第十九話 深淵未満のカーテンコール
君はいつも、世界を見下ろすような冷たい目をしている。
僕はいつから、その瞳に狂おしい焦がれを抱いたのだろうか……。
失われたものを失われたままにしておくな。
なくしたものをなくしたままにしておくな。
さて。
今こそ再征服運動を始めよう。
*
「……ったく、今月も赤字かよォ」
家計簿を広げた僕は、帳面に記載された数字を見て、大いに唸っていた。
月日は流れ、世間は十一月になっていた。
隠森村の家々には、ひっそりと柊の花が咲いていた。よい香りのする白い花で、花弁は反り返っている。その鋭いとげによって邪気を払うとされ、古くから厄除けとして植樹されていた。
柊の開花が初冬を告げている。これまで朝晩は暖かかったが、十一月になったとたん、地面から冷え冷えとしたものが這うようになっていた。
ふと庭のほうに目を向けた。
天狗の団扇のような形をした、八手の葉が茂っている。その奥は深い森になっており、ずっと先に行けば神体を祭っている本殿にたどり着く。今日もおそらく、父が赴いているのだろう。
母親のいない沖家の財政を担っているのは、父親ではなく、僕だった。
沖家は奕世より神職の家系である。僕の父は神主で、海の神に仕えるものだった。また、近隣の信も厚い。正月になると、田舎ながらそれなりに人が集まる。そのときには人手が足りないので、アルバイトを雇ったりすることもあった。
役割分担。僕が帳簿とにらめっこをしている間、父は神様に幣帛を捧げたりする。
一方の姉はというと、何もしない。部屋でごろごろしたり、漫画を読んだりする。姉はポンコツなので何もできないのだ。しかし、下手なことをやられるよりは数倍いい。ま、境内をほうきなんかで掃除してくれると助かったりする。
家計簿を閉じた。
ちゃぶ台にぐてーっとなった。
昼過ぎだった。障子からまぶしい光が差し込んでくる。背の辺りに熱を感じて、心地よかった。僕はポカポカの陽だまりに体を預けた。
家計簿を枕にまどろんでいると、「お勤めご苦労」とからかうような声がした。清冽な小川のせせらぎのように、涼しげだった。
畳に影が伸びていた。ちゃぶ台に突っ伏したままだから、顔は見えない。でも、僕はそれが誰であるかが、瞬時に分かった。「さだめ」
「こっち、向きなさいよ」
背を丸めて、半睡の態。僕は後ろからの声に、「分かった」と返事をした。嘘だ。
「全然分かってないじゃない。あたしがこっち向けって言ってるのよ? さっさとこっちを向きなさい。このバカ」
この女、僕が救出してやったころはけなげな感じだったのに、一週間も過ぎれば元の調子に戻ってしまった。けなげなさだめのほうがいじらしくてかわいかったのに、とか思う。
「……バカっていったほうがバカなンだぞ」
「……言うに事欠いてそれ? 雪嗣の思考回路はいちいち、小学生以下だわ」
「だったら」と僕はのっそりと振り向いた。「おまえは何以上なンだよ」
「さしずめ」阿賀妻さだめは不敵に笑って見せた。「美少女以上ってことにしておくわ」
*
阿賀妻さだめが稀代の芸術家――榎戸岬にかどわかされたのは、十月も中旬に至る折のことだった。さだめはあわや、“芸術”になるところだった。
榎戸岬はこれまでに三人を害した。芸術と称し、バラバラにした体の部位を石膏の中に閉じ込め、まだ見ぬ果てに美を見た。倒錯した美意識だった。そして榎戸岬はおそるべきことに、被害者の頭部を入れ込んだ石膏像を、学校の美術室に展示した。僕が付着した血に気付いたのはまさに、天の配剤。奇怪な天のめぐり合わせだった。
そのめぐり合わせのもと、僕と榎戸岬は壮絶とも言うべき死闘を繰り広げた。やはり、天意なのだろう。沖雪嗣は血縁を救うという悲願を、榎戸岬は絶対のものとする信念を、ぶつけた。結果、榎戸岬は攻防を繰り広げるも、負けた。かろうじて勝ちを拾った僕は、箱に閉じ込められたさだめを救出した。
さだめの衰容はただならぬものがあった。さだめは救急病院に運ばれ、検査を受けた。箱の中で体を固定されたからか、節々はこわばり、顔色は死人のそれだった。胃の中は空っぽで、何度かに分けて睡眠薬を投与されていた。肉体もさることながら、精神的にも衰弱していた。
五日たつと、さだめは平癒の兆しを見せた。一週間の療養の末、退院。元の口をきくようにもなった。閉じられた空間や、暗黒に恐怖を喚起されることもいまだあるようだったが、おおむね元気だった。
障子に遮られた日の光が、薄い影を作っている。
「ブラコン女は今、なにしてるの?」
「亜麻姉なら部屋で寝てるよ。昼寝だ」
「それは好都合ね。あの女、いてもなんの役にも立たないもの」
「毒舌だな」
「草刈よ」さだめは上機嫌に言った。「草刈を手伝いなさい」
