第二十二話 破綻した家族
棺桶の中だった。
暗く、ほこりっぽい。身動きするたびにガチャガチャ鳴る。大量の書籍や故障中らしい芝刈り機、ダンボールの山。そして少年。そういった有象無象が物置に押し込められている。漆喰で囲まれた閉鎖的な空間。牢。
そんな中、少年は念仏でも唱えるように延々とつぶやいていた。僕はクズです僕はクズです僕はクズです……。それは呪詛のような禍々しさを持っていた。それだけに専心する少年は、空腹も疲れも感じず、ただ初一念に姉の言いつけを守っていた。
時間の感覚はなかった。少年の体内時計は間違いなく狂っている。暗黒に包まれた空間で時刻を知る術はない。日が沈んだのかどうかも不明。しかし、少年にとっては些細なことだった。少年の頭には呪文が渦巻いている。それを口に出して、救われたように両手で合掌した。
物置には熱がこもっている。相当の熱、湿気になっているはずだった。少年は朦朧としていた。意識が今にも途切れそうで、口の中はカラカラ。少年ののどは水分を欲していた。がしかし、些事でしかない。少年は一刻も早く与えられた事務をこなさんとしていた。自分を卑下する言と実姉を尊大とする言。百回を一として、それを三十週。突き詰めて言えば、計三千回言わなければならない。
簡単な言葉のレトリックだが、少年は気付かない。
むしろ、よく思っていた。いつもよりは少ない、と。このように神様のお言葉と称して、延々と題目のようなことを唱えさせることは多々あった。紛れもない苦痛の所業。しかし、少年は苦痛とは思っていない。と言うのもいつもなら千回、二千回と数が多いからであり、今日は百回を三十週と少なくて楽だな――とまぁ、こういうことだった。少年は愚かだった。正常な計算すらできないほど少年の判断力は落ちていた。
虚妄に塗り固められた意志が、劣悪な状況下にもかかわらず、少年の意識をかろうじて保たせていた。それは一本の糸。切れてしまえば、少年は死ぬ。しかし、木の幹よりも太い、強靭な糸だった。
「お姉ちゃんはかわいくて優しくていい人ですお姉ちゃんはかわいくて優しくていい人です……おわった。三十週、した」
やがて。
少年は満足そうに頷いた。
あの後少年は、律儀に物置に自ら入り、呪文を唱えた。それが終了した。少年はどっと汗をかいた。急に全身が疲労を訴えてくる。忘我の境地だった少年は、今になって自分がどういう状態かを理解した。
脱水症状ギリギリだった。
ゆらゆらと揺れる視界が戸板を捉えた。途中で足が曲がって膝を屈する。疲労で足を取られた。ここは砂漠だった。少年は腕を思い切り伸ばして、戸板をスライドさせる。少年を迎えたものは皓々と光る満月だった。
光に慣れていない瞳は、月光ですら拒絶する。少年は腕を前にかかげた。目が月光に慣れるのを待った。
移動。骨が鳴ったが構わない。水がほしい。少年は強く思った。水がほしい。少年はゾンビのように、月夜を徘徊する。
向かった先は台所である。
少年は体を左右に揺らしながら、流し場までの長い道のりを死んだような心持ちで歩いた。
流し場にはコップで水道水を注いでいる姉がいた。艶やかな黒髪を持つ少女。
「お、おわった、よ」
少年は枯らした声を上げた。空をかく手。少年は姉の持つ水を求めていた。
手の届く距離まで近づいた少年。
「これがほしいの?」
少年は頷いた。ごくりと生唾を飲み込む。
「あげる」
姉はコップの中の水を少年にぶちまけた。
水浸しになる少年。声にもならないのか、苦しそうに顔を歪めている。
「気持ち悪い」
姉は眉をひそめて血と土にまみれた少年の顔を見た。軽蔑の一瞥。そのまま去っていく。
その背中を見送った少年は、気が狂ったように蛇口を捻り、水をあびた。口をすすぎ、水を吐き出し、飲み込む。口の中には土がこびりついていた。同時に顔面に付着したものも洗い出される。洗い場に水と唾液と土の混ざった液体が流れた。
少年はイカレていた。
