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立花隆『天皇と東大』  作者: 練り消し
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第五章、第六章(慶応・早大・東大の違い)

立花隆『天皇と東大』、第五章「慶応は東大より偉かった」と第六章「早大の自立精神、東大の点数主義」部分のまとめ。

「国家からの学問の独立」をめざして作られた福沢諭吉の慶応義塾、大隈重信の東京専門学校と、反対に国家との結びつきをどんどん強めていった東大についてのまとめ。


◆ 慶応・早大の自立精神、東大の点数主義



● 学問と政治を切り離しておくことの重要性を説いた福沢諭吉


明治時代の高級官僚、大学教授は、政府の役職と大学の教授職を、互いに堂々と兼職していた。

また、政府の役職を兼ねることが、教授たちのステータスシンボルにもなっていた。

文部大臣の森有礼は、学術のことと国家のことが目の前にあれば、国家のことを優先すべきだとした。


が、そのようなマインドの持ち主に、反発したのが福沢諭吉だった。

福沢は、官へ官へと流れる洋学者流の知識人たちを批判した。


明治国家の基本方針は、文明開化によって、西洋に追いつくことにあったから、まず何よりも、必要とした人材は、洋学知識人だった。

明治のはじめ、洋学知識人の多くは、徳川幕府の旧幕臣の中にいた。

幕末、ペリーの来航に慌てた幕府は、大急ぎでめぼしい洋学者を片端から集めて、外国奉行の下に置いたり、蕃書調所(開成所)や医学所を作って西洋の知識を吸収しようとしたり、あるいは相当の人数の留学生を送り出したりといったことを、ペリー来航から明治維新まで15年までの間にやっていたため、それなりの洋学知識人が育ちつつあった。

明治新政府は、そういう知識人を次々に探し出しては召し抱えていった。


幕府の外国方に雇われて公文書の翻訳の仕事をし、文久遣欧使節の一員としてアメリカへの渡航経験のあった福沢諭吉にも声がかかったが、しかし福沢は断固として断った。


大政奉還、鳥羽伏見の戦いの後、大阪から船に乗って逃げ帰ってきた徳川慶喜を迎えた江戸城では、連日、議論が沸騰していた。

戦うべきか、戦わざるべきか、戦うとして、どのような戦術を取るべきなのか。

このときは、旗本となり開成所教授職並に任ぜられていた加藤弘之なども、江戸城中で、種々さまざまの奇策妙案を献じ悲憤慷慨の気焔を吐く者の一人だったが、福沢はそんな彼らに対し、

彼はこれから薩長の兵が乗り込んでくるかもしれない江戸にあって、芝の新銭座に四百坪の屋敷を買って、自分の英学塾(慶応義塾)の塾生のための塾舎を建てた。


福沢は、官軍が入ってきても塾をいつものように開き続け、旧幕派の彰義隊が上野の山にたてこもって戦争をはじめたときも、いつものように塾を続けた。

この大騒動中、開成学校など、名のある洋学所はみんな閉鎖されていた。

その後も、明治新政府が、大学南校などの形で洋学教育を復興するまでの間、日本で洋学教育をちゃんとやっているところは、慶応義塾だけだった。


福沢は、学問と政治を切り離しておくことの重要性を説いた。


福沢が日本について最も心配していたのは、

「政府は依然たる専制の政府、人民は依然たる無気力の愚民のみ」という現状だった。

このような現状を続けていては、「国の独立は一日も保つべからず」ということになってしまう。


「旧幕の時代、江戸に開成学校なるものを設立して学生を教育し、その組織、ずいぶん盛大なるものにして、あたかも日本国中洋学の中心とも称すべき姿なりしが、一朝幕政府の顚覆に際して、生徒教員もたちまち四方に散して行くところを知らず、

学者の輩がかくも狼狽して一朝にして一大学校を空了して、日本国の洋学が幕府とともに廃滅したるはなんぞや。

開成所は幕政府中の学校にして、時の政治に密着したるがゆえなり。

語を易えて言えば、開成所は幕府政党にしてその生徒教員もおのずからその党派の人なりしがゆえなり。

 当時もしこの開成所をして、幕府の政権を離れ、政治社外に逍遥して、真実に無偏無党の独立学校ならしめ、その教員等をして真実に豪胆独立の学者ならしめなば、東征の騒乱なんぞ恐るるに足らんや」(『学問の独立』)




