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月喰い  作者: 密室天使
第三章 レコンキスタ
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第二十話 奈落超過の絶対係数

 そうやってしばしぼんやりしていると、遠くから人の声が聞こえてきた。

 どたどたとやかましい足音がして、門を開く音がして、何かが転んだような音がする。言葉にならない悶絶の呻きが聞こえてきた。

「どうやらお出ましみたいね」さだめはやれやれと苦笑している。

「……もう少し穏やかにできねェのかよ」僕は憮然としている。

 庭は門の裏手にある。(いらか)()かれた家屋を半周すると庭にたどり着く計算だが、途中途中に物置やら山積みの書籍なんかがあるもんだから、きっとそれらに足を取られたのだろう。目的地を目指すと言う行為すら、某氏にとっては困難なことらしい。 

 やがて。

「あぁ、やっぱりここだったんだぁ」やけに間延びした声だった。独特のイントネーションとアクセント。僕は土ぼこりにまみれたその惨状を見て、頭が痛くなった。

 亜麻姉は板の間で寝転ぶ僕を認めると、ぱぁーっと笑顔になった。嬉々とした表情で、一心不乱に僕のほうに突っ走る。

「ゆーくん、ゆーくん、ゆーくん……! 逢いたかったよぉ! 寂しかったよぉ! もう、お姉ちゃんがお昼寝と言う人類史上至福のひと時を過ごしてるときにどっかいっちゃうなんて、ゆーくん、ひどいッ! ずっとそばにいてって、言ったのに……忘れたの?」

 絹のような長い黒髪を後ろに流して、亜麻姉が近づいてきた。少し怒っている風だったが、頬はだらしなく緩んでいる。

 しかし、横にさだめの姿を視認すると、とたんに口元を曲げるのだった。「げっ……泥棒猫」亜麻姉は一転して、さだめを睨んだ。「なぁーんでここに泥棒猫がいるのよ!」とそして亜麻姉の舌鋒が僕に向かった。「お姉ちゃんに、納得のいく説明をしてもらおうじゃない!」

 亜麻姉はまず、ここがさだめの家であることを失念しているらしかった。

「……いや、亜麻姉。色々つっこみたいところがあるンだけどまず、泥棒猫ってなんなんだよ……」

「この女に決まってるじゃない!」と亜麻姉はびしっとさだめを指差した。「この女は、わたしがお昼寝でいないのを好機とみて、ゆーくんを人気のないところに連れ出した痴女なのよ、痴女! それはもうハレンチでむふふな淫乱女なのよ! ゆーくんの唇とか体とか、大切なものを盗むつもりなのよ! 泥棒猫、許すまじッ!」

 バカ姉はすっかりヒートアップしている。

「……このクソ女。自分が弟に性欲持った変態だってことを棚に上げて、あたしを淫乱だとあざけるなんて、いい度胸じゃない。でも白い花を黒いといったところで、白い花は白いままなのよ。あたしは純潔の花。痴女だ淫乱だと、バカじゃないかしら」

「まるでわたしが嘘言ってるみたいね」

「違うの?」

「ゆーくんを返しなさい」

「まだ草刈が終わってないわ」

「ゆーくんはわたしのものなの」

「分からず屋ね。自分が使い物にならないからって、そうひがむこともないじゃない。それに、雪嗣は誰のものではないわ。人を物みたいに扱わないでちょうだい」さだめは余裕綽々と言った風だった。

 口では勝てないと踏んだのか、亜麻姉はさだめに組み付いた。

「こんの泥棒猫! ゆーくんを返しなさい」 

「返さないわよブラコン女!」 

 さだめも負けじと、亜麻姉を押し出そうとする。

「うー」

「むー」

 ……まぁーた始まったよ。

 亜麻姉とさだめがこうして衝突するのは日常茶飯事だった。たいていバカ姉がくだんない言いがかりをつけて、売り言葉に買い言葉、さだめがそのけんかを買うっていう悪循環。どっちも血の気が多いから、両者の戦いは必然とすら言えた。

「あのー、お二人さん……?」

 そして、機を見て僕が仲裁に入るのも、一連の成り行きだった。

「うえーん、ゆーくん怖いよぉ、この子がお姉ちゃんをいじめるよぉ……」

 ポンコツ姉が僕の胸元に飛び込んできた。危うく板敷きに頭をぶつけそうになった。

「早く帰ってきてよぉ、お姉ちゃんと一緒に遊ぼうよぉ。草刈なんかしないで、お姉ちゃんとファミコンしようよぉ」

「……あのな、亜麻姉。あんまりわがまま言っちゃいけないよ。これはおばあちゃんに頼まれて、毎年してることなんだ。我慢しようね。ほら、よしよーし」

 僕は亜麻姉の背中をさすってやった。すかさず亜麻姉は赤ん坊のように僕に身を任せ、座っている僕の首に諸手を回してきた。ぎゅっと僕の頭を抱えるようにする。亜麻姉は両足をそろえて、膝の上に乗った。僕に抱っこされるような形になる。

 亜麻姉の身勝手なわがままをたしなめるのも、僕の役目だった。

 僕は亜麻姉の髪に指を通し、軽く後頭部を抱くようして言った。「わがまま言ったら、みんなが困るんだ。それを分からない亜麻姉でもないだろ。ほら、ごめんなさいしよっか」

「……ごめんなさい」亜麻姉はうなだれた。

「僕に謝ってもしかたないだろ。さだめに謝るんだ」

「イヤ」

「謝りなさい」

「イヤ」

「謝りなさい」

「絶対イヤ。あっちのほうが悪いんだもん。お姉ちゃん、悪くないんだもん」亜麻姉はむすっとつむじを曲げた。「ゆーくんはわたしのもんなんだもん。わたしがいない間に、ゆーくんが楽しそうにしてるのがいけないんだもん」