窒息する寸前に抱くような、苦しみとカタルシス。脳内で分泌されるアドレナリン。麻薬のように脳内を駆け巡り、精神に異常な恍惚をもたらす。劇薬だった。少年は心身ともにボロボロになっていた。
でも、享受している。
少年は従順だった。
時計は七時を示していた。
もうすぐでご飯だった。
少年は居間に向かった。
*
居間では配膳をしている母親がいた。エプロンを着衣し、せわしなく膳をそろえている。
少年が来たことに気付いたらしく、「あら」と母親は言った。「早くちゃぶ台につきなさい」
ちゃぶ台には漬け物をぽりぽりと噛んでいる父の姿があった。その横に姉がテレビを見ている。そこに膳を配り終えた母親が座った。
「いただきます」
四人の声が重なる。
今日の献立はシチューだった。じっくりことこと煮込んだもので、ほんわかと湯気が立っている。少年はよだれを垂らしてうまそうと思ったが、残念なことに膳は三つ分しかなかった。ちゃぶ台は二つに分けられており、三人のより一回り小さいちゃぶ台には、ぽつねんと一つ、缶詰が置いてあるだけだった。
姉はスプーンで丁寧にシチューをすくっていった。おいしそうに食べていく。付け合せに漬け物と言うのは変な気もしたが、特に気にならないらしく、姉はなんてことないように食べた。父親は黙って食べ、母親はテレビを楽しそうに視聴している。
少年は缶切りの添えられた缶詰を見た。塩さばだった。
「ねぇ、お母さん」
「どうしたの」
「なんで僕だけ缶詰なの。シチュー食べたいよ」
「ごめんね、雪嗣の分は材料が足りなくてないの。今日はこれで我慢して」
「でも僕、ずっと缶詰だよ。毎日毎日、朝昼晩、缶詰。いい加減飽きちゃうよ」
「わがまま言っちゃダメ。雪嗣はそんな子じゃないでしょう?」
「そうよ。少しはお母さんの言うことくらい、聞いたらどう?」
姉はなんてことないように言った。
それを聞いた母親は、「さすがお姉ちゃんね。雪嗣もわたしたちにたしなめられないようないい子になろうね」と穏やかに言った。
釈然としないものを感じていた少年は、すがるように父親を見た。
父は息子に視線を向けられると、気まずそうに目を逸らした。小さくすまないとつぶやき、黙々とシチューを食べる。少年を無視した。
「そういえばお母さん。雪嗣が今日の昼ね、いとこのさだめちゃんと遊んでたんだけど……」
「さだめちゃんと……? 雪嗣が?」
「うん」
「もう分からない子ね。わたしがあれほど言ったのに……」
母親はすっくと立ち上がり、少年の前に立った。
高圧的な威容。
缶詰を手に取った母親は、流し場のほうに行き、缶詰の中身を三角コーナーに廃棄した。そして雪嗣のほうを振り向き、笑顔を作る。「お母さんの言うこと聞かない子に、ご飯はありません」
「お母さん」
「さだめちゃんは劣等なあなたと違って優秀な子なの。そんないい子があなたみたいなクズと交わってはいけないわ。朱に染まれば赤くなるって故事もあるでしょう? 害悪は隔離しないとダメ。さだめちゃんにはそれとなく言っておきますから、これ以降さだめちゃんと遊んじゃダメよ」
「でも」
「でもじゃありません! お母さんはあなたのためを思って言ってるのよ。なんででもとか言うの? あなたはお母さんのこと嫌いなの?」
「キライなんかじゃ」
「あなたの言葉なんか聞きたくありません。どうせ口ごたえのオンパレードに決まってるわ。これ以上口を開かないでちょうだい。いたずらに二酸化炭素が増えるだけだわ。あなたのせいで地球温暖化が早まってしまったじゃない。地球にも優しくできない子は人間様と接する権利なんてないのよ」
母は履き捨てるように言った。
元の位置に座り、シチューを食べ始める。
ご飯がない少年はどうしようもなく、「ご馳走様」とだけ言い、自分の部屋に下がった。
*
雪嗣はまず、部屋の窓を開けた。密閉された空間に、清新な夜気が入り込んでくる。ずっと森や物置の中にいて熱がたまっている雪嗣は、風で体を覚まそうとした。体も土ぼこりで汚れている。夜風が気持ちよかった。
