュからは、真横の顔が見えるように。
指は緩く腹部の前で組み、自然に、しかし凛とした姿であるように。
そうして、視線はどこまでもどこまでも、遠くを見るように。
じぃ、と見つめることしばし。
ざぁ……と、太めの筆を使って下塗りを始める。
完成形をイメージして、その陰影をイメージして、それをそっと支えられるように。
まだ、そこには何も見えない。
「これが、下塗り……どんな意味が、あるんだろう……」
もうしばらくすれば、この下塗りは見えなくなる。
だから、その下塗りすら記憶にとどめようとする。
下塗りが終われば、木炭での素描が始まる。
普段のスケッチよりもさらに淡いタッチ、ざっくりとした捉え方。
それでも既に、奥行きも質感も、表現され始めている。
雑然とした空間、差し込む柔らかな光、その中で輝く眼差し。
そこにさらに、厚みが加わる。
荒描きで陰影をさらに強く、深く。
そうすることで、形がさらに、浮かび上がってくる。
画面の世界の中に、何かが息づき始めていくのが、嫌でもわかって。
「……ふぅ。今日はここまでにしましょうか」
セルジュがそう声を出すまで、二人とも声も出せず、微動だにできなかった。
「はっ!? あ、し、師匠、お疲れ様です!
……なんていうか……すみません、凄かったとしか言えないです……」
「同感……。殺気、じゃないけど……そんな張りつめ方してた、ね……」
口々に、二人してそんな感想しか出せない。
セルジュは、そんな二人の反応に、むしろ満足そうにしていた。
こんな生き方しかできない人間だった。
そんな生き方を支えられない人間だった。
それでも、互いを嫌ったわけではなかった。決して。
次回:すでに、懐かしいあの日
それは、悲しい程に切なく、甘く。




