第二十七話 満月の夜
その一報は近隣の村民により、突如としてもたらされた。
鉛のように重々しくかげる空。昼だというのに日光を遮って、あたかも夜のようである。
そんな曇天の下、一報を聞いたのは父だった。村民は手振りを交えては、陰鬱そうな顔をさらに陰鬱にした。それは父も同じで、次第に耳を傾ける余裕もなくなったのか、ただガクガクとあごを震わせているだけだった。
それらを扉の隅でうかがっていた雪嗣は、話の詳細こそ分からないものの、何か大変なことが起こったのだと幼心ながら理解した。今にも父の震えがこちらにも伝わってきそうで、怖かった。震えの正体が分からないことにも恐怖を覚える。
話が進むにつれ、父は顔面を青白くしていったが、ふいに門前を過ぎるものがあった。軽トラックである。父はたまぎれたように眺めている。運転者は痺れを切らしたように怒声ともつかない声を張り上げ、クラクションを鳴らす。
村民に促されると、背を老人のように丸くして乗車した。
ついていこうと思ったが、雪嗣を待つことなく車は発進した。村民は黙って吹き上がる排気ガスを見つめている。雪嗣もまた、その村民のように呆然と眺めることしかできなかった。
何が起こったのだろう。
雪嗣は考える。
何が起こったのだろう。
少なくとも、いいことじゃない。
一瞬見えたお父さんの顔、怖かった……。
病魔に魅入られたものの顔をしていた。病の死神が父にとりつき、その命を食らわんとしているように……。
「大丈夫だよ」
雪嗣は村民に肩をつかまれた。見上げる。村民は薄く笑みを浮かべている。大丈夫大丈夫と呪文のように唱えている。
嘘だ、と思った。
「何が」
「ん?」
「何が、起こったんです、か……?」
「あぁ」
と。
村民はえらのように張った頬を引きつらせて、「ぐふふふ」とつぶやいて、なんてことないように言う。「君のお母さんがね、死んじゃっただけだよ」
「え?」
「お母さんがね、お車に、轢かれちった。今お父さんが行ってるからね、病院に行ってるからね、お母さんのところに……。大丈夫大丈夫。お母さんは無事だよ。事も無し。そうだろう? ここは海神様を奉りし幽遠の神域。君のお母さんは海神様に奉仕するものの妻女。大丈夫。神様の御手が彼女を導いてくださる。平気だよ平気平気。ふふふ」村民は壊れたように、「あはははは」と哄笑した。
「え、え、えええ……? お母さんが死んだ? なんで。死ぬ? 僕のせい……? 僕があんなことしたから? カッターナイフの……車に轢かれる……ありえない。怖い。グチャグチャの絵本……。誰かどうにかしてください。……お姉ちゃんは?」
「即死だったんだ即死。道を歩いてたらね、村長のドラ息子がぶいぶいいわせた外車にね、どーんって。映画みたいにね、どーんって飛んじったぁ。バカだねぇ、人轢いちゃったよあのドラ息子。もう逃れられない。死んじゃった。君のお母さん、死んじゃった……これからどうするんだろうね。神社の経営は大丈夫かな? いやいや、君のお父さんのことだ、そこの辺りはきちんと心得てるだろうなぁ。しっかりもののお父さんだ。親孝行しなよ」
「ねぇ、お姉ちゃんは? お姉ちゃんはどうなるの? 壊れちゃうよ。お母さんがいないから……当たり前じゃないか。僕だって分かってたよ。お姉ちゃんに友達なんていないことくらい……お姉ちゃん嘘つきだから、友達百人いるのも嘘だったんだ。お姉ちゃんは寂しがり屋さんだから、お母さんのおっぱいまだ吸ってるんだよ。赤ちゃんみたいだよね。壊れるよ。お母さんがいるからまだ平気でいられたのに、お母さんがいなくなったら、お姉ちゃん、壊れちゃう……」
要領を得ない雪嗣の言葉。かみ合わない会話。齟齬をきたしている。村民も雪嗣も、破綻している。
雪嗣は落涙した。一筋の美しい水が零れ落ちる。
雪嗣の中にある人間らしい感情が、涙腺を緩めさせた。
同時に、恐怖に打ち震えている。いきなりの訃報である。大好きだった母親の死去。村民の言に虚偽らしいものはなく、きっと本当のことだろう。お父さんが軽トラックに乗ったのも、お母さんのいる病院に向かうためであろう。轢断されてズタズタになった妻の身柄を確かめるために、父は戦々恐々と病院に赴いたのだ。
あまりに唐突。
雪嗣は鯉のように口を開けている。
思う。
もし、このことをお姉ちゃんが知ったら……?
