明日と、昨日と、今日と
「すみません、取り乱しました……」
セルジュが顔を覆っている間、沈黙が流れて。
それが収まって、もうしばらく。
ようやっと落ち着いたと見えて、顔を上げた。
……目元が赤くなっているのは、仕方のないことだろう。
「いや、驚きはしたけど……色々あるんだろうとも、思うから……」
「ええ、一応私たちも、それなりに世間を見知ってはいますので、大丈夫です」
見知った世間、は酷く限定的で、酷く凄惨なものだったりはしたが。
それでも、彼の醜態に動揺するようなことはなく。
……彼の情動を、馬鹿にするほどに擦れてもなく。
二人の、色々な意味で外見にそぐわない落ち着きに、しばし目を瞬かせる。
「……やっぱり、モデルをお願いして、良かったのかも知れません」
あの時、自分が見たもの。
この人が秘めたものは、普通の人とは何かが違う、という直感。
それは、どうやら間違いではなかったらしい。
「それは、実際に描いてもらわないことにはわからないけど……」
「何言ってるんですか? レティさんがモデルな時点で間違いはないですよ!
その上、こんな技術の持ち主に描いてもらうんですから!」
「うん、だからね、エリー、ちょっと落ち着こう、ね?」
間違いではない。
二人のやり取りを見ているだけで、先程までの湿っぽい空気が押し流されていくのだから。
「はは、そこまで言ってもらえると、何だかプレッシャーですね」
「そうですよ、ちゃんと描いてくださいね?」
「……エリー、その目はやめようか……その、人も殺せそうな目は……」
ギンッ! と擬音が付きそうな瞳でセルジュを射抜いたエリーを、たしなめる。
ああ、本当に。
何とも、身が引き締まる思いだ。
若干の恐怖と、多大な重圧と。
何よりも、自身への期待で。
セルジュは、いつの間にか笑みを浮かべていた。
「それでは、本格的なモデルは明日から、ということで……」
「わかった。明日の昼過ぎにここに来ればいいんだね?」
「ええ、それでお願いします」
その後、しばらくアトリエに置かれている道具や他の作品などを紹介して。
今後の段取りが説明されて、その日はお開きとなった。
「では、失礼しますね~」
「……じゃあ、また明日」
「ええ、ではまた明日」
二人へと手を振り、見送って、アトリエのドアを閉める。
……途端に、馴染んだいつもの閉塞感が漂い始める。
所詮はこんなもの、と思う自分と。
今度は違う、今度こそは、と思う自分と。
二人の自分がせめぎあい、そして結論は出ず。
ふぅ……とため息を吐きながら、天井を見上げた。
煤けた、馴染んでしまった、天井だ。
……変われるのだろうか。
自分ですら、ばかばかしいと思っていた。
なのに、今日会ったばかりの自分を、二人も信じてくれた。
信じても、いいのだろうか。
そう思えてしまうくらいに、あの二人の言葉には真実味があった。
「とは言っても、今までのみたいな物まねはダメなんだけど、ね……」
自分に、できるだろうか。
あの瞬間、彼女の中に見たものを、取り出せるだろうか。
この、自分の手で。
じ、とまた自分の手を見つめた。
……と。
「ぐふっ、ご、ふっ!
あ、か、がはっ!」
唐突に、激しく咳き込んでしまう。
ずるずると力なく崩れ落ちながら、時々痙攣のように体を跳ねさせ、這いつくばる。
……いつものことだ。
そう、自分に言い聞かせる。
しばらくして、発作のような咳がようやっと収まり。
ごろり、力なく床に横たわり、四肢を投げ出す。
あの二人がいる間に出なくて幸いだった。
最近、この咳が出る間隔が短くなっている。
じくじくと響くような熱を持つ肺は、前よりも重く、熱くなっているようにも感じられて。
「……頼むから、もってくれよ……」
そう、自分の体に言い聞かせる。
目を閉じて、深く呼吸することに集中して、しばし。
やっと、なんとか呼吸が落ち着いてくる。
やれやれ、と体を起こした時、だった。
ドンドン、と扉がノックされる。
「セルジュ、いるんだろ。
例の物はできているのかね?」
そう、声がする。
最低の体調の時に、最低の客が来たもんだ。
そう、心の中でだけ呟く。
「マルダーニさんですか、ちょっと待ってくださいね」
少しずつ力が戻ってきた体に鞭を入れて、何とか立ち上がる。
一度だけ、深呼吸。
ノブに手をかけて、ゆっくりと、開く。
「やはりいたか。
……顔色が悪いな、また発作かね」
「ああ、ついさっき。
今は、落ち着いちゃくれてます」
力なく、愛想笑いを浮かべると、アトリエの中へと案内する。
画商のマルダーニ。
貴族の人脈が太く、様々な画家を抱え込んでいる、この国有数の画商だ。
……そして、セルジュに贋作家の道を勧めた張本人でもある。
さっきまでの最高の気分が、発作とこれで、一気に最低な気分へと叩き落とされた。
所詮こんなもの、とも思う。
……だが、とも思う。
まだ結論は出ていない。
きっと、人生が終わるその時まで。
そんなことを思いながら、扉を閉めた。
生きていくのは物入りだ。
食事に薬、酒に家。
なければ生きていけぬ、この世なれば。
次回:憂き世の習い
義理も筋も、通せるだけは通して。