そこで甚平をまとった父が通りかかった。
「おや」
どうやら客人の存在に気付いたらしく、腕を組み、十畳の一間に首を巡らせた。
「さだめちゃんじゃないか」
「こんにちは、おじさん」
「ふむ。何かご用かな」
「はい。ちょっと雪嗣をお借りしようかと思って」
「そういえば、もう草刈の時期だったか。好きなだけこき使ってくれてかまわんぞ」
「それはもう」
「雪嗣。粉骨砕身、尽くしなさい」
「いや、でも」
「私は本殿に行ってくる」
「父さん」
僕の叫びもむなしく、なんてことないように父はきびすを返した。
遠ざかっていく足音が無常だった。
「というわけね」さだめは悪い顔をした。そして、僕の腕をつかむ。女の細腕とは思われない、すさまじい力だった。「あたしのために骨を折れってことよ」
「……分かったから、手ェ、放してくンねェから。マジで骨が折れそう」僕は情けないことを言った。
「あら、ごめんなさい」
さだめは手を放した。僕はきりきりと軋む腕をなでつけた。
初めは茫々たる雑草を前にしたとき、「今度ばかりはダメかもしれない」と思ったものだが、やっていくうちに草の量が減っていくのが分かった。
首にタオルをかけて、雑多な草を刈り払っていく。玉のような汗がでるが、そのつどタオルでふき取る。次いで、鎌の柄を強く握って、作業を再開。手首のスナップ。毎年毎年営々と草刈をしているからか、鎌を扱う技術が比較的に向上した、と思う。表裏をなすように、カッターナイフの使い方もうまくなった。
日差しは白んでいて、肌寒い。
草刈は十一月初旬ほか、六月初旬にも行う。梅雨時で、草がすさまじい勢いで生える。僕は毎年二回、実家の雑草を刈り取っている。
労をようする仕事だが、骨身を惜しまず働くというのも、悪くない。
一方のさだめは、研いでいた。縁側で胡坐をかいている。包丁や小刀なんかがあって、水平に砥石に当てて、研いでいた。真剣な表情。僕は庭の草を刈り、さだめは家の中の刃物を研ぐ。それが仕事だ。
僕たちは私語を交わすこともなく、課されたことを専心した。
しばらくすると、盆を携えた祖母が小股に歩いてきた。しわのよった、柔和な老顔である。
「ご苦労様ね、お二人さん」
祖母はコップに麦茶を注いだ。二人分あった。祖母は僕に手招きした。
額の汗をぬぐった僕は、一気に麦茶を飲み干した。渇いた喉に冷たいものが流れ込む。ぷはーとコップを板敷きにおいて、さだめの横にどっと腰を下ろした。
さだめも手を休め、麦茶を一気飲みした。
板に手をついて、雑草の刈り取られた庭を見た。刈り取られたところと、まだ刈り取っていないところとの対比がおもしろい。
庭の隅には柿の木がある。花の咲く季節は五月。花が終わりかけになると、ボトボトッと音をたてて地面に落ちる。まるでパラシュートで降り立つ空挺兵のごとく、我が身を省みず、続々と落下する。その様は壮観で、異様ですらあった。
「亜麻音ちゃんはどうしてるのかしら」
気になったのか、ふと祖母が問うた。
答えるものが誰もいなかったので、「あら」と祖母は言った。事態を呑み込んだらしかった。
亜麻姉がこういったことの役に立たないことを、親類縁者は知悉している。祖母もそのことを思い出したらしい。
僕は後ろに倒れこんだ。足を投げ出し、鴨居を見上げる。「一瞬さ、カッターナイフで草を刈ろうと思ったんだ」
「……カッターナイフ信者が、アホなこと言ってるわ」
貸してみなさいと言って、さだめは先ほどまで使っていた鎌を手に取った。おそらく、後で砥石で磨るのだろう、と思った。
下着は汗を吸っている。
風が心地よい。
涼風だった。
さだめも同じように倒れこんだ。
その様子を見た祖母は、「あらあら」と口元に袖を当てて、忍び笑いをした。盆を胸に抱えて、流し場のほうに去っていく。
小気味よい疲労感があった。
目を閉じると、わずかに潮騒のざわめきが耳に入ってくる。
「まだ刈り取ってない草があるわ。寝ちゃダメ」
「分かってるよ」
草刈が終わったわけではなかった。まだ、仕事は残っている。
「……汗水たらしてがんばるあんた、わりとカッコよかったわよ」
さだめは言った。
風に溶け込むような、力の抜けた声だった。
僕は珍奇な生物を発見したような感じになった。
さだめはぼんやりと上を見つめている。
僕もぼんやりと意識を沈ませた。疲労感を訴える肉体は、板敷きに張り付くように、脱力する。
「……おまえもさ、一生懸命刃物研いでて、すごかった」
「……そうかしら」
「やまんばみたいで」
「…………」
密室天使です。第三章、始まりました。この章は主人公であり狂言回しであり隠れシスコンでもある、沖雪嗣の過去編と相成ります。ご講読ください。
って言うか、拙作のサブタイトルのことごとくが中二病(汗)。