● 慶応義塾と同様、国家からの学問の独立を目指して作られた東京専門学校(早稲田大学)


・ 明治十四年の政変で下野した大隈重信一派によって作られた「立憲改進党」と「東京専門学校」


明治時代になって、高等教育が東京大学(帝国大学)によって独占された状態が続き、それが明治新国家の独占的人材供給源になっていることに対し、これでいいのかという批判の声がどんどん大きくなっていった。


こうした官学(帝国大学)に対する強烈な批判の年から、福沢諭吉の慶応義塾は生まれたが、慶応と並ぶもう一方の私学の雄・早稲田大学もまた、官学に対する批判から生まれた学校だった。


早稲田大学は、「明治十四年の政変」で下野した大隈重信らに設立された「東京専門学校」を前身とするもので、

「明治十四年の政変」とは、時の権力中枢にいた、伊藤博文、岩倉具視と大隈重信との間に、当時最大の政治課題だった憲法の発布と国会開設をいついかなる形で行うかという政治日程とその内容をめぐって衝突が起こり、権力闘争に敗北した大隈一派が一斉に下野したという一連の事件のこと。


大隈は、明治15年に選挙をやり、明治16年に議員を開設して、一挙に英国流の議員内閣制を樹立してしまえという急進的な意見を持っていたが、そのような考えは容れられなかった。


国会の開設は、政変に勝利した伊藤らによって、9年後の明治23年に開設するということが決定され、その後実際、明治23年になって、憲法の発布と、議員開設(第一回総選挙)とがそれぞれ実施されることとなる。


大隈重信は権力争いに敗れて下野する結果となったが、当時の大隈は、大久保利通、木戸孝允、西郷隆盛ら明治の元勲たちが亡くなった後、圧倒的な権力を握っていた人物で、

また国家的な人気も集めていたことから、これは西郷下野に勝るとも劣らぬ衝撃を与えた。


大隈は単に一人で下野したのではなく、彼に続き、犬養毅、尾崎行雄、矢野文雄、小野梓、牛場卓蔵、中上川彦次郎、河野敏鎌、前島密らといった、時の政府を実質的に切り回していた若手の優秀な官僚たちが、みな大隈に従って退官したのだった。



・ 小野梓の説く「学問と個人の独立」


明治十四年の政変により下野した大隈重信は、翌明治15年に河野敏鎌、小野梓らとともに「立憲改進党」(総裁:大隈重信、副総裁:河野敏鎌)を結党した。

またそれと一緒に、当時、大隈重信の右腕だった小野梓の精力的な活動によって「東京専門学校」(のちの早稲田大学)は誕生した。


大隈重信は演説の名手として知られていたが、小野梓の演説もまた、


「舌端火を吐き、口角沫を飛ばし、聞くものをして切歯扼腕せしめ」

「学生はもちろん来賓中にも手に汗を握ったものが多かった」(『早稲田大学百年史』)


という雄弁を持っていた。


早稲田は政経学部が主流で、弁論部を経て政界に入ることを志す学生が多かったという。

東京専門学校自体、立憲政治の指導的人材の養成を主たる目的として学校の設立が構想されたというが、小野は、東京専門学校の開校にあたって、福沢諭吉と同様に、政府独りの力によって進むのではなく、人民一人ひとりの独立の気を養い、文明を推し進めていくことが大事だと訴えた。


「一国の独立は国民の独立に基いし、国民の独立は其の精神の独立に根ざす。

而して国民精神の独立は実に学問の独立に由るものなれば、其の国を独立せしめんと欲せば、必ず先ず其の民を独立せしめざるを得ず。

其の民を独立せしめんと欲せば、必ず先ず其の精神を独立せしめざるを得ず。

而して其の精神を独立せしめんと欲せば、必ず先ず其の学問を独立せしめざるを得ず」(『早稲田大学百年史』)


小野は、若者は政治にかかわるべからずとする世の風潮や政府当局者のマインドを批判し、若者はもっと政治にかかわれと挑発した。


東京専門学校では、理学サイエンスより、法学、政治に力点が置かれたが、小野によればそれが、今の日本の社会において、そちらを先にすべきことが求められているからだといい、

