第三十三話 レピドライトは溺れない
今回で第一章、氷川霧華編が終わりです。続く第二章から新たなヒロインが登場します。
真っ赤なゴンドラに足を運び、向かい合うように腰を下ろす。半日動き回っていたせいか、投げ出した足がやけに重たかった。
静かにゆっくりと、だが確実に俺たちを高い位置へと押し上げるゴンドラ。
俺は特に話す話題も無かったからじっと外の景色を眺めていた。一秒ごとに視界が移り変わる。座っていた位置から、何もかもが変わる。
「なんか、不思議」
俺と同じ方向に顔を向けていた氷川が話を切り出した。変わらず薄墨色をした髪の毛は光を寄せ集め燦燦と輝いており、対照的に俺の座る側は陰になっていた。
「あん?」
「ちょっと前まで、烏羽とこんなところに来て、まさか観覧車に乗るなんて思いもしなかった」
「それは俺もそうだ。まさか魔女の使い魔になるとはな。非凡な人間に関わるとは......本当に、驚いたよ」
突然視界の隅がチリチリと燃える様な熱を宿す。けれどそれはすぐに収まり、何事もなかったように彼女の現在を映し出す。
「けど、全然悪い気はしない。寧ろ気持ちは軽い。勿論、御幸とか凪とかと一緒に遊ぶのも好きだけど、これはまた別」
たまらなくなった俺は返事をしないまま、視界を強制的に切り替え、外を眺め続けていた。どうにも、胸のざわつきが収まらない。
「ありがとう。烏羽」
「......なんのお礼だ」
「色々と。カラオケの事とかオリヴィエの事とか。何か大きな事をしなくても、その存在だけに救われることってあるんじゃないかな」
分かっていない。彼女は何も分かっていない。
「あー......その、つまり、ね。烏羽が、烏羽でいてくれてありがとうって事。放課後私の愚痴を聞いてくれたり、美味しいカフェラテを淹れてくれたり。多分『仕事だからー』とか言うんだろうけど......それでも救われた。あの時、私の手を取ってくれて――」
彼女は救われたと言った。薄氷の様にく綺麗な唇から、俺に救われた、と。
違う。何もわかっちゃいない。俺が救われていたんだ。
どうしようもない、取るに足らない俺が、白色に憧れて、焦がれて。
氷川は知らないだろうけど、俺はずっと見ていた。自分の席から左前、そこから見えるあの景色。氷川の横顔を――。
これは憧憬だ。俺の憧れが、つまらないものに穢されたくなかった。つまるところ俺のした事といえば、自分の憧れを守っただけだ。感謝されるのは間違いだ。とうに捨て去ったものが惜しくて、意地汚く、未練を捨てきれないだけだ。
魔女だ何だと言って、自分を使い魔だと思い込んで。都合のいいように氷川を利用しただけだ。自分もそこへ少しでも近づきたいという汚れた願いだ。汚物に塗れた......クソ以下の。
「――だから、私は烏羽に感謝してる。ありがとう」
「やめろ!!!」
薄汚れた、灰色は。
「え......からす、ば……?」
「......感謝、される言われは......ないんだ」
音を失ったゴンドラは、それでも頂上へと向かい続ける。何も変わらず、視界だけが確かに変わる。
「俺は......氷川とか、辻とかにずっと憧れていたんだ。自分もそうでありたいって......ヒーローになりたいって......けど、違ったんだ。俺はどこにでもいる普通の少年Aで......いや、それ以下か? 氷川達とは違う。名のない端役だ。けど、どうしても、やっぱり諦めきれなかった。だから、お前を魔女だ何だと言って、自分を使い魔だとか痛いこと言って傍に寄り添おうとした。その為の行動に、自己防衛に......感謝されるのはおかしいだろう!」
氷川は何も言わず、ただただ俺の独白を聞いていた。
――喉が痛い。張り裂けているのかと思う程の激痛と、脳が焼けるような熱さが俺を襲う。だが、熱を帯びる身体とは裏腹に腹の底はどんどんと冷たくなっていく。
春の夜は随分と冷たいな。止まることを知らないゴンドラは風に熱を奪われ、中の空気もつられて冷えてきた。
「お前に近づいたのは自分は特別なんだと、言い聞かせる為だ! お前に気に入られたいと近づく奴らと何ら変わりはしない! 俺が......自分が......白だと思い込むための行動だったんだ。あの時手を取ったのだってそうだ! 俺は誰かにとっての何かになれはしない! これまでも! これからも――」
馬鹿だ。子供だ。分かりっこないって他人に駄々をこねて。惨めで醜くて……空虚だ。吠えれば吠えるほど空っぽになる。いや、初めから……空っぽだな。そんな空っぽの人間が憧れた存在だけは......確かであってくれ。じゃなきゃ......俺は本当に何も無くなってしまう。抱くものぐらい......この世で正しく存在してくれよ。
『ーーもう、諦めたのか?』
腹が立つ声だ。
うるさい......。うるさい、うるさい。俺は何も持っちゃいない、お前の様に。
折角憧れに寄り添えたけど……また元通りだ。いや、これがそもそも正しい関わりなんだ……。俺と氷川の……。
「――烏羽がそういうなら、私は魔女になりましょう。だから、貴方も私の使い魔になって。魔女・氷川霧華の......私だけの使い魔に」
白くなった頭の中に、やけに響く声だった。何もない空洞が満たされるような感覚。頭から喉へ。喉から腹へ。腹からつま先へ。
人肌の液体が頑強な氷をゆっくりと溶かすように、それは俺の内部へと侵食してきた。
感覚を取り戻した俺に訪れたのは、甘い花の香り。
随分と、懐かしい香りだった。死んだ冬と芽吹く春の隙間に風が運んできた名も知らない花の香りだ。
気が付くと、彼女は俺を抱きしめていた。
「それに、烏羽の話をしてくれた。ありがとう」
全てが許されたような、満たされたような心の底からの安堵。
俺たちを乗せたゴンドラが頂上にやって来ると、途端に内部の電源が落ちた。陽は完全に落ち切っていた為、室内は暗闇に飲み込まれた。
『トラブルの為、緊急停止ボタンを押しました。直ぐに予備電力に切り替えますので今しばらく――』
備え付けられていたスピーカーから従業員さんの慌てたアナウンスが聞こえた。
「......これ、魔術かなにか?」
俺は気恥ずかしさを紛らわす様に軽口を衝いた。以前、彼女の胸元に頭をうずめている状態だ。
「うん。そう......魔女だから」
俺はゆっくりと顔をあげる。真っ暗な視界の中、赤紫の瞳が煌々と輝いているのを目にした。すぐそばの薄墨色の髪が赤みを伴った光で照らされる。
「あぁ......流石は魔女だ。使い魔冥利に尽きるよ」
笑みを零す彼女に溺れそうになった。




