第二十一話 追憶の万華鏡
うだるような暑さだった。
耳を劈くせみ時雨だった。
さしずめ、夏だった。
「もーいーかい」樹下にいた少年は、せみ時雨に負けないくらいの声を上げた。
「もーいーよ」どこからか、返事がする。やまびこのようにビブラートのかかった声だ。
少年はぱっと振り向いた。眼前には新緑に満ちた木立があった。幹は太く、天を覆うように枝葉を張り巡らせている。すえたような野草のかおりが、暑気たけなわな夏を告げていた。
少年は周囲に目を光らせ、辺りを散策しだした。肌は汗で湿っている。木々の隙間から漏れでる日射。のどは渇きを訴えている。少年は歩き出した。
少女は茂みの陰にいた。ひそんでいる。遠くで足音を聞いた。土を踏みしめる音だ。ザクザク言っている。少女は身を縮こまらせて、音の主が通り過ぎることを期待する。
「見つけた」
と。
少年は。
少女を。
「……あれれ?」
茂みに隠れていた少女は祈っていた。何事もなく通り過ぎることを、瞑目して祈っていたが、届かなかった。茂みはかきわけられた。小さい両の手。恐る恐る開いた目は、穏やかに笑む少年の顔を映し出している。
隠れてから数分もたっていないはずだった。ここは左右を巨木で挟まれており、根元は青々と草が群生している。そして、中心部には、ほどよい空間がある。姿をひそめるには絶好の場所。少女は疑問に思った。「なんで?」
「勘だよ」
あまりにあっけらかんとした物言いに、少女は呆気にとられたようだった。しかし純粋そうなその顔は、すぐにぱぁーっと明るくなった。「すごいなぁ、雪お兄ちゃんは。すごいなぁ……エスパーなの? お兄ちゃんはエスパーなの?」少女は少年を仰ぎ見ている。
少年は頭をかいた。
照れていた。
「ねぇ、なんでお兄ちゃんはエスパーなの? 納得の行く説明をしてよ」
「僕はエスパーじゃないよ。エスパーってのは某伊東氏のことを言うんだよ」
「顔だけ外に出してボストンバックに全身を入れる行為を超能力とは言わないよお兄ちゃん。常々お兄ちゃんを理性的な人だと思っていたあたしの理想と尊敬を返してよお兄ちゃん」
「はい、返した」
「そんな子供だまし、幼稚園児ですらだませないと思うな。忌々しげに唾吐いて罵声を浴びせかけるレベルだよ」
「幼稚園児も随分過激になったんだね。僕はカルチャーショックで頭の中真っ白だよ」
「お兄ちゃんは世に言うげしゅたるとほうかいを起こしてるってことだよね。さっさと病院に行くことをお勧めします」
「あーら、急に丁寧語。しかも病院は病院でもオツムのほうの病院だよね。さらっと言ったけど言外にただならない重さが感じられるよね。人はそれを悪意って呼ぶんだよさだめちゃん」
「今度はあたしが鬼かー。あたし、がんばる」
少女は眼をつむり、「いーち、にーい」と大きい声で数字を数えだした。
涼しげな風が木の隙間から流れ、少年の汗を乾かせていく。
野鳥の鳴き交わしが聞こえてくる。次いで、葉のそよぎ、虫の羽音。森の北部からは渺たる海を遠望でき、そこから森の中央に水を引き込んでいる。それは隠森村全体を蛇行しつつも流れる川筋である。川底を打つ清水のせせらぎがそれらの音に混じり、和するのを少年は感じた。
耳慣れた森の歌。
少年は歌に聞き入るのをやめ、「隠れるかな」とその場を後にした。その声は吐息に似ていた。むなしげな色を帯びている。
少年はきょろきょろと辺りを見渡した。やはり、木立に囲まれている。少年は白んだ暑気を感じていた。
しばらく歩を進めると、鬱蒼と繁茂する場所に出た。少年は西の方角に山があることを知っていた。それなりの標高を誇っており、隠森神社同様、神山として村民からの尊崇を集めていた。また、少年たちがかくれんぼに興じているこの森は隠森神社の神域でもあった。
山に近づくに連れて、森は深くなっていく。少年は先ほどの少女と同じように茂みに身をひそめた。