悲しむ? 怒る? 嘆く? 憤る?
壊れる?
「君は死んじゃったお母さんのことよりも、まだ生きてるお姉ちゃんの心配するんだ……この親不孝もの! だから親の死に目にも会えぬのだ」村民は雪嗣を突き飛ばした。
雪嗣は痴呆のよう茫洋としている。
と。
雪嗣は瞳孔を大きく広げた。
顔を蒼白にした亜麻音と目が合い、それを合図に亜麻音が脱兎のように家から飛び出していったからだ。
向かう先は――山。濃霧の立ち込める深山。
イヤな予感がした。
「お姉ちゃん!」
雪嗣はあわてて追おうとしたが、亜麻音は木々に呑み込まれたようにその姿を消した。
「お姉ちゃん!」
雪嗣は霧に向けて手を伸ばしたが、その手が亜麻音をつかむことはなかった。
隠森村では大々的な山狩りが敢行された。村民全員にお触れが出され、きこりや猟師など、山に通暁する屈強らが駆り出されたのである。
選抜された探索隊が縦列をなし、手にたいまつを掲げ、おごそかに霧のこもる山中に入っていく。その様子は一種の神事のようでもあり、荘厳なものがあった。
ちょうど満月の夜である。
山に入った男たちは三、四人ほどの班となり、散っていった。一つに集まっていたたいまつの火が別れ、静謐な夜の森をざわめかせる。まるで軍隊を進行させるように、隊をなしてじりじりと包囲網を狭めていくのだった。
山狩りの対象は、沖亜麻音。十一歳のその少女は、霊験あらたかな神山である釘津山にその身をくらませたのであった。
亜麻音は今朝母親を亡くしたばかりである。肉親の死に気でも狂ったのか、山の中にでも逃げ込んだものであろう。村民の見解はそのようなところに落ち着いていた。
「おーい、出ておいで。出ておいで。亜麻音ちゃん」
人のかけ声が森閑と更ける夜にこだまする。返事はなく、たいまつを掲げて隅々まで調べ上げる。探索隊は忍耐強く、霧中の山に目を凝らすのだった。
その声を、亜麻音は洞穴の中で聞いていた。
亜麻音は露に濡れた体を震わせて、おぼろげな意識を必死につなぎとめていた。霧の中を走ったせいか、服に水滴がついている。それが亜麻音の体温を奪ったらしく、亜麻音は冬山の中であるかのようにガクガクと歯の根を鳴らしていた。
いくら夏のみぎりといえども、冷涼な山の洞穴である。山気あふれるこの場所の温度は低い。加えて、霧もある。亜麻音は服の上から体をさすって、薄着のまま飛び出したことを後悔した。
だが……。
一人になりたい。
だからこうやって、逃げ出したのだ。何もかもがイヤになった。人間のいない場所に行きたい。お母さんのいない世界なんて……理解者のいない、敵意しか存在しない世界なんて……いらない。イヤ。わたしは一人になりたい。
そんなわけで、いくら寒くても、心細くても、大人の求めに応じるのは愚かだと思う。亜麻音は歯を食いしばって、身を切る冷気に耐えた。
と。
亜麻音は思わず悲鳴を上げそうになるが、とっさに口元を押さえることに成功した。
穴の奥から、虫が這い出している。ムカデだろうか? 異様な体の構造をした虫が亜麻音のすぐそばにいる。亜麻音は気持ち悪くなって、肝が縮み上がった。
叫びだしたい、と思った。やっぱりダメだ。わたしには、ダメだ。耐えられない。暖かい布団で寝たい。お腹もすいた。ご飯はまだかな。
どこかで獣の咆哮が聞こえる。薄気味悪い。亜麻音は見知らぬ山の姿に恐れを抱く。でも、この状況を招いたのは紛れもない、自分……。いっそ全てを投げ出してしまいたい。ゼロからのリセット。お母さんのおっぱいが吸いたい。
亜麻音の心は今にも押しつぶされようとしていた。