そして、政治、法律の道に若者を進ませるためには、自治の精神と活発の気象を発揚させることが必要だと説く。

ところがこれまでの日本の教育はそこをないがしろにするどころか、むしろ抑圧するようにしてきた。

小野によればこれは、日本が儒教の教えを固守してきたことが原因で、今や、儒教の本場である中国が、儒教をあまりに重んじすぎたために国家が衰徴しつつあり、その二の轍を踏んではならないと戒める。


「諸君はその宋儒の学問が支那と我が邦の元気を遅鈍にし、為に一国の衰弊を致せしを知るならん。

彼れ宋儒は人民精神の発達を忌でこれを希はず、むしろこれを或る範囲に入れ、その自主を失なはしめ、唯だ少年の子弟をして徒らに依頼心を増長せしめ、その極や卑屈自ずから愧じず。終に国の衰弊を致したるにあらずや。

今や国家事多ふし、宜しく少年の子弟をしてますます自治の精神を涵養し、いよいよ活撥の気象を発揚せしむべし」(『早稲田大学百年史』)



・ 早稲田は東大の分家、慶応の弟分


小野はまだ、大隈の下で会計検査院の検査官をしていた時代に、東京大学文学部に在籍していた学生の高田早苗(のちの読売新聞主催、文部大臣、早大総長)らと意気投合し、

「鴎渡会」という組織を立ち上げていて、

そしていざ小野が東京専門学校を立ち上げた際には、この高田グループを中心とした東大の関係者たちが、講師として何人も参加することになったという。


早稲田大学は、「東大の分家、慶応の弟分たる血族的関係にある」(『早稲田大学百年史』)という。


東京専門学校の設立にあたっては、鴎渡会以下の東大派がより多くその出発に重きをなしたが、一方で、大隈と小野らが結成した立憲改進党の設立にあたっては、矢野文雄を先頭者とする慶応派(犬養、尾崎、箕浦勝人その他)が、政党の結成に重きをなして関わったという。



・ 政府からの妨害工作の激化


明治新政府にとって、下野した大隈重信は政府を脅かす政敵となった。

大隈は下野して民党を組織し、そしていざ国会開設の総選挙で多数の議席を獲得すべく、学校までつくって旺盛な政治活動を民間で展開していた。

しかも、その学校に、東大の中から講師に出向く同調者まで出てきたことに、政府はショックを受け、やがてやっきになって妨害をするようになっていった。


明治新政府では、大隈らがつくった東京専門学校を「謀反人養成所」とみなし、スパイを送り込んで監視し、各地方官に悪評を吹き込んで、各地方官から父兄を説得して東京専門学校には入学しないように仕向けたり、

または、東京専門学校に講師に出向こうとする教授たちに圧力を加えて、出世に響くぞと脅したり、

あるいは直接、裁判官に引き抜いてやるとか、他の学校へ有利な条件で世話をしてやるなどといって、様々な妨害を加えた。

さらには警官を学校内に送り込んで偵察させ、折があれば学校の統制を混乱させようとはかっていたという。




● 慶応、早稲田と反し、逆に国家とのつながりを強めていった東大


・ 大隈重信の下野が国政に与えた影響


大隈重信が「明治十四年の政変」に敗れて下野した年は、東大総長の加藤弘之が刺し違えんばかりの海江田信義の脅迫を受けて自著を絶版にして、その後自説を撤回させられるという『国体新論』絶版事件の起きた年で、

これには大隈一派らの一斉大量下野が大きな影響を与えた。


大隈下野が権力中枢に与えた衝撃は大きく、権力に対して不穏当な考えを抱く人間は誰でも粛清すべきだという気分が権力上層に広まっていた。

また、権力を支えるべく作られた官学の東京大学から、大隈の下に走る人間が多く出たことも、明治新政府に深刻な心理的打撃を与えることとなった。


そうしたショックの結果、非常に評判の悪い、東京大学卒業生に対する官吏任用試験における優待制度が採用され、東大がいよいよ国家との結びつきを深めていくことにもなってしまうのだった。




















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