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月喰い  作者: 密室天使
第二章 楽園探し
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第十四話 メランコリック・レイン

 雨が降っていた。冷たく、糸のように細い霧雨だった。

 今は昼の一時ごろだが、かれこれ昨日の夜更けから降りしきっているようだった。濡れこもるように山の稜線(りょうせん)をおぼろにしており、真昼だというのに薄暗い。太陽が厚い雲の裏に身を潜めているのだ。

 黒板に図形やら式やらを書き連ね、公式を教えている先生の声に、張りはない。教室の中は、憂鬱な雨模様のように気分が沈んでいるようだった。

 時計の針は(ごう)も進まず、ペンを握る手も進まず、漫然と物思いにふける僕がいた。

 考えていたことは、いとこのさだめのことだった。さだめは行方不明になっていた。

 父からその報を聞いたとき、抜く手も見せず斬られたような、すさまじい衝撃が走った。体の肉を切り割られ、骨まで絶たれたかのような戦慄。僕は愕然となった。そして、呆然となった。痴呆のように頭が真っ白になり、考えが及ばなくなる。空虚。刹那、僕は卒倒するように前のめりになり、父の肩を乱暴につかんだ。僕は問いただした。「それは本当なのか」と。

 父はその非礼を咎めることもなく、ただ重々しく首肯した。頷いて、僕の手をゆっくりと離させた。及び腰になっていた僕は、すとんと背骨を抜かれたようにくず折れた。僕の唇は笑みの形を作っていた。冗談だろ、と思った。つまらない冗談だ。僕は心の中で一笑に付した。

 しかし、父のかもす雰囲気が、決して冗談でないことを告げていた。 

 僕はやにわに、走り出した。弦から放たれた矢のようだった。僕は靴を履くことなく、縁側から直接、さだめの家へと向かった。穏やかな日差しがやけに間延びして感じられ、イライラした。

 その後のニュースで、阿賀妻(あがづま)さだめが第四の犠牲者として報じられたのだった。

 胸中に激しい悔恨が渦巻いた。父からの一報は、さだめと街に出た次の日に受けた。夜更けてもさだめが帰宅しないため、にわかに騒然となった、らしい。父はその折、たまたまさだめの家にいたため、その騒動の渦中にいた。家の人々はさだめが僕と連れたって街に出かけたことを知らなかった。しかし父は知っていたので、話した。血縁の僕に信頼を寄せている家人は、安堵の息を漏らした。もうすぐしたら帰ってくるかもしれない。騒ぎはひとまず収まった。午後十時過ぎのことだった。

 だが、さだめは予想に反して、帰ってこなかった。また騒ぎになった。さだめの家まで駆けてきた僕は、祖父母からそのことを聞いた。僕は気を失いそうになった。狂おしい失意に達し、焦りはいくえにも巡り、押し寄せるものは悔いだった。

 僕は懺悔(ざんげ)するように事の始終を話した。さだめと街に出かけたこと、映画を見たこと、服屋に行ったこと、参考書を買いに言ったこと……。

 押しつぶされそうになっていた。自分はとんでもないことをしたのではないかと思った。さだめを見捨てたのではないかと思った。少なくとも、さだめの姿を最後に認めたのは、自分だった。

 家まで送っていくべきだったのだ。激しい後悔にさいなまれた。事実、そうしようとした。けれど、さだめが拒んだ。さだめは顔の前で手をふりふりして、「一人で帰れるもん」とか何とか言って、あわただしく去っていったのだった。そこで引き止めておけばよかったものの、引き止めなかった。神隠しのことを耳にしていたというのに、待っての一言が言えなかった。僕が送っていくよ。さだめは顔をしかめただろうが、それでも強引に手を引いていくべきだった。

 胸の中に言い訳めいたものが生じる。僕はそれに嫌悪感を覚えた。だが、どしがたい罪悪感はどうしようもなかった。

 雨が勢いを増してきた。重く垂れ込める曇天と、やむことのない雨。僕の心象風景のようで、その奇妙な合致に鬱々としたものを覚える。

 警察に連絡した後、僕は無意味な探索を続けていた。ひまがあれば村中を歩き回り、やみくもに彷徨する。当てなどなかった。ただ漠然と、土や草を踏んでいる。罪滅ぼしと言う気持ちはなかった。心底にそういう気持ちがあったかもしれないが、根にあるのはさだめの笑顔だった。別に己に課した苦役だとか、代償行為の一環というわけでもない。こうすることでさだめに一歩でも近づけるのではないかと、ただそれだけの虚しい気持ちだった。

