第十八話 楽園に出口などなく
神隠しの件は大体的に放送された。なにせ内容が内容なだけに、事件性は抜群だった。
人の肉を石膏に封じ込め、それを芸術と称する、倒錯した本性。
人はそれを狂気と呼び、蛮行と呼んだ。彼女が望むように、それを芸術として扱う人は皆無だった。哀れな話だと思った。彼女が求めたものは、あくなき賞賛と喝采だったに違いない。しかし、現実はその理想と甚だ乖離している。そう考えると、報われなかった。しかし、榎戸岬が報われることを、多くの人は望まないだろう。
僕と阿賀妻さだめは警察の取調べを受けた。結果は、疑わしき点なしとのことだった。まぁ、そうかもしれない。あの状況でどちらが悪いかなんて、明白だった。石膏は彼女の指紋でべったりだったし、そもそもアトリエは彼女の持ち家だった。
また、予期せぬところで、僕たちは評価されていた。
さだめは連続解体魔に囚われた悲劇のヒロインで、僕はそのヒロインを救い、殺人鬼を倒した英雄、らしい。身勝手なものだ。僕の苦労やさだめの痛苦も知らずに、のうのうと、そんなことをのたまう。僕は憤然としたものを覚えたが、まぁいいさ。勝手に言わせておいてやるよ。
榎戸岬は重傷ながらも生きていた。片方の眼球はつぶれ、骨は何本も折れていたが、心臓は動いていた。彼女は病院に搬入されたあと、しばらくの間療養し、ゆくゆくは裁判を受ける手はずになっていた。しかし、彼女が法廷に立つことはなかった。自殺したからだった。
彼女は失意のどん底にあったにちがいない。その原因が片目を失ったことでも、体中の骨折でも、裁判を受けることでもない。一重に、己の指が四本、複雑骨折して二度とは動かせないことを知ったからに違いなかった。指が動かせなければ、作品は作れない。つまりは、そういうことだった。
さだめの顔を見た亜麻姉の顔は、豆鉄砲を食らった鳩のようだった。ポカンとさだめを見やり、僕を見た。亜麻姉は泣き崩れ、わんわんとわめいた。やはり亜麻姉は亜麻姉なりに、さだめのことを心配していたらしかった。いつもの悪口は鳴りを潜め、さだめの無事に安堵するだけだった。
同時に、榎戸岬が連続解体魔であることを知った亜麻姉は、呆然と僕を見た。そして今度は、しゃくりあげるようにむせび泣いた。唯一の親友だと思っていたのかもしれない。その人を失い、亜麻姉は僕の胸に顔をうずめた。僕は亜麻姉の背中をさすって、子守唄を歌ってやった。
悲報だった。紛れもない悲報。榎戸岬の影響力は尋常ではなかった。人の死を生み、死闘を生み、悲しみを生み、涙を生んだ。遺族は生涯、彼女のことを恨みに思うだろう。さだめは理不尽な仕打ちに怒りを覚えるだろう。亜麻姉はやりきれなさで鬱屈するだろう。僕は……。
胸に手を当ててみる。
あぁ。
この感情を人は、親しみというのかもしれない。僕は彼女に近しいものを感じていた。ベクトルはまったく異なるが、その根本はきっと、同じなのではないか、と思う。僕は彼女の芸術をかけらも理解できないが、その根底に榎戸岬に巣食う根源があることだけは理解できる。
獣を飼っていた。
彼女はたまたまその正体に気づくことができて、かつ手懐けるほどの力があった。それは石膏で塗り固められた一つのペーパーナイフだった。装飾が過剰で、紙を切るためだけに使うのは、とてももったいないと思わせる代物だ。それはただ美を希求していて、驚くほど純粋だった。しかし、あまりに澄み切っているためか、倫理というものを解さなかった。ただそれだけの話だった。
さだめを連れ立って、榎戸岬のアトリエから出たとき、すっかり雨は上がっていた。誘拐犯を誅したおかげで、雨がやんだのかもしれない。
さだめは僕の肩にすがって、今にも途切れそうな呼吸を確かなものにしようとしていた。再会の喜びはなく、それほどまでにさだめは衰弱しきっていた。それでも僕が僕であることは分かるらしく、体を預けてくる。その重さが心地よいと思った。
