第二十八話 ファーストキス
手には“カッターナイフ”が握られている。雪嗣は猛る犬の爪や牙に対し、カッターナイフを持って相対しようとしているのだ。
雪嗣は先頭の一匹を切りつけた。腰の据わっていない一撃である。いくらなんでも雪嗣は子供で、格闘技の経験があるわけでもない。
犬は一度ひるんだものの、意に介することなく、本能の赴くままに雪嗣に向かわんとした。数対の群れがいっせいに雪嗣によってたかる。それは死にかけの蛾におびただしい数の蟻が群がるかのようだった。
「あぁ……」
亜麻音は声を漏らすだけで、何もできない。
雪嗣は必死に応戦している。切りつけてもいる。でも、数が違う。雪嗣は腕を犬に噛まれた。したたる牙が雪嗣の肌を食い破り、突き立てられる。雪嗣は擦り切れるような悲鳴を上げた。血が流れている。それを好機とみたか、他の犬どもも雪嗣に喰らいつく。噛み付き、引っかき、雪嗣の血を吸っていく。
それでも、カッターナイフを放すことはしない。
されど。
「お姉ちゃん!」
雪嗣は大声を上げた。
亜麻音は我を取り戻す。
その目に見たものは、犬。一匹が標的をかえ、亜麻音に殺到してきたのである。
亜麻音は立ち上がることもできず、犬が肉薄するを見るだけだ。
それを視界の端で見て取った雪嗣は、ポケットからライターを取り出し、火をつけ、投擲した。渾身の力であった。
雪嗣の思いが届いたのか、ライターは犬に当たり、その身を焼き尽くそうとした。犬はキャンキャンとわめきながら、土に体をこすり付ける。
「へへ……こういうときのために、くすねておいたんだ。お父さんの、ライター」
満身創痍でありながら、雪嗣はポケットに忍ばせておいたライターを取り出す。手持ちのライターは先ほど投げたものも含め、二つ。着火し、犬の眉間に押し当てる。犬は悲鳴を上げて退散する。それを振り回して、周囲の犬を払った。
「逃げるよ!」
雪嗣はペタンとくず折れる亜麻音の手をとった。いまだ恐怖でぐずついていた亜麻音であるが、どうにかこうにか立ち上がることができた。
亜麻音は湿った暖かな手を感じながら、雪嗣とともに逃走した。
ふと見れば、雪嗣の腕は傷だらけだった。穴があいており、どくどくと泉のように血が流れ出ている。服は赤く染まっていた。
亜麻音はこみ上げる激情に耐えられなかった。
「なっ、なんで……ッ! なんでッ、おまえが……」
雪嗣は曖昧に笑うだけだった。
それだけで十分だった。
だがそれでも、当面の脅威が失せたわけではない。
野犬どもはしっかりと、二人の後ろをつけている。
亜麻音の胸に再び、生命の危機を感じさせるような不安が生まれる。
「あっ」
間の抜けた声がした。誰の声だろう、と思った。あ、自分?