遠くからもーいーかいとかけ声。少年は元気よくもーいーよーと返答してみせた。声の聞こえないところには隠れない。それが二人が定めたルールである。少年は声が聞こえるか聞こえないかくらいの境目であるこの地を、隠れ場所として選んだ。
低木からなるやぶである。少年はうずくまっていた。虫のすだきを聞きながら、孤独に少女に見つけられるのを待つ。それは奇妙な感覚で、見つけてほしくないという感情と、見つけてほしいという感情が交じり合ったものであった。それに僕は隠れているんだ、と言う興奮が加えられ、少年の心は複雑な様相を呈するようになる。
ただ待っている。
手で草や土をもてあそびながら、待っている。
少年はうごめく虫や獣のうめきを肌身で感じている。森は生き物の気配で満ちていた。しかし、人の気配はない。隠れてどれくらいになっただろうか。時間は緩やかに経過している。少女の足音は聞こえない。少年は耳をふさいだ。
何も聞きたくない。
何も感じたくない。
わくわくが塗りつぶされていく。次第に見つけてほしいと強く願う。風が葉を揺らす音。汽笛。少年は飛び出したくなった。こんなじめじめした場所から抜け出したい。湿気を帯びた暑熱。だらだらと皮膚をつたう汗の存在。
僕はここにいるよ。
口まででかかった叫び。
のたくるミミズ。飛び交う羽虫。さえずる山鳥。違う、と思った。僕が聞きたいのは――。
「みーつけた」
人の声。
少年は背後にいる人に両肩をつかまれていた。柔らかい、しっとりと汗に濡れた手だった。
少年の胸は膨らんでいる。不安や恐怖が溶けていくのが分かった。
見つかっちゃったと思いながらも、「見つかっちゃった」と言おうとして少年は、嬉々とした風に後ろを。
後ろを。
「げふっ」
頬に衝撃。葉っぱの堆積した地面に叩きつけられる。少年は呆気にとられたが、脳が状況を理解するのにしばしの時間を必要とした。神経の途絶。少年は濃い草のにおいに顔をしかめつつも、光を背負った何かを認めた。
日射が絞られると、何かの存在が明らかになる。つまりは少女であった。先刻とは別の少女。
少女はいらだたしげに舌打ちをもらし、少年に馬乗りになった。言葉を作ろうとした少年の口は、土の塊によってふさがれた。口内に大量の土が土砂崩れのようになだれ込む。舌が根っこのような細長いものを捉えた。おそらく、少女は草の根っこごと土をとって、少年の口に押し込んだのだろう。
少女は天使のような笑みを浮かべていた。均等の取れた面立ち。美しい黒髪は土で汚れてはいたが、その艶はまるで絹を思わせた。
少女は少年の口を手でふさいだ。なめらかな手だった。すべすべしている。少年は土を吐き出すことも息をすることもできず、ふがふがと間の抜けた音を漏らしている。
手足をばたつかせたが、どうにもならない。少女は体重をかけて、少年に乗っている。おなかの辺りの乗られて、臓器が圧迫されている。少年は呼吸困難に陥った。
「のみこめ」
少女はにこやかに笑っている。満開のひまわりを思わせる笑顔である。少女は頑強に手を少年の口に押し付けた。
のどは異物の侵入を拒んでいたが、呼吸がしたいという生理的な欲求がたちあらわれ、抗えず開放する。するとこれまで口内にあった土は、のど奥に触れ、食堂を通過する。それは堰を切るようだった。怒涛。少年は息苦しさと嫌悪感のあまり、少女の手を払って嘔吐した。のどに手をあて、唾液交じりの土くれを吐き出そうとする。少年は顔面を蒼白にして、うえっとカエルが潰れたようなうめきをはいた。
「のみこめ」
少女は涼しげに笑っている。雲ひとつない晴天を思わせる笑顔である。
少年は恐怖を押さえ込んで、少女の挙措をうかがった。
少女の顔は能面のように機微がなかった。表情筋が笑みの形を作成しているだけだった。それは笑顔と言う仮面を貼り付けているだけで、仮面の裏側には蛆虫がたかっている。
