Ⅶ 竜太子エルランディード
「旦那様、奥様。間もなく朝食の御用意ができます。起きて下さいませ。」
夫に身を寄せて眠るクラリッサスの肩を叩いて目覚めを促せば、寝覚めのいい彼女は直ぐに目を開いた。
一度深く呼吸をして振り向き、肩に添えられたライカの手を取って感謝の意を伝えると、彼女にはクラリスとしての最初の仕事が待っている。
酷く寝覚めの悪い旦那を起こすのは妻の仕事であり、楽しみだ。
「朝ですよ、あーなーた。」
ムニムニと反対側の頬を摘んで悪戯をすると、リーブラは煩わしそうにクラリッサスの方へ逃げてきた。
いらっしゃい、と唇を重ねた彼女は毎朝毎朝こうして寝顔を見る度に彼と結婚したのだと想起して幸せに浸るのだ。
体から溢れ出る愛おしさを込めた指先で髪を梳かしながら語りかけている内に、瞼が震えて目覚めが近いことを教えてくれる。
「可愛いひと。さ、早く起きないとアッシュが朝食を食べてしまいますよ?」
ぼけっとした寝起きの瞳をゆっくりと瞬きさせた彼に抱きつき、睦言を囁き合って満足した彼女は布団から出て靴を履くと、寒さに身を震わせた。
ガウンを上から羽織った彼女はベッドの下を覗いてノノを探すが、どうやら今日は別の部屋を寝床にしたらしい。
ようやく体を起こしたリーブラはしばし床を見つめていたが、目を擦るとサイドテーブルにある眼鏡を取って立ち上がった。
「ん。」
「ありがとう。」
受け取った眼鏡をかけたクラリッサスは夫を連れて食堂に向かう。
アッシュは食事の時だけ正確な体内時計を持っているため、朝でも寝坊することは決してない。
今朝も二人の到着を首を長くして待っているだろう。
「ほら、しっかりして下さい。足を踏み外しますから……。」
「あれ……クラリス、お前耳は……?」
「ちゃんと二つありますよ。寝惚けてないでしゃんとなさい。」
どうにも足元が怪しいリーブラの様子からまた夜更かししていたのだろうと呆れた彼女は、エスコートするように手を引いて階段を降りていく。
踊り場から見た景色は変わらず純白に覆われていた。
階段を降りきって食堂に急いで入ると、暖炉の火で暖まった空気が体を包み、リーブラが一つあくびをした。
「お は よ う ご ざ い ま す っ !」
「おはようございます。」
「おはよう。」
メイド二人の挨拶に返事をして、アッシュにも軽く手を上げて挨拶しながら定位置に向かう。
引いて貰った椅子に座り、配膳を待っている間に自分の寝癖を直してくれているクラリッサスをスキルで見ていたリーブラはその成長ぶりににんまりした。
攻撃力と防御力はないが、その他の能力は基準値を上回っている。
「(そろそろ獲物のランク上げるかなぁ。)」
「今日は馬車を出すには少し雪が厚いな。商会を訪ねるのは明日にするか?」
「いや、急ぎの用件があるんだ。悪いが送ってくれないか。」
「ああ、別に構わんさ。」
ゴルドーは様々な方面に手が届くため、リーブラたちとは互いに協力することで良い関係を築いている。
騙して大公と引き合わせたことで怒ったリーブラによって決裂の危機に陥ったりもしたのだが、様々な取引をすることで何とか持ち直した。
最近は特に情報が取引材料に偏ってきている。
「そう言えば、《竜太子》って知ってるか?」
「知ってるも何も……世界一有名な男だろう。本当に知らぬのか?」
「知らん。何でも俺たちと同じ日に秘境にいたのはそいつなんだとよ。」
アッシュが驚きの声を上げたのも無理はない。
竜太子とは五年前に剣聖との決闘に勝利し、当代最強の武名を手にした男だ。
しかも、高位の魔物による群れに襲撃されるという惨劇で都を失った古王朝の、古竜の血を宿すと言われた王家の最後の一人である。
