第二十九話 光の中
畑に囲まれた田舎道を、亜麻姉を背負って歩いていく。
草刈も終わり、いとまを与えられた僕は、寝てしまった姉を連れ立って帰宅しているのだった。
亜麻姉は健やかにおねんねしている。発達した胸が背中に当たって、ちょっと恥ずかしい。体ばっかり色っぽくなって、複雑な気分だ。
そろそろ夜気の立ち込める刻だろうか。夕と夜の狭間。僕はぼんやりと、地面を這う蟻や電信柱の広告なんかを眺めている。
と。
急に首を絞められた。「あふっ、くるひ」
「あははは、変なの」亜麻姉はおかしそうに笑った。「あふっ、だって。かわいいなぁ。食べちゃいたいくらい」
僕は気恥ずかしさで赤面してしまう。我ながら子供っぽい性格をしているな、と思う。「変なイタズラすんじゃねェよッたく。振り落とすぞ」僕はぶすっとした。やっぱり僕は子供なんだな、と自省。
「ごめんねー、お姉ちゃん反省してるよー。ほら、これがお詫び」といって、亜麻姉は僕の背に強く胸を押し付けた。「えへへー、大きいでしょ。興奮した?」
「しねェよバカ」
「顔が赤いけど」
「夕焼けが顔に当たってンだよ」
そんな風に取り繕って、バカ姉をいなす。
亜麻姉は柔らかい頬を僕の頬にくっつけて、小さく息を吐いた。甘ったるいにおいのする吐息がかかり、官能的なものが漂う。そして耳たぶを唇や舌でねぶったり、甘く噛んで切なそうにする。「うふふ、ゆーくんはホントにかわいいなぁ。我慢しなくていいのにね……。それとね、お姉ちゃん、ゆーくんの横顔とか、メチャクチャ好みなの。遠くを見てる目とか、引き締めてる唇とか、ホントカッコいい……。すんごい好き。わたしの好みにどストライクでさ、スリーアウト三振、みたいな。こんな近くに好みのタイプがいるなんて、わたし男運いいよね。神様の粋な計らいって奴かな。けどさぁ、ゆーくんって顔だけじゃなくて、体もわりといい感じじゃん? 細身だけど筋肉あるよーって感じで。においも好き。ゆーくんの体触ったりにおいかいだりしてると、ふわーって心が落ち着くけど、でもちょっとドキドキもして、逆にお姉ちゃんの体にも触ってほしいってぇ、思う……。わたし、ゆーくんの体好きだなぁ。筋肉のつき方とか、手のごつごつした感触とか、ケッコー好き。マジ抱かれたい男ナンバーワン」
「……やめろよ。気持ち悪ィ」
「恥ずかしがらなくていいのに」
「こそばゆいんだよ」
「そういう風にしてるの」
「っんで、そんなことすンだよ」
「好きだから」亜麻姉はあっけらかんと言う。「ゆーくんのことが好きだからだよ。好きな人の体に触りたいって、普通、思うじゃん」
「……バカ言え」
「バカなんかじゃ、ないよ」
亜麻姉は僕の首に手を回したまま、何も言わなくなった。
「……亜麻姉?」
「……ごめん。わたし、ぼーっとしてた?」
「あァ」
「そっか」
「なんだよ。なんでぼーっとしてたンだよ」
「気になる?」
「別に」
「そこは嘘でも気になるって言おうよ! 乙女心を分かってないなぁ、ゆーくんは」
「じゃァ聞くけどさ、なんでぼーっとしてたのさ。別に気になってねェけど」
「…………」
少し間があったが、まぁ気にしないことにする。亜麻姉をおちょくるのは楽しいから。
「……ちょっとね、思い出してたの。あのこと」亜麻姉は体をもぞもぞさせた。「その、ファーストキスの、こと」
「また古ィネタを」
「古くないよ! お姉ちゃんにとっては一生の思い出なんだから! ゆーくんとの大切な思い出……嬉しかったなぁ。ゆーくんと結ばれたって感じで」
