episode1.17
一部第十七話
『恐怖政治』
意識が徐々に色を認識し始める。光があって、色彩がある──けれども視界が左に寄るにつれ、その明瞭な視界は日陰のように闇を帯びて、次第に濃くなる闇は唐突に光すら無くし、完全なる暗黒が左三十度程度の視界を覆っている。
左目が開かないのだろうか──目を擦ろうとして持ち上げるつもりだった片腕が、指先から痺れて上がらないことに気付いた時、突然”それ”が襲ってきた。
眼窩を貫く激痛──掻き回された神経の僅かな生き残りが瞼の奥で凄絶な痛みを訴える。喉の奥が裏返ったようにひゅう、と奇妙な音を立てた。それは悲鳴にならない悲鳴、片目を失った激痛によるものだった。動かない体でのたうち回ろうとすると、滑稽なほど四肢が痙攣する。関節の所々から熱い感触、男は体中の腱を正確に切断されていた。
「あはは、馬鹿みたい。」
視界に揺れる黒髪が映り込む。唐突に現れた人の顔、それは美しい女──絵画の中から現れたような秀麗なる顔立ちが、無機質な笑みを浮かべている。救いの可能性を毛筋ほどであるにしろ感じてしまったのか、一瞬安堵してしまった男の甘い考えは、目の前の女の──アメリアの微笑みに一瞬で叩き落された。
思い出した。思い出した!ボスの、JOKERの暗殺目標。部屋に足を踏み入れた刹那のあの圧迫感、銃弾を頬に掠めながら迫る悪魔──フラッシュバックする気絶以前の記憶に、心血が凍る。
「ひ、ぃィッ!?」
情けない叫び声が喉から漏れ出す様をアメリアは笑うが、ふとその笑みも途絶えて。
アメリアの艶やかな唇がゆっくりと開かれる。
「今から私は君に酷いことをします。でも、君が私の欲しいものを素直にくれるなら、少ししか酷いことをしないかもしれない。かと言って沢山するかもしれないし、それとももしかすると私の”少し”には君を殺すことも含まれてるかもしれない。」
今やアメリアに従うことだけが男の道だった。一字一句聞き逃すまいと心を落ち着ける男の姿は余りに神妙で滑稽なものだ。
「でもこれだけは約束してあげよう。君が一番綺麗な姿で家族の元に帰れるとしたら、それは君が私に全部を話した時だよ。”JOKER”のこと全部、ね。」
「それでは質問。JOKERは私をどうしろって言ったの?殺せって?」
口をぱくぱくさせながら男は答える。
「ッ、い、や……殺、せ、とは…ただ、殺せる、なら……殺し、てもいい、と…」
成る程分かりやすい。この動員人数の多さはどうにも慎重さが足りないと思っていたが、どうやらこの連中が手柄欲しさに迂闊な行動に出たと言う訳だ──詰めが甘いこと。
ちゃんと件のJOKERさんに従っていればもう少し痛手を与えられていたかもしれないのに。それともJOKER自身がこいつらに選択の余地を与えていたのだろうか?アメリアにはその線の方が濃厚に思えた。
アメリアは一瞬思索してから、次いで質問する。
「じゃあ次。君らの主は──JOKERさんは結局誰なのかな?」
二問目から大詰め。実際、これが最も大事なのだ。敵が誰かさえ分かるならば、どんな敵だろうとも全て蹴散らしてくれよう。それはアメリア本人の思いでもあり、クリスやアルマ、そしてダヴィデの思いでもあった。
しかし、男はそれを聞いた瞬間荒い呼吸をぴたりと止めた。生き残りたいと言うギラついた意思が表情から失われていく。不思議に思ったアメリアは、懐からナイフを取り出すと男の首にあてがった。
「そんな顔しないの。代わりは幾らでも居るんだから、君一人の命ぐらいどうってことないんだよ?」
嘘だ。代わりは一人もいない。どうにもアメリアご一行は加減が苦手らしく、一人生かしておくのが精一杯だった。最も、アメリアが尋問するならば一人生かしておけば──と誰もが思っていた。少なくとも彼女の口の巧さを知るクリスやダヴィデは。
「───りだ」
しかし。
「無理、だ」
「彼女に、”あんな奴”に逆らう、なんて」
男は狂ったようにぼそぼそと呟きながら、まるで殉教者のように澄んだ瞳で──死に向かう。
「ッ!?」
アメリアの握るナイフに食らいつくように飛び掛かり、切っ先を喉笛で受け止める。良く手入れされた刃が軽い音を立てて喉に食い込み、貫いて頸椎を裂いた。
断末魔すら漏らさずに光を失う眼球は、死の刹那にあまりにも濃い恐怖を覗かせていた──
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「終わりましたか?」
扉を開けると、リビングではディナーの続きを楽しんでいたクリス達が出迎えた。適当に隅っこへ追いやられたゴミの山は良く見ると全て死体。死臭が鬱陶しいが三人はダヴィデのディナーを優先したらしい。
扉を開けたら地獄から地獄へ渡って来たと言う訳か。割れ窓から差し込む月明かりは、少しもこの凄惨な現場を美しく見せてはくれなかった。食事を中断してまで尋問した甲斐もない。
「──死んだよ、それも自分から。JOKERのことを聞いた途端に。」
クリスがアメリアに席を譲ろうと立ち上がりかけるが、アメリアはそれを制した。陰惨な空気の内で奇妙に食欲をそそる夕食に近付いては、ロースト肉を指先でつまんで口に運び齧る。
「私よりJOKERが怖かったんだろうさ。それだけのこと…」
それが如何に彼女にとって屈辱的であるか。アメリアは静かに笑った。
彼女は不機嫌な時無表情になる。しかし最も耐え難い、苦痛にも似た不愉快に襲われた時、彼女は笑うのだ──底無しの魅力と恐ろしさが同居している、サイコの微笑み。
「……要するにフリダシッてワケ?」
アルマは雰囲気ぶち壊しの気だるげな声色でアメリアに問う。
結局、これでは手掛かりは何もないじゃないか。そんな意を孕んだ言葉にアメリアの笑みは別の感情を帯びた。その笑みはほんの少し真実の愉快さから来た笑み。
「そうでもない。分かったこともある。」
あの男は”彼女に逆らえるわけがない”と言った。そう、”彼女に”──
「──JOKERは女だね。」
割れ窓から入る風が冷たい空気を運んできた。不穏な悪寒が背筋を登ったなんて、ダヴィデは勿論口に出さなかった。