王族を含む多くの命と国を引き換えに魔物を討った彼は騎士団の生き残りや冒険者と共に、呪いで人が住めなくなった領土を元に戻す方法を探しているのだとか。
エルランディード、それが亡国の竜太子の名だ。
「剣聖との決闘は有名ですよ。地図が描き直さなければならないほどの死闘の末に片腕を奪って勝利する竜太子。演劇にもなってますし。」
「色々詰め込み過ぎだろ……。」
苦笑いしながら伸びをしたリーブラはメイドが席に着いたことを確認してから話を切った。
それぞれに合わせた食事を用意してくれる二人に礼を言って彼が手をつけると食事が始まる流れのようなものができているのだ。
家も食費も皆の貯蓄からだが、何となく家主はリーブラということになったこともあるだろう。
「ノノはどうしたんだ?」
「まだ眠いと仰られて私共の部屋でお休みになられています。」
「そうか。まぁ、今日は特に何もないしな。」
ブロントリーという野菜をもそもそ食べていた彼はクラリッサスに一緒に来るか聞いたが、どうやら今日は読んでおきたい魔道書があるらしい。
魔導師になって学ぶことが爆発的に増えた彼女にとって時間は貴重だ。
「何か足りないものはあったっけ? ついでに商会で仕入れてくるわ。」
「でしたら、後ほどメモをお渡しします。」
「ああ、そうしてくれると助かる。」
シュッと窓の下に引っ込んだ影を見なかったことにして、スープに浸したパンを食べたリーブラの眉が寄った。
些か、彼の知るパンとは違う。
彼自身は詳しくはないが、製法の差異からか硬くて粉っぽいため、工夫して食べなければいけない。
斜陽も地平線に落ちようという時刻になり、リーブラとアッシュは用事を一通り片付けて家に帰っていた。
と思いきや、二人は酒場にいた。
何やらお祭り騒ぎが繰り広げられており、二人はその中心部でなみなみと酒が注がれた小さな樽を片手に騒ぎを大きくしている。
「いっちにっ! いっちに! やいやいやいやい!!」
「踊れやっ踊れ! あーなたとわったし!! やいやいやいやい!!」
酒場の娘と腕を組んで、机を舞台に踊り狂っているリーブラは浴びるように酒を飲んでいた。
何が彼をそうさせるのか。
ゲラゲラと馬鹿みたいに笑いながらステップを披露している彼とは少し離れた席ではアッシュが他の冒険者と力比べをしている。
こちらも片手で酒樽を持ち上げ、逆の手で酒を飲むということを繰り返している。
「おおおっ!? 三ついったぞ!!」
「どうした! 私と張り合える奴はおらんのか!?」
「ぬああああぁぁぁぁっ!!!」
あっちこっちで上がる歓声や床を踏み鳴らす音で酒場全体がビリビリと振動しているようだった。
活気に惹かれてやってきた冒険者が混ざってお祭り騒ぎは大きくなる一方。
調子に乗ったリーブラはタップダンスを披露し、覚えのある冒険者とどちらが上手いか争っていた。
周りを囲む連中も一人残らず酔っ払って大爆笑しながら、野次を飛ばしてのせていくものだからその勢いたるや。
「ふらついんじゃねぇか、エルド?」
「なんのこれしきぃ!!」
「刮目しろ! このリーブラが神の踊りを拝ませてやる!!」
「ぶふぅっ!? 何だ、そりゃ!!」
何とも言い難い奇天烈な動きに、見物していた客は酒を噴き出してドッと沸いた。
やたらと真面目くさった顔で踊っていた彼はギャラリーを賑わせて満足したのか、ステージ代わりの机を降りて崩れるように座って果物を手に取る。
熱を持った体を冷ますために袖をまくり、天を仰いだ視界の端に戸口を押して入ってくる一団が見えた。
見慣れぬ鎧の騎士と冒険者、そして一人の麗人。
気配に鋭い者や偶然目にした者は感嘆の吐息を零した。
