第三十一話 名無しの灰魚
白く、なめらかな壁が地面に対して垂直に立てられ、建物を一周覆っている。まるで穏やかな海面を彷彿とさせるその壁には幾何学的な穴が。それもまたデザインの一つなのだろう。
「おぉ......思っていたよりは小さいけど、なんか面白そうだな。動物園っていうよりは近代美術館みたいな」
駅についてすぐ目の前が目的地であるミクラムだ。改札をでた俺の眼前に広がる白一面は圧倒という他ない。
「中にはいろっか。色々あるみたい」
駅に設けてあったパンフレットを片手に、当たり前の様に俺の横に並ぶ氷川。ちょっとばかり距離が近すぎませんかね?
「ん......あそこか」
ぼうっと白い壁を眺めているだけでも時間は過ぎそうだったが、たまたま目に入ったところが入り口だったらしく、俺たちと同じ目的の人々がそこへと歩を進めていた。
「すいません......えと、高校生二枚下さい」
ガラス越しに笑顔を振りまくお姉さんにチケットを要求する。
「ありがとうございます。それでは学生様二名ですね......合計四千円でございます」
高い。確かに高いが......まぁ、そういうもんだろう。俺はさっさと財布を取り出し支払いに応じる。
「あ、烏羽。私が出すから。お金はいい」
やだこの人男前。なんて馬鹿なことを考えていると恐ろしいほどの速さで千円札を四枚差し出し、チケットと交換していた。おい見ろ。お姉さんが若干引いた目で俺を見てんぞ。
なんだかそのまま払ってもらうのは釈然としなかった為、氷川の財布に無理やり自分のチケット代をねじ込む。うん、貸し借りは無しだ。俺がもやもやするからな。俺のためだ。
「......いいって言ったじゃん」
少し機嫌を損ねるように頬を膨らます氷川だったが俺は見て見ぬふりして先へと進む。
入場口から入ってすぐの所に展示されていたのは、小さな水槽群だった。外観と同じように曲線で縁取られた幻想的な風景だ。大きな照明は落とされており、水槽を照らす小さな色とりどりの照明だけが暗闇に色を付けていた。
そして、水槽の中で飼育されている魚やエビも同じようにど派手な色を身体に宿していた。
「うおお......なんかよくわかんねぇ魚とか一杯いる! エビとかメッチャテンション上がる! なぁ! 氷川!」
なぜ小さなエビはあそこまで興味をそそられるのだろう。
「うん......綺麗だね、小さなガラスみたい」
氷川も吸い寄せられるように水槽に張り付いている。ただでさえ大きくてビー玉みたいな瞳がいつも以上にその存在を主張していた。今にも零れ落ちそうだった。
上下の睫毛で支えられた、赤紫のガラスは水槽全体を捉える。必要最低限の瞬きだけをして、後は微動だにしない。
俺は、気が付けば鮮やかなエビや魚から、そんな赤紫に目を奪われていた。
「んはッ!」
自分を制するように両目に指を突っ込んだ。
「え!? どうしたの急に!?」
「奇病にかかってしまったようだ。もう大丈夫」
「自分の目を突く奇病?」
「いやいやそんなおかしなもんじゃないさ。目玉が零れ落ちそうだったから支えただけ。ははは」
「だいぶおかしいと思うんだケド」
氷川が気持ち悪いものでも見るような表情をしていた。やだなぁーははは。
「さて、次の所に行くか」
ここでも無限に時間を費やせそうだったが、どうせなら一通り見ておきたい。なので氷川に声をかけ、次の展示へと向かう。
今度は先ほどと打って変わって、ここは随分と明るかった。白色の照明と、同じような色をした壁で覆われており、展示されている魚たちも無彩色なものが殆どだった。
「さっきとはまた随分と違うな」
白い砂が底に敷き詰められた水槽を覗く。俺の親指ほどの大きさの蟹が両手をあげてこちらを睨んでいた。
「え? なんで俺蟹に威嚇されてんの」
「天敵だと思われてんじゃない?」
「俺が魚顔だとでも言いたいのか」
すぐそばに氷川の顔があった。黒縁の伊達メガネに水槽が反射していた。
「......さっきみたいな、派手な魚とかエビの方が好きか」
そんな横顔に俺は何となしに問いかけてみた。
「あれはあれでいいけど......ううん。私はこっちの方が、好き」
その表情は、ごく自然なものなのだろう。柔らかで、取り繕っていない素の彼女だ。
――俺の心拍数が、確かに上がった。
「......不整脈?」
「どうしたの?」
心配そうにこちらを覗く氷川。
「いや、なんでもない。氷川は派手な魚が好きなものだと勝手に思い込んでいたから少し驚いた。こんな、灰色で地味な......泥の底を這いまわっている様な魚が好きだとは」
すると、少しだけ間を置いて、氷川は何かを考えながら薄い唇を開く。
「この魚たちって......自分の色とか、知っているのかな」
「......どうだろう。人間とは違う可視光線が見えたりとかはあるみたいだけどな。モンハナシャコとか」
「もし、自分の色を知った時、この魚はそれまでと同じように生きていけるのかな。突然世界が変わって......これまでと同じように、友達と、過ごせるのかな」
それは――。
「それは......分からない。俺らは魚じゃなくて人間だから、魚の世界を知らない」
――何を意味して言ったのか、少しだけ俺は理解した。
「けど、もし俺がこの灰色の魚だったら。きっとド派手な魚に憧れていたと思う。もし自分が灰色だと知っていたとしても......それでも憧れていたと思う。憧れることは誰かに咎められることじゃない」
赤紫をした、水晶体が不安げに揺れていた。俺はただその瞳を見る事しか出来なかった。
「私は......きっとこの灰色の魚に憧れる」
そっと、俺の頭に手を置く氷川。脆く崩れそうなモノに触れるように、繊細な動きだった。
「そういうの、凄く良くないと思います」
俺は気恥ずかしくなって、顔を背けた。
「え?」
「だから! そういうの! ダメだと思うって言ってんだよ!」
額から汗が滲み出てくるのが分かった。急いで俺はその場を離れ、次の場所へと向かった。
「......可愛い私の使い魔さん」
底の無い、甘い声が俺の後方で微かに聞こえた。




