第十六話 狂言回しvs芸術家 (2)
走りながら、ポケットにあるカッターナイフをつっ込んだ右の手でつかみ、引き上げる。すばやく刃を出して、強く握った。手に程よくなじむ感触が、こんなときにでも心地よく感じる。
走る間に腰にカッターナイフを添え、右足を出す。居合いのような構えから、白刃のごとく、颯と鞘走る――。
「さて」
まず感じたことは、勢いを殺された、ということだった。徐々に足を加速させて放った一撃。必殺の剣。
胴を一薙ぎするはずだった。
でも。
「殺気のこもった剣だね」
榎戸岬は薄ら笑いを浮かべて、カチカチと鳴らしている。
……カチカチ?
カチカチとなっているのは、僕や榎戸岬の歯の根ではなく、カッターナイフとペーパーナイフが突き当たる音だった。
ペーパーナイフは、榎戸岬の手につながっている。ひそかに所持していたらしい。
「隠し剣か」僕は歯噛みした。
「大のお気に入りでね。惚れ惚れするようなデザインだろう?」榎戸岬は唇を吊り上げた。
そのペーパーナイフは真鍮でできていた。鈍い銀色を発している。流麗で、装飾過多だった。
それはまるで、榎戸岬の本質を表しているみたいだった。繊細で華美で、でも芯は強い。カッターナイフを受け止めているのが、その証拠だった。この道具は、榎戸岬の分身とも言えた。
「だったら、僕のカッターナイフも捨てたもんじゃねェだろ」
「君のそれは粗暴な感じがしてね、好きになれないよ」
「でもさ、あんたはその粗暴の刃にぶった切られるンだぜ?」
僕はカッターナイフを手元に引き、わずかな距離をとる。榎戸岬は前にのめった。カッターナイフがしなるように、榎戸岬の首に伸びた。
届かない。
手首を少し動かしただけだった。たったそれだけの動きで、ペーパーナイフが劇的な軌道をたどる。受け止められるカッターナイフ。交差する刃越しに、チェシャ猫のように笑む女がいた。
背中に冷や汗がつたってくるのが分かった。
「おやおや」榎戸岬は笑っている。「おやおや」その笑顔が曖昧になっていく。「おやおや」それはまるでつばぜり合いのようだった。「おやおや」手首の力だけでカッターナイフが押し出されてしまう。「おやおや」重心が崩れる。「おやおや」その間隙を逃すはずもなく、切りつけてくる。頬にペーパーナイフがかすめていく感じがあった。
血が一筋垂れる。
――クソッタレッ!
僕は心中で悪態をつき、振るわれたペーパーナイフを凝視した。
本来なら、ペーパーナイフは先端が尖っているだけで、安全な代物である。ペーパーナイフで紙を切る原理は、繊維の強度の弱くなった折り目に沿って切り分けるに過ぎない。この場合、鋭利な刃物だと繊維の強弱に関係なく紙を切り裂いてしまうため、折り目どおりに切れず、刃の走った後はいびつな形となってしまう。
つまり、ペーパーナイフは鋭利さを捨て、折り目に沿って切ることに専念した、特異な刃物なのである。
だが……。
ばっと飛びしさった僕は、背を丸め、四つんばいのような形で相手の挙措をうかがった。
榎戸岬は放心したように佇立している。
不気味だった。
髪は乱れ、前髪が整った顔を覆った。すだれのようになった髪の隙間から、ぎょろぎょろと爬虫類のように動く眼球が見えた。悪鬼のような面差しだった。
「……刃付けをやりやがったな」僕は忌々しげにつぶやいた。
切り付けられ、血が垂れているのが、その証だった。榎戸岬のペーパーナイフは持ってしかるべき“折り目正しさ”を捨て、ペーパーナイフにあるまじき“鋭さ”を手中にした。己の道理を曲げ、邪道に走ったのだ。ペーパーナイフはその身に、忌むべき刃の鋭さを仕込んでいた。
榎戸岬は答えることなく、ただ突っ立っている。
と。
……んン?