 同時に、さだめをかどわかした奴は絶対にぶった切ってやる、と思った。見つけ次第、血反吐をはかせてやる。そんな暗い熱が一過した。さだめを最後に見たのは僕で、まるで僕がさだめを拉致したみたいで、さだめの拉致を意図して看過したみたいで、みんなが僕を糾弾しているみたいで、気が滅入ったのだろう。そういった罪の意識や、後悔の念が、身を焦がすような憎悪の牙をみがいたのかもしれなかった。

 この雨がやむことはない。

 窓ガラスにへばりつく水滴を見て、思った。この雨がやむことは、決してないだろう。

 犯人を見つけ、断罪するまでは。



 *




 僕は導かれるようにその教室に入った。

 窓に夕刻の雨空が張り付いている。雲は鈍い色をしたまま際限なく広がっており、薄墨をはいたような薄い膜が、空を覆っている。

 眼下には広々とした空間があった。ズレなく配置された机は整然としており、几帳面に過ぎるように思えた。きちんとしすぎて、一糸乱れず統率された軍隊のような気味の悪さ。机上に筆やペンなどがばらついているのに、教室の中は一つに完結しているように見える。散らかった乱雑さすら、秩序の一部に組み込まれているようだった。過剰にまとまっている。

 そして、机を見下ろすように鎮座した、数体の像。石膏像。背景には何点かの絵画が飾られている。剣を持った剽悍(ひょうかん)な兵士と、優雅に足を組む貴婦人。それはまるで後光のように、石膏像を魁夷(かいい)で、人知を超えたものに見せるのだった。

 人気はない。

 ぬくもりのない無機物がそこにあるだけだった。

「おやおや」

 人の声がする。

 あざけるような声音だ。その声は聞き慣れていたが、中身がまるで違うことに気付いた。声質は刃物のような鋭さを帯びている。どこか人を食ったようなトーンがあった。

 作品を並べる棚は、教室の後方にある。

 声は教室の前方から聞こえてきた。

 静々と歩いている。コツコツと足音を滑らせ、教室の空気を呑み込んでいき、その存在感を強大にしていく。見なくても分かる。背中に針を当たられたみたいだ。肌が総毛立っていく。濃く禍々しい気が、僕の意識に侵食してくるのが分かった。

 振り返る。

「まったく、わたし好みの空ではないか」

 距離にして十メートル弱。

 榎戸岬は首を少し曲げて、はかなげに空を見上げた。

「誰かにさ、『おまえ、どんな天気が好きだ?』って問われることが一生に一度はあると思うンだよ。答えのない不毛な問いさ。でも、答えなきゃ場がしらけるからな、必ず答えなきゃいけねェ。そういうとき、僕はこう答えるね。『晴れだ』って。愚直にさ、透き通るような晴天が好きなんだって言うんだよ。カラッとしてるだろ? 僕はくもりとか雨とか、人をメランコリックにさせるような天気が大っ嫌いンだよ」

「意見の相違だね」榎戸岬はくくくと笑った。「どうやら君とわたしは相容れない存在らしい」手を伸ばした。ガラス越しにある雨をつかもうとしているかのようだった。「本質は同じ、とわたしは見て取ったのだが……」

「材料が違うんじゃねェの?」僕は榎戸岬を一瞥した。「設計図が同じでも、材料が違えばそれは、まったくの別もんだろ。木製でも、鉄製でも、まったく。構成する資材からして違うんだよ」

 雨が窓を打った。冷雨。風も吹いてきた。

「わたしは一目見て思ったよ。君がこちら側の人間だとね」

「こちら側って、どちら側だよ」

 気がつけば、ため口になっている自分に気付いた。前までなら、敬語を使っていた。そりゃ、先輩だから当然のことだった。だが、ため口を使っている。尊敬が失せたわけではない、というのに……。

 心境の変化なのか。

 違う、と一蹴する。榎戸岬に対する敬意はまだ、失ってはいない。稀代の芸術家。この人の創造したものはことごとく、僕の胸を打った。

 しいて言うなら、浮永に対するそれだった。親しみと畏怖。榎戸岬の眼光には、打ち抜くような冷たさと、思わず触れたくなるような魔性があった。榎戸岬は完璧なる個体というわけではなく、所々ほころびがあるところにまた、惹かれる。人は自分に近しくなければ、憧憬を抱かない。鹿は虎にあこがれを抱くことはない。同種の俊敏な個体にあこがれることはあっても、異種に備わる鋭い爪牙にあこがれはせず、むしろ恐怖を抱くように。