「そういやおまえ、あのとき舌いれてきただろ。小学生のくせして結構ませてたんだな」
「ませてないよー。舌いれるのはゆーくんとだけなんだから」
「つまり、舌をいれねェ普通のキスはほかの奴にもすると」
「ちっ、違うよ! そんなわけないじゃん。キスするのは、ゆーくんとだけだよ……キスしたいって思うのも、ゆーくんだけ」
「今もしてェの?」
と。
僕は気配で亜麻姉が頬を高潮させるのが分かった。
僕はイジワルするように問いかけた。「亜麻姉、今、僕としたいの?」
しばし沈黙があった。
「しっ、したい。ちゅーしたい。ゆーくんと、ちゅーしたい……。これから。今すぐにでも」
「ふーん」
「本気なの! 本気、だから。本気でしたい。ゆーくんの口、吸いたい。いけないこと、したい」
語尾は消え入るように小さかった。
蚊の鳴くような声だ。
「僕たち姉弟だろ。姉弟はそんなことしちゃいけねェんだ」
「そんなの関係ないッ!」
亜麻姉は存外、大きい声を出した。
呆気にとられている。
おずおずと。
切り出される。
「ご、ごめん。大きい声ぇ、出しちゃって……うるさかったよね?」とだがしかし、静かな強さをたたえた口調。「でもね、好きなんだよ。お姉ちゃん、ゆーくんのこと大好きなんだよ。心がはちりれそうになるくらい……すっごく、すっごく、好き。ゆーくんに無視されるとつらいし、悪口言われると結構へこむんだよ。けど、ゆーくんに褒められると嬉しくて、なでなでされるとポワポワして、触れられると全身が熱くなるんだ。お姉ちゃん単純だから、ゆーくんに優しくされると勘違いするの。こうやっておんぶなんかされると、幸せな気持ちになっちゃうんだよ。おへそのとこが熱くて、ゆーくんのこともっと好きになっちゃうの」
まるで告白だ、と思った。とても弟に対する言葉とは思えない。恋々たる思慕だった。
異性の家族は遺伝子の関係で、互いに恋愛感情を持つことはない。これは科学的にも証明されていることだ。その点、亜麻姉の感情は常軌を逸していた、と言わざるを得ない。実弟の僕に異性としての肉欲を抱いているのだから。
今から一時間ほど前の話だ。
「こういうことはちょっと言いにくいんだけど、亜麻音の世話するの、もうやめたほうがいいよ」阿賀妻さだめは目を伏せて、そんなことを言った。
僕はちらとさだめを見やる。
さだめは僕の横で寝る亜麻音を憎たらしそうに眺めている。「あたし、覚えてるから。亜麻音が雪嗣にしたこと。散々雪嗣をイジメといて、いざお母さんがいなくなったらこれまでのできごとをなかったことにして、今度は雪嗣に依存するなんて、バカげてるじゃない。でも雪嗣はしっかり亜麻音を支えて、家庭を守って、頑張ってきたんでしょう? もう十分よ。頑張ったわよ。だから、もう我慢しなくていいのよ」唇を強く噛み、ぎゅっと拳を握り締めている。「雪嗣はなんで、こんな女を大切にするのかしら。ただの穀潰しじゃない。見た目はいいかもしれないけど、中身はダメ人間。しかも家族に恋愛感情抱くなんて終わってるわ。ちょっと気持ち悪い」さだめははき捨てるように言う。
「気持ち悪いとか言うんじゃねェ。血のつながった身内だろ、亜麻姉は」
僕は姉の頬にかかる髪を、後ろになでてやった。
亜麻姉はくすぐったそうにする。
あァ。
愛しい。
この人のことがたまらなく、愛しい。世話に手間がかかろうとも、愚かな性格を有していようとも、伸びやかに横臥するこの人に、恋情にも似た想いを抱く。平生へいぜい手厳しく接してはいるものの、それはおそらく愛情の裏返し。僕は亜麻姉を愛している。幼少の頃からずっと、この世に生まれたときからずっと。