ゆっくりと両手を水平に上げた。キョンシーのようだった。少女は手を上げたまま、少年に接近した。少年は明確な悪意を過敏に感じ取っていたが、動けない。全身に杭を打たれたようだった。体が動くことを拒絶している。少年は何もすることもできず、首を絞める少女の手をただ見ることしかできない。
「苦しいよ」
少年の言葉は届かず、こめられた手は力を増す。きりきりと締め付ける拷問器具を思わせる。少女の表情筋はニコニコとした笑顔を形作っている。血管の浮き上がった指は、執拗に少年の首を圧迫し続けた。少年は己の首をかきむしるようにしたが、少女の腕が動くことはなかった。
徐々に近づく臨界点。呼吸を封じられたこの状況下、刻々と体内の酸素が減っていく。死。注がれた水がコップを完全に満たしたとき、少年は死ぬ。
遠のいていく意識。少年は漠然とした海に漂っている。がしかし、少年はくず折れている。
少女はつまらなさそうに少年を一瞥した。服についていた土ほこりを払う。少女は黒のワンピースを着ていた。とても似合っている。清純な少女の容姿と見事にマッチしたワンピースだった。
「ついてきて」
少女はきびすを返して、すたすたと歩いていった。振り返ることはしなかった。少年が追従してくることを確信している。事実、少年は過呼吸を繰り返してはいるものの、亡霊のように少女の後をついていった。かくれんぼのことも、一緒に遊んでいた少女のことも、すっかり忘れていた。
森を抜けると母屋があった。にわかに日光が強くなった。頭上を覆う枝葉がなくなったからだった。
少女は地面を指差した。凝視すると、そこには蜂の死骸があった。蟻が群がっており、見るも無残なことになっている。
「食べろ」
と。
少女は。
「え」
少年はポカンと口をあけている。
言っている意味が理解できなかった。
「食べろ」
近くにあった木の棒で蜂をつっつきながら、少女はそんな提案をする。
信じがたい趣旨だったが、少年の背筋は凍りついている。目は蜂の遺骸を凝視している。気持ち悪いと少年は思った。ただでさえそんなに虫は好きではないというのに、それを食べる。少年はそんな想像をして、一人身震いした。
「食べろ」
「い、いや、だよ……僕、食べたくない」少年は素直な気持ちを披瀝した。
少女はしばし考え込んだ後、持っていた木の棒をどこぞに投げ捨てた。
少女の顔が徐々に歪んでいく。
漏れ出る瘴気。
おぞましい無表情。
「食べろよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
少年に組み付いた。がっしりと少年をホールドした少女は、少年の髪を荒々しくつかんだ。目には狂気が宿っている。少女は何度も少年の頭を地面に叩きつけた。出血し、顔には血と土と涙。ぐちょぐちょになった顔。少女は骨を軋ませながら、何度も、執拗に、叩きつける。叩きつけまくる。
「わたしが食べろっていってんだから食べろよそれが常識。おまえは常識をわきまえていないクズだ。わたしはそんな救いようのないおまえを教育してやってるんだでもおまえはいやいやするんだろ? おまえは本当にクズだな。人の好意を素直に受け入れられないどうしようもないくだらないアホみたいなクズクズクズ。おまえのようなクズはきちんとした人間が教育しないと立派な人間にはならないって学校で習っただろ算数の時間で。そんな当たり前のことも忘れるなんておまえ狂ってるよ気持ち悪いゴミ以下の存在これだからおまえはクズって言われるんだよ。おまえがクズって言われるから家族のわたしもクズってみんなから言われるんだ分かってるのかおまえは分かってないだろうクズだから。おまえは家族に迷惑をかける悪い子だからおまえのためを思ってわたしが教育するんだ。人として当然のことだろ?」
長広舌をふるった少女は少年の髪を引っ張った。