そいつは何の予備動作もなく、まるで挨拶を交わすような自然体で、接近してきた。
驚くまもなく、がら空きの懐に入ってきやがる。
意表をつかれた、と言うわけじゃない。
ただ……気がつけば、一筋の妖しげな切っ先が、すぐそばに。
「惑え」
鋭利な刃がやにわに、襲ってくる。刺さる。肩。ズプズプと、面白いように侵入してくる。肌を裂き、肉の筋を切り割り、服が赤くにじむ。血が刃をつたって落ちてくる。
初めは針を通したような痛みが、徐々に鋭さを増してくる。歯医者で麻酔を打たれたような感じ。それがやがて、肉を焼ききるような灼熱に変わっていく。
「世界は隅々まで光に満ち」
まるで歌うように。
「地平線の彼方には奔放な宝石がちりばめられ」
まるで踊るように。
「刀剣に飾られるは絢爛豪華な文様透かし」
まるで舞うように。
「世界はわたしのおもちゃ箱」
まるで狂うように。
「満ちたりた光の世界の中、美しいわたしはいる」
舞い散る鮮血。
舞い踊る笑声。
榎戸岬はがんぜない赤子のように嬉々として笑う。
そこは血しぶきに彩られた舞台。
終極へと至る残虐遊戯。
ペーパーナイフが肉をえぐる。
わけの分からない感情、そしてつんざくような激痛が押し寄せてくる。
「……痛ェ」
「それが美というものだよ、沖雪嗣」
僕は腹筋の要領で勢いをつけて起き上がった。
榎戸岬は余裕を持って後退した。
肩を抑えた手のひらが、どす黒い血に染まっていた。頭がクラクラした。視界がグラグラする。酩酊する意識。呼吸は全然できなくて、陸上なのに呼吸困難になっている。酸素が入らないから、思考がまとまらない。
バットで頭をフルスイングされたら、きっとこんな感じになるんだろうな。
そんなことを思った。
「……はァ……はァ……はァ」
榎戸岬は表情筋を凍結させていた。
さきほどの楽しげな様子はなく、能面を思わせる無表情さ。
そして……。
榎戸岬はペーパーナイフを持った右腕を前に突き出し、頤の下に左の手のひらを水平に当てた。脱力させるように肩を落とすが、目は鷹のように鋭い。あごを下げ、片方の足はやや後ろに引かれるさまは、鹿のごとき敏捷さを隠し持っているかのようだった。
……今度はしっかり構えンのかよ。
「無理をしないほうがいい」
榎戸岬は言った。
「どちらにせよ、君は死ぬ」
榎戸岬は跳躍した。
あァ、ヤバイな。
かすむ視界が躍動する何かをとらえたとき、ふとそう思った。
体の中で洪水が起きているようだ。
熱くたぎる血の流れを皮膚の裏で感じている。傷口からはどんどん血があふれ、痛覚は心身をむしばむ。
体をうねる怒涛の奔流。その隙間から漏れる、一条の光芒。死をつかさどる光芒。ペーパーナイフの流麗な光芒――。
「っくそったれッ! ここで立ちとまるわけにゃいかねェーんだよッ!」
歯を食いしばり、雌伏するいたちのように姿勢を下げ、カッターナイフを強く握り、突貫した。
榎戸岬は。
榎戸岬は動揺することもなく、正面衝突を避け、体を左にそらした。
交錯する影。
勢いもそのまま、前につんのめる僕。
背後からジリジリとこげるような害意を肌身で感じ、とっさに体を半回転させた。
眼前には、刃。
蛇のように曲がりくねるペーパーナイフを、かろうじて受け止めた。
一歩退いては一歩進み。
一歩進んでは一歩退き。
響き渡るは金属の連なり。戛々と音を立てて振動し、室の中は熱気と殺気にむれこもる。
時折冷涼な風が下から漏れるが、それでも肉体に火照る熱が冷めることもなく、ましてはこの狂わんばかりの情動を誰が冷やせようか?
刃は重なり合い、通じ合い、響き合い、そして一つとなる。早鐘のように脈動する心音が、煮えたぎるクレッシェンドのビートを刻んでいる。
僕たちはくしくも、可憐に純粋に、巡るましい狂気に包まれながら、相手のための葬送曲を奏でていた。
僕は一歩前に出た。
肩の痛みはとうに失われ、あるのは目の前の敵を屠るという盲目の意志のみだった。
冷たく潤む刃。肉薄するカッターナイフ。
終われ。
僕はつぶやいた。
呪いのようにつぶやいた。
圧倒的に、他の追随を許すことなく、可及的速やかに――。
終われ。
と。
足を踏み鳴らす音。
僕は重心を崩した。おかげでカッターナイフの軌道がそれる。刃は榎戸岬の肉を切ることなく、服にかする程度だった。
なんで。
足元を見た。木の板。微妙に隆起している。
それはシーソーのようだった。
板の端に重いものを乗っけたから、もう片方の端が持ち上がる。
重いものとは、榎戸岬の足だった。
「この小屋の構造は、ことごとく知っているんでね」
榎戸岬のペーパーナイフが、俄然殺到してきた。榎戸岬の体がたちまち山のように大きいものとなり、視界いっぱいに広がっていく。恐怖が見せる幻影だった。
僕は床を横に転がった。
そして、彼女を見る。
ペーパーナイフをだらりと提げ、榎戸岬は突き刺すような眼差しを向けた。倣岸なものがうかがえた。僕は自分の中身を見透かされたような恐怖に駆られた。五体がしびれたように動かない。芸術家の射るような目が僕の心を深く、扼していたのだ。
長い対峙。
その間、一度も構えを崩さなかったが、カッターナイフを握る指の感覚は失せていた。爪が手のひらの肌に突き立っている。その痛みだけがあった。
榎戸岬は微動だにしない。