亜麻姉を支えてやろうと思った。
幼少の折、ひどい嫌がらせをされようとも、理不尽なことを要求されようとも、亜麻姉のことをどこかで気にかけていた。
親からDVを受けた子供は、親を憎むのではなく、むしろ敬慕する傾向にあると言う。
多分それと類似したもので、母親や亜麻姉につけられた傷がやんぬるかな、かけがいのない自分の存在証明となったのだろう。初めはイヤな気持ちだったのかもしれないけど、継続されていけば次第に、それが慣習となる。慣習を積み重ねることによって、日常となる。日常がきちんと繰り返されなければ、不安に思う。そして、見捨てられたのではないか、と錯誤に満ちた考えに至る。あとは、奈落。落ちるだけだ。そんな底知れぬ穴から少しでも這い上がるため、“傷つける者”を欲するのか……? 自分を見てもらいたくて、認めてもらいたくて、そんな不毛な思考をはたらかせるらしい。
肉体、あるいは精神につけられた傷。傷つけられることは、まがいなりにも他者と向き合っていること。頭の箍たがの外れた僕は、他者を求めていた。僕のことを気にかけてくれ、肉に刻印を押してくれるような他者。何かを破綻させた人間は、自己防衛のための飛躍した論理を身につける。
それは亜麻姉も同一で、心の支えだった母親は不幸にも交通事故で他界。亜麻姉には主だった友人もおらず、寄る辺ない身となった。冷たい孤独。だから、ここではないどこかに逃走しようとした。不安とか寂しさとか、恨めしさとか悲しさとか、そういったものがない交ぜになった感情を胸に、一人洞穴で心も体も凍えさせていたんだ。
今でも変わらない。きっと、冷たい穴の中にいる。闇にぬりつぶされた、空虚な空間。光やぬくもりを求めている。そして、僕と愚にもつかない馴れ合いをする。僕に光やぬくもりを感じているのでは、と思う。
傷の舐め合いみたいなものだ。生産性はなく、慰めにもならない。でも、亜麻姉はそれを望んでいて、僕もそれに応えようとしている。そうして互いの欠陥を埋めようとしている。されど、錯覚でしかない。僕たちは人並み以下の人間のはずなのに、人並みな生き方がしたいと高望みしている。
歪んでいるのだろう。
互いにもつれ合って、絡み合って生きている双樹。
亜麻姉にピッタリ合うように歪んでいるのは弟の僕しかいなくて、僕にピッタリ合うように歪んでいるのは姉の亜麻音しかいない。
きっと互いがいないと生きていけない。歪曲を共有できる人間がいなければ、寂しくてどうしようもない。それほど僕たちは強くない。だから、よりかかるしかない。自分の体重すら支えられないから、相棒の肩をがっちりつかんで、身動きができないようにして、足と足を絡め、手と手をつなげ、胸に顔をうずめ、体を重ねるしかない。そうして双方の型が合致したとき、胸襟に安寧秩序が宿る。それがたとえ自由のきかない安息であっても、互いの行動や想いを縛るものであっても、そのいびつな平和を愛する。平和を実現してくれた相手に感謝とともに恋焦がれる。もっと束縛したい、独占したい、むしろ束縛してほしい、独占してほしい……とそう思う。ますます深みにはまっていく。気がつけば手遅れになっている。
でも、後悔はしていない。
この生き方でいい、と思っている。この生き方のまま、生涯を終えたい。亜麻姉と埒もない生活をこのまま送りたい。そう願うのは罪なのか? あるいは、亜麻姉に手を差し伸べた時から生じた、忌むべき罰なのか?
