そこに、見えたもの
しばしの休憩を挟んだ後、再度スケッチが始まった。
先程と同じ窓の外を見るポーズで、今度はセルジュが座る位置を変え、右から。
しばらく椅子の具合やイーゼルの角度を調整して、いたと思えば、おもむろに木炭を手にして。
また室内に響きだす、刻み込むような音。
窓の外を向くレティの後頭部しか見えない構図に、どうしてこんな構図を?とエリーは思っていたのだが。
作業が進むにつれて、納得してしまった。
長い黒髪。
ただそれだけ、と認識していたものが、そうでなかったと気づかされる。
窓から差し込む昼下がりの光、それによっておぼろげになってしまった輪郭。
身体を彩る艶やかな黒髪が、内から外へと向かうにつれて光を纏っていって。
光と影、その曖昧な境界へと溶け込んでいくように、消えていく。
「はい、イグレットさんお疲れ様でした」
「……もう出来上がったの……?」
そんな声に、はっと我に返る。
立ち上がり、こちらを振り返ったレティを見た瞬間、思わず駆け寄って抱き着いてしまった。
「え、ちょっと、エリー?
……どうしたの、一体……ちょ、ちょっと、くすぐったい……」
抱き着かれた上に、いきなり体をまさぐられ始めたレティが小さく抗議の声を上げるが、エリーは意に介さない。
存分にまさぐってその体を確かめた上で、ぽつりとつぶやく。
「良かった、ちゃんとある……ちゃんといる……」
「……エリー、なんだか凄く理不尽な扱いを受けてる気がするのだけど……」
ようやっと安心したようなエリーに、若干じとっとした目を向ける。
それに気づいたのか、慌てて取り繕うように手を振って。
「あ、すみません、その、ですね……。
なんだか、レティさんが消えてしまったような気がして……確認したくなってしまいまして……」
「え、なにそれ……急に?」
「この絵見てくださいよ、これを見てたら急に、ですね……」
と、自分が見ていたスケッチをレティにも見せる。
それを目にしたレティは、しばらく沈黙して。
「……これは、ああなっちゃうのもわかる気がする……。
私が、こんな風に見えてたの?」
レティがそう言いながらセルジュの方を振り返った瞬間、エリーが雷に打たれたように硬直した。
わなわなと震えるエリーを、どうしたんだろうと心配そうに見ながら。
「ええ、そうですね……少し強調した部分もありますが、おおむね。
イグレットさんの髪質や、光との関係を掴むために描いたので、ちょっと一部光の効果を強調して描いたりはしてますね」
「なるほど……」
納得したように、スケッチへと目を戻す。
そこに描かれた自分は、顔を背けているのも相まって、どこかに消えてしまいそうな不安感もあって。
……かつて、消えそうに見えたエリーの手を思わず握ってしまったことを思い出して、少し気まずそうに目を反らした。
すると、何かを決意したようなエリーの顔があって。
はて、と小首を傾げる。
「……セルジュさん、お願いがあります」
「はい? 私に、ですか?」
「ええ、あなたにしかお願いできないことです」
普段の明るい声色と違った真剣な声に、セルジュも思わず姿勢を正しながらエリーに向き直る。
そのセルジュを、きっ、と見据えるとエリーは口を開いた。
「私に絵を教えてください!」
あまりに予想外な言葉に、一瞬沈黙が落ちる。
セルジュも、レティも言葉を失い、何度も瞬きしながらエリーを見つめて。
「……はい? そ、それは、構いませんが……」
「エリー、急にどうしたの?」
唐突なエリーのお願いに、困惑する二人。
そんな二人を、エリーは交互に見やって。
しばし、堪えるように沈黙。
そして。
「私、悔しいんです。
同じように見ていたのに、セルジュさんには、私に見えなかったレティさんが見えていたことが。
表現する技術がないことは仕方ないと思いますけど、見えていなかったことが、悔しいっ」
真剣な目で訴えるエリーに、レティはたじろぐが……セルジュは、真剣な目で受け止めていた。
こくり、と重々しく頷く。
「わかりました。そうおっしゃるのならば、私が絵を教えましょう」
「え、でも……セルジュも絵を描かないといけないんじゃ……」
重々しく、しかし明確にきっぱりと受諾する様子に、レティの方が慌てる。
そんなレティへと、セルジュは笑いかけて。
「だから、描きながら、にはなっちゃいますけど。
……嬉しいんですよ、私。たったこれだけで、絵に大事なものを見抜かれて」
そう言いながら、書き上げた2枚のスケッチを眺める。
たった2枚のスケッチ。
だが、そこには自身の持っているものを籠めた。
それが見抜かれたことが……伝わったことが、嬉しい。
「私が思うに、ですが……絵には技術も必要なんですけど、もう一つ大事なものがありまして。
それが、目であったり、頭だったりすると考えています。
目に見えたものを、切り取って。その意味するところを解釈して。
自分の解釈も加えて、再構成して。
技術は、それを形にするためのものでしかないのかも知れません」
最初はその技術に驚いていたエリーが、次には自分の描いたスケッチの解釈に驚いていた。
そこまで理解されたことは初めてで。
それが、やけに嬉しい。
「エリーさん、私が教えられるのは技術的なことがほとんどです。
でも、その技術を通して、私が見ていたものと近いものは見えてくるかも知れません。
それが、お望みなんですよね?」
「はい、その通りです」
こくりと頷くエリーに、うん、と頷き返し。
「多分、簡単に見えるものではないです。
構いませんね?」
「もちろんです!
簡単に見えるものだったら、それはそれで悔しいですし!」
力強く言い切る姿が、眩しい。
ああ、自分にもこんな時が、きっとあった。
もう、思い出すこともできないけれども。
「わかりました、しっかりついて来てください」
「はい、セルジュさん! いえ、師匠!」
……師匠呼びはまだ早いんじゃないかな。
そう、苦笑する。
彼女にはまだ何も教えていないし、何よりも自分自身が。
それでも。
呼ばれたからには、相応しく。
背筋を伸ばして、再び絵へと向き直った。
そして、木炭を手に取り画面に向かう。
自分に見える世界を描くために。残したいものを残すために。
すぐ目の前に、遥かな高さの壁はあるけれど。
次回:最初のレッスン
その時間は、きっと掛けがえのないもので。




