第二十六話 愛と破壊
堕ちた先は不幸な地獄だった。
おぼろげな意識でそう思った。
絵本に描かれている。木が生え、雲が漂い、花が咲き、空が笑う。中央には少女。青色の花を手折り、胸元に持っていく。お花畑。鳥がさえずり、猫が鳴く。夢いっぱいの幼稚園児向けの、かわいらしい絵。
それを塗りつぶす邪悪。黒々とわだかまるタール、毒々しく輝く紅が、絵をけばけばしくぬりつぶす。背景は血の雨。頬には赤い涙。笑っている。愛らしいワンピースは所々傷がつき、痛々しく血塗れた肌が露出している。片方の足は地面に転がっている。笑っている。黒い雲から槍がふってきた。鋭利な穂先が太陽にきらめいている。少女のわき腹に突き刺さる。猫の首がねじ切れた。笑っている。太陽の横に赤い月。空は二つの天体をいただいている。燦々と照る日。そいつに醜く開いた口ができあがる。唇の間からギザギザに並ぶ歯。毒を滴らせたそれが、隣に横たわる赤い月を、喰らう――。
月食。
雪嗣はパタンと絵本をとじた。
お気に入りの絵本だった。
きっと、やったのは母親だろう。おぼろげながらそう思った。この絵本を汚したのはお母さんだ。
この絵本を買ってくれたのは母親だった。大切に使いなさい、と言っていた。
普段、雪嗣のことを虫けらみたいに扱う母が、ふいに見せた優しさであった。
雪嗣は室内にいる間ずーっと絵本を眺めていた。言いつけどおり、大切に使った。学校に行くときも携帯していた。ランドセルに入らないから、両手に抱えて持っていった。
だが。
しかし。
大切にしていたものを壊される。これほどの苦痛がはたしてあるだろうか? それもこれを買い与えたのは母親なのだ。
与えて、壊す。
その心中、推して知るべし――。
絵本はぐちゃぐちゃになっていた。絵の具の黒や赤で汚く塗りつぶされている。悪意のあるいたずら書き。水でもぶっ掛けたのか、紙が汚水を染みこませてすっかりボロボロになっていた。
涙は出ない。
廃棄。
ゴミ箱の中。
夢いっぱいの絵本、ゴミ箱の中。
突如、雪嗣の中で何かが湧いた。その思いが体中を巡り、決起せよと促そうとする。
雪嗣は駆け出した。縁側を抜け、木の根に足を取られながらも、森の険路を進む。無我夢中だった。雪嗣は最果てにあるものを目指して、純真な心をよどんだ暗黒をもってぬりつぶしていた。
無意識に。
無自覚に。
悲鳴とも笑い声ともつかぬ声である。
そんな奇声を上げて、茶の土の上を這う。犬のように地面に鼻を当て、眼球は猫科動物のように細くたわみ、爪を狼のように鋭く突き立てる。その様相は獲物を追う獣に類似している。
やがて。
お目当てのものが。
蜜のように甘く、血のように苦い房事の中、血続きのものが放り捨てた“あれ”が。
雪嗣の手に。
満足そうに、カチカチと。
カチカチカチと。
刃を鳴らした。
雪嗣は陶然と見入った。刃が星明りに反射して、己の存在感を誇示している。
ちっぽけな火種だったに違いない。
ふいに沸きあがった激情に火をつけたのは、日頃から蓄積されていた鬱憤とか悲哀とか虚しさとかだった。それらが雪嗣の心をチョコレートみたいにドロドロに溶かしていった。形を失った感情は、虚無という鋳型を見つけ、それに己が肉を、己が想いを、流し込む。
液体だった己が段々と一つの形になっていくのを感じながら、雪嗣はカチカチと刃を立てていく。同時にカタカタと歯を鳴らしていく。歯の根がかみ合わない。あふれ出るものは歓喜。あるいは、虚無。鋳造される感情。鋳型にかたどられた情動が、雪嗣にとある提案を持ちかける――。
再度険路を駆け抜け、家に戻った。縁側。抜き足で廊下を歩き、とある一室の前に立ち止まる。
そーっと扉を開いた。
寝室である。
部屋の中央には、一式の布団が敷かれていた。
一人の人間が寝ている。長年の家事で骨は軋み、小じわが刻まれるようになった顔。
雪嗣は布団越しのかの腹を見る。
かつて、この腹の内部には一つの生命があった。暖かい羊水に満たされ、胎盤をゆりかごとし、母とへその緒でつながれた一個の胎児があった。
その年月、十年。
十年も前、この肉の塊の中に、僕はいたのか――。
カチカチと。
カチカチカチと。
刃を。
カタカタと。
カタカタカタと。
歯を。