気がつけば、地面に突っ伏す自分がいた。どうやら木の根っこにつまずいたらしい。猛烈に足が痛い。転倒のさいに、足を変な方向にひねってしまったのだろうか。亜麻音は痛みに顔をしかめる。
と。
荒々しい鼻息。
それはすぐ後ろからした。
あぁぁ。
亜麻音の胸中を絶望が行き渡る。
わたしがドジだから。
間抜けだから。
おしまい。
亜麻音は体を丸め、これから来るであろう衝撃に備える。
数秒、目を閉じた。
衝撃は来ない。
恐る恐る、目を開ける。
すると。
自らを覆うようにするものがある。まるで自分をかばうように、親鳥が翼を広げて雛を守るように……。
雪嗣は背中で突き立てられる爪牙を感じながらも、笑みを絶やすことはしなかった。
亜麻音は涙を流していた。
それは先ほど洞穴で流した涙とは性質の違う、身を裂かれそうな悲しみと謝意を内包したものだった。
雪嗣は意識が遠のいていく中、亜麻音の震える声と、大人たちの怒号のような声を聞いた気がした。
*
雪嗣は病院で目を覚ました。
痛覚を感じながらも体を起こすと、白い壁に囲まれているのが分かる。開け放たれた窓から風が吹いて、カーテンがそよいだ。
「雪嗣」
「お父さん」
ベットの横に、父がいた。泣きはらしたようなあとがある。目が赤かった。「心配したんだぞ。おまえは、あんな無茶をしおって。探索隊の人たちが見つけてくれなかったら、おまえは死んでいたかもしれん」
「ごめん」
雪嗣は全身を包帯で巻かれていた。何度も取り替えているようだが、包帯に血がにじんでいる。これが自分の体なのかと思うほど、自由が利かないのである。
段々と思い出してきた。一群をなす野犬どもに襲われそうになった亜麻音。カッターナイフを持って突っ込む自分。腕や足にかみつかれ、痛い思いをした。でも、それ以上の熱い感情が痛覚をにぶらせ、応戦することができた。しかし、野犬は標的をうずくまる亜麻音に変更し、急襲しようとした――。
その後は、どうなんだっけ。
……あぁ、僕が、お姉ちゃんをかばって。
思い出すと同時に、チクチクと背中が痛み出す。血がにじむようだ。怖気。雪嗣はブルッと体を痙攣させる。
「いや、いいんだ。謝ることはない」父は申し訳なさそうに言った。「むしろ感謝すべきことなのだろう。おかげで亜麻音は無事だ。おまえの決死の行動のおかげでな」
「うん」雪嗣はほめられて、嬉しそうにした。
無邪気そうな笑顔を見て、父親は尊いものを見るような目をした。
ぎゅっと拳を握る。
「なぁ、雪嗣。心して聞いてくれ。実は、お母さんは……」
「いいよ、分かってるから」
「……そうか」
「お姉ちゃんは?」
「隣の部屋で寝ている。それでな、雪嗣……。お母さんは死んでしまった。これは厳然たる事実だ。分かるか? いくらいびつだったとしても、家族は家族。お母さんの欠落はわたしたちに多大な影響を与える。でも、家族が終わったわけじゃない。人はやり直せる。わたしは妻の言いなりの男だった。おまえを救ってやりたいと思っていた……これだけは信じてほしい。都合のいい話かもしれないがな。お父さんを許してくれるか?」
「いいよ」
「……さもあればよ、亜麻音はおまえに任せるぞ。多分わたしでは、無理なのだろう。父親失格のわたしに娘のお守りなど……。まったく、いつどこでわたしは人としての道を踏み外したのか……」
「でも、僕にとってお父さんは最高のお父さんだよ。お母さんに内緒でちょくちょく、お小遣いくれたり、お菓子くれたりしてくれたもん」
「それは罪滅ぼしと言うやつだ。決してそのようなものではない……どちらにせよ、おまえには世話をかけたな。されど、これからも世話をかけるかもしれん。それでいいか、雪嗣? こんなお父ちゃんで本当にいいのか?」
雪嗣はこくんと首を縦に振った。
父は目頭を押さえた。
やがて。
父は町の寄り合いがあるといい、退室した。
一人になった。
涼風が吹いた。
廊下から足音がする。走っているらしく、あわただしい感じだ。
それは病室の扉を開けた。
肩で息を整えている。
雪嗣の姿を見ると、アルミホイルをくしゃくしゃにしたような表情を浮かべた。
亜麻音は雪嗣にすがりついて、「ごめんごめんごめん」とうわごとのようにつぶやいた。
雪嗣は何もいわず、痛いのも我慢して、亜麻音の背中を優しくなでた。
顔を上げた亜麻音は純な乙女のように唇を震わせて、雪嗣の顔を凝視した。
頬が赤くなっている。雪嗣と目が合うと、さっと視線をそらす。
それはまるで……。
雪嗣の肩に手を乗っける。亜麻音は覚悟したように視線を合わせ、睨むように雪嗣を見た。
息を荒くしながらも、唇を近づける。
雪嗣は遠ざからない。
拒まない。
その距離がゼロになったとき、二人は甘い安らぎとともに、無上の至福に包まれた。
ファーストキスだった。