僕が前にもまして、例のカッターナイフに絶大な信頼を寄せたことは、言うまでもない。こいつは戦友だ。僕は日夜、カッターナイフを愛でている。
風が海鳴りをともなって、窓から入ってきた。
金曜日の夕方。
僕は制服のまま、迫り来る冬の気配を感じていた。もうすぐ十一月になる。ぼちぼち寒くなる頃合だった。例年に比べて九月十月は温暖だったが、十一月に入った途端、急激に冷えると天気予報が伝えていた。
窓の縁に尻を乗っけて、遠くにある海を眺める。
海は穏やかに波を打ち寄せている。
海鳥が船にひかれて飛んでいる。
平和な光景だった。
こんな平和が一生続けばいいな、と願ったところでなんになるのか。世界は平和ではなかった。憎しみと争いにあふれている。裏側では戦争や紛争、犯罪や殺戮が平然と行われているのだ。僕たちはそれを知らない。僕たちが見ている世界は、表層の上澄みでしかない。
ちょっと覗いてみれば、虫唾の走る醜悪がある。そうに違いなかった。
眼下に広がる、穏やかな景色。平和だった。でもその裏にある醜悪に思いを巡らすと、ふいに吐き気に襲われた。
と。
あぁ……そういうことなのか。僕は納得していた。これが、稀代の芸術の言う、美醜なのか……。
美の中に醜。
醜の中に美。
世界とは元より、そういうものではないのか? 美と思っていたものが醜で、醜と思っていたものが美……。なんということだ。これが世界――。
なんとなく、榎戸岬の恐るべき思索に至る過程が見えた気がした。
「雪嗣」
さだめが入室してきたのが横目でわかった。退院して二日目になる。頬はこけてはいるが、元気そうだった。
「ンだよ」
さだめは目を伏せた。ぎゅっと拳を強く握り、何か言おうとしているのが分かる。
やがて。
「ありがと」
「……いいって。んな謝ンなくても」
「でも、あたしのせいなんだよね? あたしが間抜けだったからっ、雪嗣は、あたしのために」
「いいンだ」僕は視線をさだめから窓外へと移した。「別におまえが責任感じなくてもいいンだよ。あれは僕の好きでやったことなんだから」
「でも」
「海をさ」
と。
さだめを一瞥して。
「海をさ、一緒に見ようぜ」
僕は手招きした。
さだめはおずおずと近づいてくる。
僕はさだめの手を引っ張って、抱き寄せた。
僕の胸にさだめの頭がうずもれる形になる。
不思議とさだめは抵抗しなかった。
「あれはさ、悪夢なんだ。黒い箱の中の悪夢。夢は起きたら覚める。だろ?」
「……そうね」さだめはクシャっと相好を崩した。
僕はさだめの髪を指ですいた。ただ愛しかった。こうして無事だったさだめのことが、愛しくてたまらなかった。
僕はさだめを解放して言った。「イスに座れよ」
「あたしに命令しないで。雪嗣のくせに」
「いいから座れって。ここはもう定員なんだ」僕は窓の縁を手で叩いた。「だからイスで我慢してくれよ」
さだめは不承不承、イスに座った。でもなんだかんだいって、顔が笑っているのが分かる。
「キレイだわ」
「だよなァ。心が洗われるって言うか、母なる海よーって感じだよな」
「違うわよ。これよ、これ。どこで買ったの? すごく高そうな奴じゃない」さだめは机上にあるものを手に取っていた。
「もらったンだよ」
「もらったって……あ、もしかして彼女だったりするのかしら?」さだめは悪そうな笑みを浮かべて、しげしげとそれを眺めた。
真鍮が日光に鈍く反射している。装飾過多なしつらえは、見るものの心を奪う。刃付けされているからか、鋭く尖った印象を与える。
「使うのがもったいないわ。雪嗣はいちいち、こんな高級品で紙を切ったりするの?」
「しねェよ。観賞用なんだよ」
「もらったなんてうそ、あたしにはお見通しだわ。あたしだったらこれ、絶対他人に譲りたくないもの。これはこっそりと持って、一人、目で楽しむものよ。……拾ったの? 盗んだの? ほら、白状しなさい」
さだめは執拗に問い詰めてくる。
僕はニヘヘとしまらない笑みを浮かべているに違いない。
「なんていうかな。……戦利品?」
世界はカオスへと至る。