雪嗣は枕元に膝をつき、穏やかそうに寝をとる者の腹に刃を突き立てんと――。
しこうして、脳裏に去来する何か。恨み、そねみ、憎しみ、怒り、悲しみ、喜び、幸せ、愛しさ……。
あと数センチ。
あと数センチ押し当てれば、僕は。
血。
忌むべき血。
ふいに自覚する。
流れる血潮。通っている。目の前の人にも、荒々しく。同一の血が。
母。
自分を虐げ、破壊せんとする悪鬼。理由もなく、原因もなく、ただ気まぐれに雪嗣を踏みしだこうとする。圧倒的強者。沖家の頂点に君臨する王。雪嗣は領民。意志も力もなく、上の意に従うことを是とする哀れな子。ねずみである。しかし、本人すらうかがいようもない暗部で、知らず知らずのうちに、獰悪な牙が研がれていた。鬱屈した感情は抑圧の蓋をこじ開け、唾液のしたたる牙を手でぬぐい、度し難い憎しみを募らせようとする。近親ゆえの憎悪も手伝って。
だがしかし。
その血が雪嗣をとどまらせた。
なぜだろう。答えは出ない。手は止まっている。理由? そんなの分からない。でも、理由なんて、いらない……。
それだけではない。
去来したものはそれだけではない。
亜麻音。
自分の胸の中で髪をかきむしる実姉の姿。深い深い森の中、行儀も作法も心得ず、ただ本能の任せるままに情事を行った姉の追い立てられるような姿に、雪嗣は一抹の哀れを覚え、同時に愛しさをも覚えた。優しく背を抱いてやると、不思議と姉は鎮まった。応じる。亜麻音も実弟の肩に手をかけ、爪で引っかきまくった弟の胸に顔をうずめる。姉の熱い唇が焼きごてのように鎖骨の辺りに烙印される。皮膚を焼き焦がすような灼熱の接吻である。それが雪嗣の唇に届くことはなく、まるでマーキングでもするかのように、体中に刻まれていく。わたしの所有物だと、雪嗣は渡さないと、そう言っているかのように。
雪嗣は好きだった。荒涼たる色が消え、海のような穏やかさをたたえた姉の瞳が好きだった。たびたび交える情事の後、気だるい雰囲気が漂う中で見る姉の瞳はこれまでとは違う安らぎに満ちていた。はかなげにはきかけられる吐息は甘ったるく、肌をなでる指はなめらかだった。お姉ちゃんと呼ぶと、雷に打たれたようにもだえる姉が、たまらなく愛しい。雪嗣の胸中に芽生えるものは紛れもない、“愛”だった。
雪嗣は脆弱な亜麻音を支える柱であった。
雪嗣をねたみ、虐げ、見下すことでいまいち希薄な生を感じ取ることができる。
雪嗣に欲情し、蹂躙し、体を重ねることで女としての愉悦を感じ取ることができる。
一方、亜麻音にとって母は、絶大の信頼をおく柱であった。沖亜麻音という存在の根幹をなす支柱。心許せる友のいない亜麻音を、優しく包み込んでくれる揺籃。雪嗣はその中のおもちゃ。玩具である。母は雪嗣と言うおもちゃを使って、一緒に遊びましょうと亜麻音を誘っているだけに過ぎない。
そんな母。大切な母。
もし消えてしまったら……?
遊び相手がいなくなってしまったら……?
恐ろしい。
きっと亜麻音は壊れてしまうだろう。
雪嗣は刃を収めた。のっそりと立ち上がる。
我慢すればいい。
僕が。
僕が、我慢すればいい。そうすれば、お姉ちゃんは安らかなままだ。
亜麻音の安寧は、雪嗣のたゆまぬ忍耐と覚悟によって結実する。
自らを贄として差し出し、姉と母、両方のもてあそびに耐えるだけで、亜麻音の安息は確約される。体が汚されようが、絵本が汚されようが、そんなものは些少。雪嗣は寛容な心を持って、万人を許容する。
お姉ちゃんを悲しませるなんて、イヤだ。
雪嗣にはそんなけなげさが宿っていて、ひとえに姉を想う心が狂おしい凶器をしまわせた。
しばし母親の寝顔を虚空を見るように眺めた後、雪嗣は静かに退室した。
庭を望む廊下から、星明りが見えた。
昼になると姿を隠し、夜になるとその光輝を空にいただく。
冠である。
星が形作る冠。星座。星のまたたきによってできる聖なる図。それはきらびやかな絵本を想起させる。空そのものがキャンパス。星は筆によって作られた点、あるいは線でもある。神様によってしたためられた天空の絵画。何千何万年と連なる営み。星のなす絵は幾星霜もの間、空を見上げる人々を魅了し続けた。
きっとこの星の巡りのように、連綿と毎日は続く。
そう思っていた。
そんなはずないのに。