「こちら側だよ。君には見えないのかな。この一線が」榎戸岬は手前で、指を真横に動かした。空中に見えない線が引かれる。

「見えない」にべもなく言った。

「残念だよ。君なら、わたしの芸術を理解してくれると思っていたのだがね。君はわたしの芸術に一定の理解を示していたというのに……ここから先は越えられない、などとうそぶくのかな」

「僕には理解できンね、こんな芸術」

 僕は石膏像を手で抱えた。

 ずしりと重たい。

 石膏が僕の指の肌にぴったり接合するかのようだった。べったりと手のひらの汗を吸っている。まるで生き物みたいだ。胎動している。心臓をわしづかみにしているようで、イヤな気分になる。

 僕は石膏像を床に叩きつけた。石膏像が悲鳴を上げるように派手な音がして、リノリウムの床にぶちまけられる。そしてココナッツのように外皮がぱっくりと割れ、中にあるものが床の上を転がった。

 それは人の頭だった。

「封じ込めやがったんだあんたは。石膏像に、切断した人の頭を――」

 ころころと転がった頭。にごった目が僕を見つめている。眼球はドロドロに溶け、うちくぼんだ眼窩(がんか)のみが僕に向けられている。これが授業中、僕をずっと見ていたと思うと、身の毛がよだつ思いだった。しかも僕は、こんな醜悪な物体を石膏という皮に覆われていたとはいえ、“芸術”と見ていたのだ。

「ちまたの連続誘拐犯の正体は、あんただったんだ。そうだろ、榎戸岬」

 榎戸岬は顔の右半分を手で隠していた。残った左目で、僕の腰のあたりを注視している。

 沈黙。

 室内におぞましい気配が漂った。

「……よく気付いたね。石膏の中に人の頭部があるなどと」

「血だよ。血がついていた。爪が甘かったな。抜き取られていなかった。おおかた、念願の芸術ができて、細部に目を向ける心の余裕がなかったからだろうけど」

「吐き気がするかい?」榎戸岬は尋ねた。

「吐き気がするね」僕は答えた。

「その吐き気の中に、どこか、目もくらむような法悦が含まれていることに気付かないかい?」

 榎戸岬の瞳に、光がともった。物狂おしい我執を内包した、触れれば触れた手が溶けてしまうような、(じゃ)をほうふつとさせる光。

 人の深淵を見た気がした。人の心の奥底にある、表層にあってはならない偏執。普段は檻の中に閉じ込めてある。何重にも柵で囲って、首輪をつけておく類のものである。

 獣だった。妄念を食い物にする、悪しき獣。それが、表層に浮かび上がっている。

「……妄想だ。んなの、タチの悪ィ妄想だ」

「人は美の中にある醜にもまた、美を見出すものだろう?」榎戸岬は笑った。やけにみずみずしい笑声だった。「未知の領域なんだ、これは。誰も足を踏み入れたことのない、前人未到の領域。殺害と造形の融合。一足す一は十にも二十にもなる。一つの芸術形態だった。忌避すべき邪悪と、高尚な精神とが見事にかみ合った、世界に対する一つの解。わたしは見出したのさ。その目くるめく恍惚というものを」

「こんなの、ただの死骸の一部じゃねェか。断じて芸術なんかじゃねェ。死滅したたんぱく質の塊だろ」

「そんなつまらない表現で片付けられるのは心外だね。これは芸術だよ。吐き気がそれの証さ。吐き気をもよおす醜悪に人は惹かれるものさ」

「確かにこれは芸術かも知れねェ。異彩を放っていることは間違いない。それは断言できる」

「だろう」

「けど、少なくとも、僕は惹かれてなんかいない。そして、今後、あんたの芸術に惹かれる人間もまた、いない」僕は美しい彼女を見た。肌は雨間だというのに、十分な照りを持っている。僕は言った。「芸術も、共感者がいなけりゃ、ただのガラクタなんだよ」

「…………」

「生きているのなら、さだめを出せ。開放しろ」と言ったものの、確信あっての物言いではなかった。ただ漠然と、眼前の女が犯人だと思った。漏れでていた。どす黒い瘴気。異常者の気配。この女ならば、人を一人かどわかすくらい平気でやるだろう。そんな凄絶な気配があった。

 毒。

 吸い込んでしまうだけで、死に至るだろう。

 榎戸岬は致死量の毒を振りまいていた。

「死んでいるとしたら?」

 あんのじょう、榎戸岬はそんなことを言った。言下に、手元にさだめがいることを吐露するのと同義だった。

 僕はちらと腐った頭を見た。醜い。死んでいる。腐敗臭が鼻をついた。こいつも彼女の毒気に当たったのか。哀れだと思った。美しいとは思わなかった。

 僕はポケットからカッターナイフを取り出して言った。「あんたをガラクタにするまでだよ」


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