第十五話 狂言回しvs芸術家 (1)
榎戸岬はきびすを返し、「ついてくるといい」と言った。
無防備に背中を見せ、歩いていく。
どうしたものかと迷ったが、カッターナイフをしまった。今彼女を刺して、事態が好転するわけでもない。
僕は大人しく、彼女に追従した。
雨は勢威を失わず、地をぬらしていた。ぬかるみができている。その上を榎戸岬は、傘も差さずに歩いている。濡れてもお構いなしだ。
「亜麻音から聞いたよ」妖艶に雨を頬にしたたらせ、榎戸岬は言った。どこか楽しそうな語調だった。「君は時間さえあれば、阿賀妻さだめを探しているのだろう? けなげだね。そんなことをしたところで、見つかるわけがないのに」
「いてもたってもいられなかったんだ」
「その後が面白い。君は何時間も探し回った。でも見つからない。当然だね。君は悄然と家に帰った。家に帰った君は、玄関に迎えに来た亜麻音を一目見て、泣きじゃくったそうじゃないか。そして、亜麻音の胸に飛び込んで、ごめんなさいごめんなさいとつぶやきながら落涙した、と」
……口の軽い亜麻姉め。
「あの女、今月の小遣い半分にしてやる」
「おやおや、驚くにはまだ早いんじゃないのかな。なにせ君は……その後、亜麻音と二人でお風呂に入ったのだから」
「…………」
「君が虚脱状態で入浴している折のことだったらしいね。亜麻音が乱入してきた。いつもなら咎めるところだったろうが、もはやそんな気力はなく、亜麻音と湯につかった。おおかたそういうところだろう。まったく、君たち姉弟は常識を平気で打ち破ってくる。普通この年にもなって、姉弟そろって風呂に入るかね? まぁ、さすがにいかがわしいことはなかった――と見るべきだろうが、それでも驚異の一言だね。亜麻音曰く、君の髪と背中を洗い、流してあげたそうじゃないか。甲斐甲斐しい子だ。よほど君のことが好きなのだろう。君のことを話す亜麻音は、本当に幸せそうな顔をするんだ。自分の最高の宝物を見せるような感じでね、君のニックネームを愛しそうに呼ぶんだよ。そんな彼女だ。毎度毎度突っぱねないで、少しは大切にしてあげたほうがいいとわたしは思うのだが」
「……うるさい」
「亜麻音のどこが不満なのかな。彼女は綺麗だろう? 艶のある髪、花が咲いたような唇、つぶらな瞳、雪のような肌……最高じゃないか。尾篭な話だが、わたしが男だったらむしゃぶりついてるところだよ。周囲の男も似たようなことを思っているに違いない。いいのかな。自分の姉が、違う男に純潔を散らせてしまうかもしれないよ? トチ狂った卑劣漢に襲われでもしたら、笑えないね。……いやね、亜麻音がほかの男になびくとは考えづらいだろう? もし彼女がセックスするとしたら、十中八九、強制的な性交――強姦になっちゃうだろうね。純情でうぶな彼女のことだ。穢されでもしたら、世をはかなんでの自殺か、君と心中か……。これはわたしの想像だが、彼女は処女だろうね絶対。いずれほかの男に取られるくらいなら、いっそ、自分の手で……なんて君は思ったりするのかな。君は姉の処女の血を、吸いたくはないのかな?」
「……次から次へと言葉がつく奴だぜ。あんたがそんな、下卑た人だったとは思わなかった」
「上等な人間なんて、そうそういないものだよ。人を感動させる絵を描く芸術家でも、下等な奴はいっぱいいるさ。作品と人格は無関係なのだから」
「あんたに限っていえば、作品と人格は大いに関係あると思うけどな」
「うまいことを言えと、誰が言ったかな」
雨の中、小道を進む。
気がつけば民家から遠ざかり、野原が広がるばかりの空き地に出た。
「もう少し歩けば、わたしのアトリエがある。そこに、彼女がいるよ」
*
アトリエは簡素な掘っ立て小屋だった。その横に一回り大きい家が建てられている。これが本来の居住空間らしかった。掘っ立て小屋はいかにも、住むには不向きそうな造りだった。
周囲はススキが茫々と伸びていた。彼岸花が咲いている。毒々しい赤が雨露に光り、濡れそぼつ娼婦のような妖しさをかもしていた。枯れ草のすえたにおいが、鼻腔をついた。