「い、痛い」
「年長者には敬語使えってわたし何回言ったかな六兆回は言ったよねいや三十四兆回言った。敬語のけの字も使えないなんてだからおまえはクズの中のクズなんだ。クズがクズ道を磨いてどうするんだよ世界クズグランプリに日本代表として参加するのか? ハハ、間違いなく一位だな世界一位確固たる世界一位の称号敬語使えよクズの中のクズ」
「痛い、です」
「痛いと思うからクズなんだこんなことで痛がるからおまえはどうしようもない奴だってみんなからうわさされするんだよそれを分からないおまえでもないだろ? おいわたしは褒めてやってるんだぞよろこべよクズ。筋金入りのクズだって褒め称えられたんだから全身使ってよろこびをあらわせよまったくそんなこともできないからおまえはクズなんだ。笑顔は人を幸せにする魔法なんだ。おまえはわたしを幸せにする義務があるわたしはおまえを不幸にする義務があるほら幸せそうにわらえわらえわらえわらえわらえ」
少年は笑った。
いびつな笑みだった。それが醜く顔面にのりづけされる。
少女は少年の顔を殴った。
「誰が笑えっていったよクズめ人前でおまえの汚い顔をさらすなクズのくせに礼儀をわきまえないクズめ。誰もおまえの笑顔なんて見たくないんだよ。おまえもそれくらいは飲み込めてるだろ自分の笑顔は人を不愉快にするって理解してるだろ? わたしは不愉快だ。どうしてくれるんだ責任取ってくれるのか?」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいなんでもするから許してください僕に責任取らせてください」
「自分はクズですって百回言った後お姉ちゃんはかわいくて優しくていい人って百回言え。百回言ったらもう百回言え。それを三十週繰り返しておまえは救われるおまえの罪は浄化される人様に一歩近づける。おまえは今一度自分がいかに下品で卑劣なのかを理解してわたしがいかに立派ですばらしいかを認識するんだ。不思議だな姉と弟でこんなに差が出るなんて。これも一重におまえが生粋のクズっ子であることに起因する。あぁわたしってなんてけなげな姉なんだろうこんなクソみたいな弟のために頑張ってるんだから国民栄誉賞並みの偉大さだよおまえもそう思うだろ?」
「おおお思いますぅ」
「そうだろそうだろそうだろ? おまえもやっと正しい認識を持ったお姉ちゃんはうれしいぞ」
言え。
言え言え言えいえいえいえいえイエイエ。
僕はクズです僕はクズです僕はクズです僕はクズです僕はクズですお姉ちゃんはかわいくて優しくていい人ですお姉ちゃんはかわいくて優しくていい人ですお姉ちゃんはかわいくて優しくていい人ですお姉ちゃんはかわいくて優しくていい人ですお姉ちゃんはかわいくて優しくていい人です。
「物置の中に入ってそこで三十週しろこれは命令じゃない天命だわたしの言葉は神様からの尊いお言葉だと思え。それが終わるまでずっとそこにいるのよ一時間でも一日でも一年でも人様にこびるのがうまいおまえならわたしの言うことをきちんと聞いてくれるとわたしは信じてるわ。こんなクズを信じるなんてわたしはやっぱり偉大最高。それにくらべておまえは自分を真性のクズだというきちんとした理解をすることもなく毎日をのうのうと生きてるんだから人様に失礼だって思わないの? 自分みたいなクズがかくれんぼなどと言う人様がするような遊びをしていいと思ってるの? ダメよ。クズだから」
冷涼な風が海の方角から吹いてくる。潮風だろうか。磯のかおりの混ざったそれは、壮大な海のイメージを抱かせた。汗を乾かし、髪をさらっていく。白むような日差しが地面に鋭い陰影を刻んでいた。
うららかな夏の日。
海鳥はゆるやかに楽しそうに飛び、木々はパタパタと葉を揺らし、川は涼しげに流れていく。
村はいつもと変わらず生き生きと息づいていた。