「ッたく、このみょうちくりんめ……」

 僕は亜麻姉の頭をグリグリした。

「うぅ……痛いぃ」

 僕は亜麻姉を離すように押しのけた。「僕はわがままな子が嫌いなんだ。いい子じゃない亜麻姉は嫌いだよ」

「そ、そんなこといわないでよぉ。わたし、ゆーくんに見捨てられたら生きてけないよぉ。お姉ちゃんを嫌いにならないでよぉー」亜麻姉は目を潤ませて、僕にすがりついてきた。

「わがまま言わない?」

「言わない、言わないからぁ」

「ちゃんと謝る?」

「謝る、謝るからぁ」

 僕はさだめのほうを指差した。

「ごめんなさいは?」

「ごご、ごめんなさぁーい」亜麻姉はか細く肩をふるわせている。

 呆気にとられたように見ていたさだめは、「え、ええ」とうろたえるような声を出した。

「分かればいいんだ」僕は亜麻姉の肩を抱いてやった。

「ごめんね、ゆーくん。お姉ちゃん、いい子いい子するからね……」

 亜麻姉はすかさず体を密着させるも、申し訳なさそうに目を伏せた。

 そして。

 ふいに。

 亜麻姉は接吻を求めるように目を閉じ、あごを少し上げた。「ん」

「……キモイ」

 それをみたさだめは、頬を引きつらせ、はき捨てるようにつぶやいた。軽蔑したように亜麻姉に一瞥をくれ、僕にも不審の目を向けている。

「ん」

「……しねェよ」僕は亜麻姉額を小突いた。「いくらなんでも」

「えぇー、なんでぇー! お姉ちゃん反省したよ。反省したんだから、ご褒美ちょうだいよぉ。ゆーくんのイジワル。お姉ちゃんのぷるっぷるの唇を堪能できるチャンスなんだよ? むしろ喜んでちゅっちゅしようよ!」

「もう、唇寄せンじゃねェよバカ。第三者がいンだろ」

「第三者がいなかったら、してくれるの?」

「しねェよバカ。それと、これ見よがしに胸くっつけんな変態」

「むらむらする?」

「シット!」僕の拳が宙を待った。




 *




 空はすっかり暮色に染まっている。

 潮のにおいの混ざった風。ざらざらとした感触が肌にまとわりつく。

 さだめはさらわれる髪を押さえて、遠くの海岸線を眺めていた。  

 刈り取られた草は庭の隅で山をなし、砥石や刃物は物置やら流し場やらに片付けられていた。

 僕たちはただ、風に揺れている。

 板敷きで腰を下ろしている。亜麻姉は寝っころがっている。時折苦しそうに呻くが、ふいに手を伸ばして僕に触れると、顔をにやけさせる。本当に寝ているのかこの女は……? と思うのだが、寝ている。寝ていても、僕の存在を感知できるらしい。

 僕は横目でさだめを見た。

 いとこは難しそうな顔つきをしていた。

「あんたはさ」

 と。

 なんだか時間が止まったような気がして、きょとんとなる。

「あんたはさ、いつまでその女の世話をするつもりなのよ」

 黙した。言葉が口をついてこない。言語に関する神経が千切れてしまったかのようだった。 

 さだめが体の向きを変えた。透徹と凍てる瞳が僕を捉えた。眼球は清流の水を流し込んだように澄み切っている。「あたしには分からないわ。なんでこうまでして、この女のために尽くすのか……」

「家族、だから」僕の声は震えている。

「違うわ」とさだめは即座に断じた。「家族なんて、そんな甘っちょろいもんじゃない。朝飯昼飯夕飯、風呂掃除洗濯、家計の管理に何もできないダメ姉の世話等々……普通、できることじゃないわ。雪嗣のそれは、家族とか、姉弟とか、そんなんじゃ、全然ないのよ。なんかもう、好き合ってる男女みたいだよ……」

 家族。

 姉弟。

 僕と亜麻姉はその枠組みの中にいる。血を分けた縁合いだ。決して離れることはない。友達とか恋人とかと違って、絶対に途絶することはない関係、閉じた世界……。

 扶養している。僕は姉を庇護していて、姉は僕に甘えている。僕は手を上げたりと過激な行動を取ることも多いが、結局は姉の意向に従ってしまうことが多い。姉はそこのところを無意識のうちに心得ていて、僕にもたれかかってくる。全体重を預けてきやがるのさ。僕に全面の信頼を置いているのかもしれない。僕は僕で、甘やかし癖が直っていないのだった。

 いびつな関係、なのだろう。僕と亜麻姉は。

 はたから見ても、いびつ。

 うちから見ても、いびつ。

 刺々しく、禍々しく、初々しく……僕と姉は血脈以上の、思慕とも言える何かによってつながっている。異性同士が抱くような情すれすれの、危うい情緒である。

 共依存だった。お互いがお互いのことを大切に思っていて、狂おしいくらいに一つになりたいと思っている。なんだかんだで、「しょうがないなァ」と妥協するのも、つまりはそういうことなんじゃないかと思った。 

 夕空の太陽がまぶしくて、手をかざす。

 僕のほうに降りそそいでほしくない。

「もしかして、なんだけど……あんた、あのイカレポンチのくそヤロウどもに義理立てでもしてるんじゃないかしら?」



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