どこぞの国の姫と言われても頷ける美女や目にした画家が須らく筆を取るだろう美丈夫の騎士の中で、圧倒的な存在感を放つ絶対の煌きがそこにあったのだ。
老若男女関係なく魅了せしめる美貌。
その気になれば国はおろか世界すら傾けてしまうに違いない唯一無二の個。
「賑々しい活力に誘われたが、なるほど良い宴だ。」
張りのある低音が幻惑された者の意識を引き戻す。
酒に酔っているとはいえ、あっさりと引き込まれたことから経験豊富な冒険者は魅了の魔力が放たれていることを悟ったからだ。
魅了には後天的なものと先天的なものがあるが、今見ている人物のものは間違いなく先天的なものだと確信できるほどの容姿である。
「人違いなら詫びるが、もしやあんたは竜太子殿かね?」
今や店内の注目を一心に浴びる人物は鞘に納まった宝剣を床に突くと、勇猛な笑みを見せて睥睨した。
堂々たる立ち姿は見る者たちに冠と玉座を幻視させる。
「いかにも。余はエルランディード。ルッツエトロア王朝七十七代目王位継承者である。」
圧倒的な気配だった。
かつて遠目に現皇帝を目にしたことがある冒険者はその時感じた“支配者”の気配とも言うべき何かの、何千倍も濃厚で巨大なものを感じた。
天性の王。
かつての惨劇さえ起こらなければ世界は彼の下で統一されていたとさえ言われるだけのことはある。
曰く、最も尊き王。
曰く、最も強き戦士。
曰く、最も美しき存在。
「噂ってのは信じるもんじゃないが……逆の意味でそう思ったのは初めてだぜ。」
誰がそう呟いたか。
苦笑いしか出ない絶対的な格の違い。
更に恐ろしいのはそのオーラをも自在に操ってしまう彼の才気か。
この世で一番強く美しい人間“程度”に見えるようになったエルランディードは明らかに場違いな酒場の席に腰掛けた。
「ありったけの酒と肴を持って参れ。」
「へ、へぇ、ただいま!!」
可哀想に、王族はもちろん貴族すら目にしたことのない店主は小さくなって店の奥へ飛び込んでいった。
「竜太子ってことは連れてるあれが竜牙の騎士たちか……。」
「見ろ。ありゃ《豪弓》のラスベタだ。」
「あのこまいのは《ツヴァイヘンダーの魔女》に間違いねぇ。あの血狂い、死んだかと思ったら竜太子に下ってやがったか。」
エルランディードには蒐集癖のようなものがあり、旅の道すがら気に入った人物を臣下に加えることがあるという。
戦闘能力に優れている冒険者や、先見の明がある学士、勘のいい商人など対象は実に様々ながら、彼の鋭い眼で選り抜かれた人材は最初は無名でも必ず才覚を発揮して名を轟かせる。
王朝復興が夢物語と笑われない理由の一つだ。
あっという間に宴会の中心となったエルランディードたちを遠巻きに眺めるリーブラとアッシュは初老の騎士に話しかけられた。
「やぁ、同席させて頂けるかな?」
「どうぞ。」
「では、遠慮なく。もう分かっているとは思うが、私は陛下に仕える竜牙の騎士隊副団長のロバート・サイロというものだ。」
「俺はリーブラ。しがない冒険者ですよ。」
「アッシュだ。竜牙の副団長である貴方の名は知っている。同じ戦士として会えて光栄だ。」
戦士としてのピークは過ぎているだろうに、ロバートからはまるで衰えを感じられない。
杯を合わせた彼は穏やかに笑っていたが、その瞳の奥には強い炎が燃え盛っているようだった。
「君たちはここにいる中で一番腕が立つようだからね。色々知っていそうだから、話を聞きたくて声をかけたのさ。」
「例えば、何です?」
「うん。先日、私たちと同じ日にロズリンの秘境を探索して遺跡を見つけたという冒険者を知ってるかい?」
リーブラ所持金10610G
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