まァ、いいさ。
罪であろうが罰であろうが、背負うよ。
ずっと。
亜麻姉のために生きる。
そう誓ったからさ。
だから。
だから、亜麻姉ががんばろうと気負えば、できるかぎりのことをしたい。なんでもするよ。それが亜麻姉のためになるのなら。
逆に亜麻姉が奈落の底に堕ちようとするのなら、僕も一緒に堕ちるから。一人で堕ちるのはきっと、寂しいことだと思うから。
柔らかそうなほっぺを指でツンツンすると、弾力に富んだ反応が返ってくる。
転じて亜麻姉は、赤ん坊のように僕の指をぎゅっとにぎった。
思わず、顔がほころぶ。
それをめざとく発見したさだめは、「もう亜麻音に構うのはやめてよ!」とヒステリックに言った。普段の冷静なさだめからは考えられない癇癪だ。「何で雪嗣はそうなの? どうしてそんなに優しくできるの? 笑ってられるの? わけ分かんないわよ!」さだめは引きつった表情を浮かべている。僕の指を握る亜麻姉の手を払う。そして、代わりとばかりに自分の手を握らせた。
さだめを一瞥する。
彼女はまるで覚悟したようにまなじりを決していた。
さだめは何か、言おうとした。
けど。
「それ以上言うンじゃねェよさだめェ」
さだめは悔しそうに僕を見やる。「なによ、こんなことも言わせてくれないの……?」
「どうせ亜麻姉の悪口だろ」
「ち、違うわよ! そんなんじゃ、ないわよ……」
さだめは涙に濡れた目をしていた。顔は赤い。
むっくと起き上がった。亜麻姉の腕を肩にかけ、おんぶする。さだめのとがめるような視線が刺さるが、あんまり気にしないことにした。
「帰る」背中から亜麻姉の体温を感じる。温かい。「草ァ刈りまくって腰が痛いぜ」
阿賀妻家をあとにした。
さよならの声はない。
「……ねぇ、聞いてる? 聞いてるの、ゆーくん?」
「……ん」と亜麻姉の声に覚醒する。過去に思いを巡らせて、意識を保つのをおろそかにしていたらしい。
きっと不満そうな顔をしているに違いない。
亜麻姉はぶすっとした感じで、僕の頬を引っ張った。「弟の分際でおねえちゃんを無視したなぁー。このこの」
「やめろッつーのバカ」
「バカじゃないもん」
「バカなんだよ、亜麻姉は」
「ねぇ、ちゅーは? お姉ちゃんにちゅーしてくれるんでしょお? ねぇ、早く早く。我慢の限界だよ。早くしてよ。こっちは準備万端なんだからね」
「そうだな……どれかの教科でテスト満点取れたら、してやらなくもないぜ」
「本当ぉ? 絶対だからね、絶対の絶対だからね!」亜麻姉は鼻息を荒くした。どうせ無理なくせに、よく意気込めるなと思う。テストはいっつも赤点ギリギリだってのに。「それでさ、その時は舌いれてもいい?」
「それはダメ」
「ケチ」
僕は歩いている。亜麻姉を背負って、宅までの帰途をのんびり徒歩かちあるきしている。
僕は記憶の底に埋没した過去を、どことなく思い出している。
あの時から歯車が狂ってしまって、ネジが落っこちてしまって、運命が軋むようになった。亜麻姉に害され、さだめと遊び、浮永と出会い、火澄と帰った……。
あァ。懐かしいな。あの頃がたまらなく懐かしいな。
遠い彼方の記憶。薄もやのかかった過去。しかし、深くは思い起こさない。これ以上深層の部分を掘り起こすこともない。僕の人生はカッターナイフのようなもので、辛いこと悲しいことは、不要な刃を折って捨てるみたいに、廃棄する。そして、新しい刃に生まれ変わる。鋭さを取り戻して、醜い箇所を取り繕って、きれいさっぱりリフレッシュする。
この生き方ははたして、間違っているのか? 何か本当で何かが嘘なのか? この感情は幻想なのか?
その答えは、たぎる血の還流が教えてくれるだろう。
待とう。
相生する奈落へと。
相克する深淵へと。
太陽が月を喰らう、その日まで。
いびつに白む、光の中で――。