不安と孤独、理不尽なものに対する怒り……それは子供じみたつまらない感情。ケチをつけるだけで、何もしない。ただ震えるだけ。対策を講じようとしない。目をつむって、目を開ければ、暖かいお風呂とご飯がある……そんな妄想にひたり、現実を直視しない。思考を投げる。起こりもしない奇跡に期待して、考えることを放棄する。環境に順応できず、よどみ、腐る。
それは温室育ちの花が、いざ野に植えられても生きられないのと似ていた。亜麻音は性根からして腐食していた。見た目が美しいだけで、傲慢で、居丈高で、つまらないことに拘泥する、痴愚な社会不適合者であった。
呼びかける声は遠ざかっていった。
初めのときはさっさといってしまえと思っていたが、いざいなくなると思うと、寂しくて仕方ない。いかないで、と言いたい。でも、それは亜麻音の矜持が許さない。助けを求めるわけにはいかない。大丈夫。わたしは強い、かわいい、キレイ。
こんな寒さなんて、へっちゃら――。
「ううぅううぅ」
涙がポロポロと土にしみこんでいく。手で押さえても、流れ出る。とまらない。なぜだろう。目がかゆい。
誰か、助けて。
「助けるよ」
その声は、小さいながらも凛と張り詰めたものがあった。
亜麻音はおずおずと頭を上げる。
霧の中。
薄ぼんやりした霧に混じって、顔のようなものが浮かび上がっている。
「大丈夫だよ」
誰かが穴の中に入ってくるのが分かる。身長は低い。亜麻音とさほど変わらない。
「帰ろう、お姉ちゃん」
その誰か――沖雪嗣は、小さい手を姉に伸ばした。
雪嗣は笑っているようだった。
「ここさ、前に僕とさだめちゃんとがかくれんぼで隠れたとこだよね? まさかって思ったけど、ヤマ張ってよかった」
山狩りが行われる前に、雪嗣はすでに山に入っていた。何時間も山中にて彷徨し、大切な人である姉を、亜麻音を探したのである。
そしてついに、発見した。奇跡。奇跡とも言える逢着。
雪嗣は羊のように縮こまる亜麻音の手を握ろうとした。
握ろうとした。
「くるなァァーッ!」
その手をはじいた亜麻音は、キッと雪嗣を睨み、洞窟から飛び出した。後ろを振り返らず、闇雲に走っていく。
「待ってよ!」
雪嗣はあわてて追いかけた。
「くるなくるなくるな」
亜麻音は濃い霧をかき分けるように進む。
「なんで逃げるの? ねぇ、ねぇってば」
「どうせおまえもわたしのこと心の底で見下してんだろわたしには分かってるんだ。マザコンのわたしを気持ち悪いって思ってんだお母さんが死んじゃって逃げ出したわたしを弱虫だと思ってるんだどうせそうなんだろ?」
「違うよ! 僕は、僕は、そんなこと……」
「ひいぃぃッ……」
「お姉ちゃん?」
亜麻音はしりもちをついていた。
眼前には――数体の犬。野犬だろうか。図体は大きく、獰猛そうな目で亜麻音を見ている。
口が開けられた。
亜麻音は、鋭く尖った犬歯を見て、体が動かなくなった。全身が硬直して、どうにもならない。
「やっ、ヤダァ……なんでわたしだけ、こんな目に……」
「お姉ちゃん!」
雪嗣は颯と亜麻音の前に両手を広げて立った。
「大丈夫だからね。僕が、どうにか、するから。心配しなくていいんだよ」
後ろを向いた雪嗣は穏やかに、そんなことを言った。そして歯を強く噛んで、前を向く。雪嗣は殺気立つ野犬どもと対峙した。
なんで?
恐怖にぬりつぶされようとする意識の中、亜麻音はふと思った。なんで、おまえが……。
おまえを虐げたのはわたしなのに、なんでそんなことするんだよ。
亜麻音は雪嗣の背中にこれまで感じたことのない何かを抱いた。
それは凍てる胸を優しく溶かし、包み込む、強く、大きな、想い……。
「だあぁぁぁ」
雪嗣は深呼吸をした後、野犬の群れに突貫した。