家はがらんとしていた。どちらの家屋も、光がともっておらず、寂々とかげっている。それをいぶかしむ僕の様子を感じ取ったのか、榎戸岬は寂しそうに言った。
「両親は三年前に他界してね、家にいるのは頭のぼけた祖母だけだ。寝ているのだろう。祖母は一日の大半を寝てすごす困り者なんだ。しかし、ま、痴呆にうろちょろされるよりはましだろう。ある意味、扱いに困らないという意味では、助かるのかもしれないがね」
榎戸岬は掘っ立て小屋の扉を開けた。目まぜで入るよう促す。ためらいの気持ちがあった。でも、二の足を踏んでは、前に進めない。頭の隅にさだめの顔がよぎった。僕は決起して、今にも崩れそうな小屋の中に入った。
小屋の中には、作業台らしきテーブルと、塗り固められた石膏があった。一生外の光を浴びてこなかった人間の皮膚のように真っ白。それぞれ、体の部位ごとにまとめられている。頭は頭、足は足、手は手……。奇妙な秩序があった。中は雑然としているのに、不思議と統率されている。僕は美術室の机の並びを思い出した。あれも榎戸岬の趣味なのだろうか。
床は木の板だった。汚れがある。注視すると、それが血痕であることが分かる。ふいてもふき取れなかった、血の跡。体中に怖気の雷が走った。
と。
怖気はまだ、この小屋に満ちている。
隔離されたスペースがあった。床にチョークのようなもので線が引いてある。一線。隔てられた先には、やはり石膏があった。しかし、そのスペースにある石膏は、かもし出す雰囲気が違った。
それらの一部は、製作の途中のようだった。
石膏で固められた隙間から、肌色が見えた。そして、血塗れた切断面。僕は狂おしい感情に包まれた。その部位は足だった。僕は立てかけてあるのこぎりを見て、悟った。のこぎりには血がべっとりと付着していた。
この小屋には“何人”、いるのだろう。
神隠しでさらわれた人数は、ニュースで判じる限り、三人。さだめを含め、四人。榎戸岬の口吻から推してみるに、さだめはまだ生きている可能性がある。とすれば、僕と榎戸岬を含め、六人いる計算になる。
僕は魂の戦慄を抱いて、榎戸岬を見た。
榎戸岬は奥にある黒い箱をさすっていた。人一人はゆうにはいれそうな、黒い箱。榎戸岬は愛しそうに、箱の表面をなでていた。
「“彼女”との出会いは、河川敷でのことだった」
と。
榎戸岬は。
「わたしは散歩をしていた。一つは気分転換のためで、一つは“モデル”探しでね、わたしをときめかせてくれるモデルを探していたんだ。わたしはさりげなく、行きかう人々を注視した。でも、そんなものそう簡単に見つかるわけもなくても、難儀したよ。わたしの芸術もそろそろ、次のステップに行きたいと思っていたからね。ここのところでとびっきりのモデルがほしかったんだ。思わずよだれを垂らしてしまうほどの、他を圧倒するようなモデル。素材がよければ、おのずと完成品の質も上がるからね」
滔々と語っている。
箱を愛でる手を休めない。
僕はポケットに手を突っ込んだ。
「でも、見つからない。わたしは今日も収穫なしと肩を落として、潔く帰ろうとしたんだ。そうして諦めかけていたとき、彼女と出会った。そこは海から引き込んだ川の流れるところでね、彼女は対岸の道を歩いていたんだ。運命だと思った。心臓が激しく脈打つのを感じた。わたしは慌てて河川敷までいって、食い入るように彼女を見つめたのさ。彼女は美しかった。美貌だったよ。これほど美しい人を、わたしは知らない。そして、これほどわたしの芸術に合う素材を、わたしは知らない。わたしはさりげなく、彼女のあとをついていった。住所を確かめたのさ。それで彼女が、阿賀妻さだめという名前であることを知った。九月の初旬の頃の話だ」
榎戸岬はトントンと箱を叩いた。返事はなかったが、榎戸岬は微笑を崩さなかった。
「その中に、いるのか」
「ああ。いるよ」
「さだめは生きているのか? それとも――“芸術”になっちまったのか?」
「それは――自分で確かめるといい」
僕は走り出した。




