第二十三話 純白 -幕引き-
少女は悩んでいる。
少女は困っている。
少女は苛まれている。
図書室での一角で、少女は一人本を片手にうつむいていた。
すえた本のにおいのする、人気のないスペース。穿たれた空洞の中に、少女はひっそりとたたずんでいる。
遠くから無邪気な喧騒が聞こえるが、少女の耳には届かない。心にも届かない。快活そうに見える顔つきも、今に限って鬱々と沈んでいる。少女はうつろだった。
と。
「どうしたの?」
そんな少女を見かねたようにして、かけられる声。澄んだ音調がうつむく少女の耳朶を揺らした。
少女は戸惑いの表情を見せながらも、声の方向に視線をやった。
うずたかい本棚の間から、光が漏れた。よどんだ本の陰気を掻っ切るようにあらわれる隻影。昼の日差しを引き連れて、その姿を現出する。
「こんにちわ、さだめちゃん」
「……火澄さん」さだめは突如声をかけてきたその人を見て、一驚を喫した。
火澄と呼ばれた少女は静々とした笑みを見せた。「もう、五十鈴でいいって言ったのに……」
「ごめんなさい」
申し訳なさそうにこうべを垂れるさだめを見て、「いやいや、こんな些細なことで明日地球に隕石が降ります、なんて放送を聞いた一般人みたいな表情されても困るよ」とあわあわと顔の前で手をふる。
「でも、あたしより一つ年上だから……」
「さだめちゃんはすごいね。小学三年生で上下関係を意識するなんて」
五十鈴はゆっくりと近づいていった。柔和な面容とは打って変わって、きびきびとした動きだった。指呼の間。五十鈴は小さいさだめの頭をなでなでした。さだめは寡言を通して、されるがままになった。
「悩み事でもあるの?」
優しい声だった。聖母のような慈愛に満ちている。
さだめは感極まったように泣きはらした。
五十鈴はその小さい背中をなでて、さだめを落ち着かせようとする。「お姉ちゃんに言ってごらん」
「うん……」
さだめは堰を切ったように話し出した。
雪嗣が家族からイジメられていることに気付いたのは、一ヶ月ほど前のことだった。
かくれんぼをしていたときの話だ。一向に雪嗣がみつからなくて、悔しかったがどうしようもないので、さだめは一時神社へと戻ることにした。そこでさだめは、おぞましいものを見た。
「あ、あああぁ……」
助けたいと思った。今すぐ飛び出して、雪嗣をすくってやりたいと思った。でも、凄絶な威圧感を持つもう一人のいとこを前にして、身がすくんでしまう。皮膚から漏れ出る瘴気。顔つきはかわいくてキレイなのに、まるで能面みたいに表情がなくて、気持ち悪い。蛇みたいな不気味さがあった。なにより血のつながった弟にあんなことができるなんて、壊れてると思った。
感情が欠落していて、きっと中身は空っぽ。
それでも、さだめはブルブルとふるえて、しゃがみこんでしまう。夏のみぎりだというのに、冷や汗が止まらない。口がカラカラ。吐き気がする。さだめは逃げるようにその場を後にした。
後々考えてみれば、わたしはなんてひどいことをしたのだろう。さだめは自責の念に囚われ、恐怖に負けた自分を恥じた。
でも。
あれは違う。
あれは多分、恐怖しても仕方のない存在なのだ、と考え直した。人という枠組みから外れている。そしてさだめは、にこやかに笑う雪嗣の母親を思い起こした。さだめにとって、おばさんはお菓子をくれて、優しくて、なにかとさだめによくしてくれる人でしかない。
しかし……。
コインだった。表があり、裏がある。それは紙一重で、容易にひっくり返る。息子に見せる顔は、さだめに見せる顔とは大きく遊離している。
五十鈴は黙って耳を済ませていた。初めて聞いたことだった。真実と言うものは醜いものなんだな、とか考える。ずっと胸の底で溜め込んでいたのだろう。そう思うと、不憫で仕方がなかった。五十鈴はさだめの忍耐の強さに尊敬と同時に、一抹の憐憫を抱いた。なまじ精神力があるということは、かくも辛いことを耐えさせる結果となるのだとしたら、その強さに意味はあるのだろうか。
さだめとは時折、図書室で会話する程度だった。互いの本の嗜好が似ているのか、図書室に行くたびに顔を合わせる。すると不思議なもので、両者とも奇妙な縁というか、図書室以外の場所でも会えば話すくらいの仲になっていた。五十鈴のほうがさだめより一つ年上だが、小学生の領域で、そういった年齢の差異はないも同然だった。
沖雪嗣と言う少年のことは、五十鈴も聞いたことがある。隣のクラスに在籍していて、体育の合同授業なんかでその顔を見ることもあった。どこか陰のある雰囲気で、やけに落ち着いたところのある少年。変な子だな、と五十鈴は思っていた。あまり気にしたこともない。しかしながら、さだめからいとこだと聞かされて、少なからず驚いてはいた。性格が正反対すぎて。
昼休みだと言うのに人の往来の少ない図書室の隅で、二人は各々一人の少年のことを考えている。
それは深淵を覗くのと似ていた。普段の自由で楽しい毎日とは異なる、陰々滅滅とした物語。沖雪嗣は自分たちとは違う場所に立っていた。それを自覚したさだめは、名状しがたい疎外感、あるいは恐怖を覚えた。雪嗣がはるか彼方に行ってしまいそうで、二度と自分の前にはあらわれないような気がして――狂おしい。カエルに心臓を舐められるような怖気がせりあがってくる。
天衣無縫なさだめが陰鬱とした図書室に足を運ぶようになったのも、その怖気が遠因なのかもしれない。
「分かった」と話を聞き終えた五十鈴は、ポンと拳を手のひらに当てる。「わたしに任せて」
「任せて……って?」
「雪嗣君のことはわたしがどうにかするよ。大丈夫。心配しないで」五十鈴は胸を張った。
さだめは一筋の光明を見た気がした。
「ありがとう!」
さだめは涙を流した。
五十鈴は困ったように頬をかきながら、さだめをあやした。
阿賀妻さだめ。
火澄五十鈴。
始まりはきっと、両者の逢着にあった。
そうして物語が紐解かれた。その中にあるのは人知を超えた“何か”であった。それが生み出す巨大な波が、知らず知らずのうちに二人を併呑していく。盤に上がってしまっていた。いよいよ二人を捕らえて放さない。
もはや、このときから、小学校の図書室と言う何気ない空間から、舞台の幕が上がっていたのだろう。
その舞台の幕が下りるのは、幾星霜の時を経らねばなるまい。
急激なうねり。
すさまじい渦。
人が紡ぎだす膨大な詩篇。天命にも似たそれは、脚本にも似たそれは、物語を、登場人物たちを、忌むべき盤上に引きずり出す。
好むと好まざるとにかかわらず。
悪であろうと善であろうと。
そして――。
幕ならばきっと、あの男が下ろし《、》てくれるだろう。
第一幕――正常と異常を行き来する狂言回し。
第二幕――生と死の境界上で愉悦する芸術家。
第三幕――禁忌をこの身に宿した純潔の姫君。
第四幕――全てをゼロにする最強最悪の魔王。
第五幕――倒錯した性欲を抱く妄信的な乙女。
第六幕――そして一つの解へと収束する物語。
バラバラだった過去が現在へとつながり、未来へと跳躍していく。
この世界は一つの物語だった。
舞台は整い、役者はそろった。
後は――。
世界と対峙する覚悟があるのかってことだ。




