第三十五話 ゆれる
やはり私は酷く弱い人間。
あれ程まで舞い上がっていた感情は、たった一つの出来事で脆く崩れ去り不安定になる。泥で出来た城が、乾いた端から風に曝されて崩れ去るように、それは瓦解した。
懸命に空気を取り入れようと何度も深呼吸を繰り返すつもりが、なぜか上手くいかなくて、浅い呼吸を重ねる。
酸素を上手く取り入れられない頭がぐるぐると回る。苦しい、しんどい。
なぜ私がこうなったのか、多分......自分が一番理解できていた。
彼女は『冬姫 舞桜』というらしい。
薄い色をした私の黒髪と違い、どこまでも深い黒は少し陣に似ていた。そのことがまず気に入らない。身長は随分と高く、私より頭一つ分以上大きい。そこらの男子よりも大きいんじゃないかな。だというのに、顔は凄く小さくて、八頭身以上はありそう。
タイト気味な制服は出るとこはでて、引っ込むところは引き締まっている彼女のスタイルに映えていた。おしりと太ももは男子が喜びそうな健康的なサイズをしている。腰の位置が随分と私と違う。
一つ一つの動きから目が離せなくなる。引き込まれる、とでもいうのだろうか。
ただ声をかけるだけなのに、まるで舞台で演技するようにその長い手足を最大限生かしてポーズをとる。まるでスカした王子様役みたいだったけど、腹が立つ程様になっていた。これ以上ないほどに......。
少し垂れ目がちな瞳が綺麗な流線形を描いていた。優し気な声音と相まってより一層笑顔が華やかに変化する。彼女はそうすることで、心の底からの『嬉しい』といった感情を作ったのだろう。
――陣と話していて、本当に心の底から嬉しそうだった。私はちっとも嬉しくないというのに。
幼馴染らしい。随分と仲が良かったみたい。私の知らない過去を知っている。
胃の底辺りから、熱を伴ったどろどろとした液体が湧いてきた。それは私の意思とは無関係に増え続け、腹を満たすと今度は目の底が煮えたぎる様に熱く――。
「ホラ、そろそろ帰るぞ。いつまでボーっとしてんだ」
突然私の頭を誰かが叩く。本気で叩いたわけじゃなく、すこし頭を揺する程度の軽いタッチだ。驚いて後ろを振り返ると、陣が気まずそうに頬をかきながら、それでもしっかりと私の目を見てくれていた。
「ほっといて悪かったな、ご主人様よォ」
今、彼は髪をくくっている。学校では髪を下ろしているからこの表情を知っている人は数少ないだろう。
淡い水色をしたヘアゴムを見つめる。
これは私が付けたものだ。他の誰でもなく、私が陣に取り付けたもの。
そのヘアゴムを見るだけで、心が満たされたように落ち着きを取り戻す。どころか、少しばかりの快感すら生み出ていた。こんな気分になれるなら、いつだって彼を見ていたいと思えるほど。
「主を放っておくなんて......使い魔としての自覚が足りないんじゃない?」
途端に気分が良くなったので、口を尖らせて皮肉を言いつつも満更でもない表情を作る。
驚きを表すように少しばかり目を見開いた陣は、数度口をまごつかせながら鼻息を零す。言いたかった言葉をどうにか飲み込んだような、躊躇いがあった。彼はこの仕草をよくする。
「へーへー。だから悪かったって。それじゃあ帰るか」
私が駅の方へ向くまで待つと、ゆっくりと並んで陣は歩いてくれる。一歩一歩の歩幅が違うけれど、彼は私に合わせてくれた。スニーカーの軽い足音と、彼の履いているローファーの硬い音。
さっき飲み込んだ言葉を口には決して出さないだろう。彼はそういった人間だと思う。
駅周辺に群がる人たちは随分と減っていた。駅構内の白い光に吸い寄せられる羽虫の様に私たちはふらふらとそこへと向かってゆく。
随分と濃い一日だった。これから電車の中で陣と今日を振り返るのも悪くないかな。
地面を踏むスニーカーの音が先ほどよりも軽快に聞こえる。
電光掲示板によると私たちが乗る電車があと数分でこの駅に着く様で、そればかりは少し残念に思う。
流れに従い私たちも改札を抜け、駅のホームへと向かう。エスカレーターの青い手すりに摑まると、私はそっと振り返り、後ろを着いてくる陣に目を向ける。
切れ長の目が先ほどと変わらず私を捉えていた。彼の顔の作りは悪くないと思う。万人がもろ手をあげるような完璧なつくりではないけれど、どこか愛嬌があるように思える。普段は髪に隠れているから、あまり気が付かない事だけど。
三白眼はどこか凛々しさを感じるし、鼻梁は細く通っていて綺麗な形をしている。笑う顔は、少しばかりぎこちなさが残るものの、嫌いではない。不格好な笑顔は寧ろ温かみを感じる。
「おぉ、丁度来たみたいだな」
エスカレーターが終わりを迎えるタイミングで、丁度電車がホームにやってきた。
電車と共にやってきた風が私の顔に吹きかかる。暫し目を閉ざし、瞼をもたげる。
電車から降りる人は少ない。逆に乗り込む人の方が多く、途端に車内は人に満たされる。
私たちは来た時と同じように隅の方へと行き、そっと吊革に掴まる。
「パンダさんも狐もいなかったが......まぁ、そこそこ楽しかったな」
片手で吊革に掴まり、車窓を眺める陣がぽそっと呟いた。私は横顔を盗み見て前を向く。景色が勢いよく流されては新しい場面に切り替わっていくのを目まぐるしく視界に入れつつ、私は口を開いた。
「そう思ってもらえて良かった。一応、これはお礼だから」
「そういえばそうだったな。完全に忘れていた」
彼は笑いながら頬を人差し指で掻いた。本当に忘れていたのだろう。
暫く車内の喧騒に身をゆだねていると、電車が突然のカーブを描き、私は踏ん張り切れずに身体をよろめかす。もつれた足からは力が抜け、横にいた陣に寄りかかる様に体を預けた。
「――っと、ごめ」
そのはずみで、被っていた黒いキャップが彼の足元に落ちてしまった。コーデュロイの生地で出来た、鈍い光を返す黒いキャップは空中で一度翻り、彼の足元に音を立てずに降り立った。
一拍置いたのち、陣は落ち着いた動作で、帽子を拾い上げると軽く手で払い、そのまま私の頭まで運んでくれた。
「大丈夫か。ホラ」
次いでとばかりに彼は、身体のバランスを崩した衝撃でズレていた私の眼鏡を正してくれる。
その時の彼の声が酷く優しかった。
私の頬に熱がこもってゆく。頬だけじゃない、額も瞼も、皮膚のあらゆるところが猛烈に熱に侵される。
もう少し、このまま身体を寄せていたいと思った。火照る身体を、彼の低い体温で冷ましたい。彼は平熱が低い様に思える。けれど傍に寄れば寄るほど、自分の熱は上昇を繰り返し、留まることを知らない。
「うん、大丈夫......ありがとう陣」
自制するようにきゅうっと掌を握りしめ、お礼を言うとすぐに距離を取る。陣は特になんとも思っていなさそうに「おう」とだけ軽く返事をすると、またボーっと窓を向いていた。私はなんだかそれが腹立たしくて少しだけ、彼の頬に手を当てた。
「ちょっと鈍感過ぎじゃない、使い魔さん?」
「え、何が......」
私だけかも知れないけれど、もう少しこの電車に揺られ続けたいと思った。水に揺蕩う海月のように、あの時に見た、灰色を宿す名も知らない魚のように。