部屋には何もなかった。机もタンスもイスもない。畳が敷かれ、使い古して薄っぺらになった座布団が一つあるだけ。雪嗣の私物はランドセルや教科書類に限られているのだった。
雪嗣は一時間ほど涼んでいた。やることがなかった。今日は小学校の宿題もなく、やっておくべきこともなく、楽しむべき趣味もない。雪嗣は座布団に座って、風に当たった。
ふと、お風呂に入りたいと思った。体は垢や汚れにまみれている。一度、それらを落としたいと考える。そろそろ母親がお湯を張り終わった頃だろう。雪嗣は思い立ち、一階のお風呂場に出向いた。
脱衣所へと足を踏み入れようとした雪嗣だが、突如お風呂場のドアが開いた。
その先には一糸まとわぬ姉がいた。
雪嗣はまじまじと彫刻のように美しい裸体を見た。小学五年生とは思えぬ妖艶な肉体。自分とは違う構造をした体を前に、雪嗣はただ純粋な驚きにとらわれていた。
そんな少年のあごに強烈な拳骨が叩き込まれた。少年は後ろに倒れ、すごい音をさせて洗濯機にぶつかった。舌を噛んだらしく、顔を青くしている。
少女は慌てて近くにあったバスタオルに手を伸ばした。羞恥心に頬を赤くしている。バスタオルを巻きつけ終わると、姉は威嚇するように雪嗣をねめつけた。怒髪天につき、ぎりぎりと歯軋りしている。そして雪嗣を足蹴にした。普段よりも苛烈だった。少年は手でガードして、必死に耐えている。
と。
騒ぎを聞きつけたらしい母親が脱衣所に入ってきた。息子を虐待する娘。その構図を見た母は瞬時に状況に理解し、迷うことなく娘の行為に加担した。娘とは格の違う力が息子を襲った。全身にあざができる。無言の制裁。二人は舌打ちもせず罵ることもせず、ただ事務的に少年を破壊しようとする。
「いいいだっ、いだいぃ……やめて……助け、て、お母さん……」
「悪い子には教育が必要です」
母は息子の髪を荒っぽくつかんだ。
あざだらけの顔である。
母は眉一つ動かさず言った。「あなたは犬です。飼い主の言うことを聞かない頭の悪い犬です。頭の悪い犬にはしつけが必要です。あなたは犬です。あなたは人ではありません。人には人権が保障されますが、犬には人権が保障されません。痛がったり助けを求めたりするなんておこがましいにもほどがあります。越権行為。それが人権ならぬ犬権ですか。低劣ですね。あなたにはほえる権利すらない。むしろ飼い主に打擲されることを尻尾ふりふりして喜ぶべきなのです。もっと殴ってくださいもっと蹴ってください。ほら唱和」
「もっとなぐってくだざいもっとげっでくだざい」
「もう亜麻音ったら、服も着らずに何やってるの? あなたは女の子なんだから、みだらに裸のままじゃいけないのよ。早く服を着なさい」
「もっとなぐってくだざいもっとげっでくだざい」
「でもお母さん、このパジャマ嫌い。これ、デザインが古臭くてわたしイヤなの。昨日着てたパンダのがいいんだけど、それじゃダメ?」
「もっとなぐっでくだざいもっとげっでくだざい」
「ダメも何もお洋服はそう毎日着るものじゃありません。汚い。それにお母さんはあなたにいつも綺麗なお洋服を着てもらいたいの」
「もっとなぐっでくだざいもっとげっでくだざい」
「分かった。ごめんね、わがまま言って。わたしこれで我慢するから」
パジャマに服を通した姉はにこやかに笑い、母もにこやかに笑い返した。二人はまるで初めから雪嗣がいないかのように話し込み、脱衣所から出て行った。
全身がひりひりしていた。
息ができない。
雪嗣の頬にはなぜか、涙がつたっていた。
人として大切なところに穴が開いたような、そんな空虚なものが雪嗣の心を支配した。一人暗い場所に置いてけぼりにされたような孤独感。雪嗣は光の届かぬ海を漂流する。
少年は床に体を横たえたままつぶやいた。
「もっとなぐっでくだざいもっとげっでくだざい」




