第十三話 神隠れ
結局、参考書選びは十分程度で終了し、僕たちは駅前の広場にいた。
中央には噴水があって、それを囲うようにベンチが配置してある。僕とさだめはその一角に腰を下ろした。
さだめは日射に照らされた頬を寡言に保ち、ぼんやりと昼の空を見上げている。
広場では幼い子供たちがかけっこをしたりして、母親を困らせている。
後は電車に乗って帰るだけだった。でも、さだめは動こうとはせず、魂が抜け落ちたみたいにベンチに座っている。
僕は何もできなくて、ただきゃっきゃと騒ぐ子供たちを眺めている。
「あれま」
と。
見知った声。
「君とはよく会うものだね」
「先輩」
声の主は榎戸岬だった。
先輩は隙のないコーディネートで身を包み、颯爽としている。
「おやおや、これはいわゆるデートと言うやつかな」と先輩はからかうように言って、僕を、そしてさだめを見た。
見た。
先輩は瞳孔を拡大させて、まじまじとさだめを見る。凝視する。
「……先輩」様子がおかしかった。「どうかしたんですか」
「……いや、なんでもないよ。なんでもない」
僕は奇妙に感じた。
先輩はさだめのほうに視軸を合わせた。「弟君。彼女はいったい、どういう素性で、どういった出自で、つまりは何者なのかな?」
「僕のいとこです」僕は簡略にあらわした。
さだめは静かに目礼を交わした。さだめと先輩は初対面だった。
先輩はまんじりともしない。
「ふぅむ。いとこ、ね」先輩の目が妖しく光った。
「あの、あなたは……」
「僕の一つ上の先輩だよ。榎戸先輩」
「榎戸岬だ。よろしく」先輩はさだめに手を出した。
握手。
先輩はさだめの手や指をなめずるように指を絡めた。蛇みたいに舌を這わせて、歯に毒を滴らせている……そう見える。さだめを食べてしまいそうだ。丸呑み。
やがて満足そうに頷くと、「いや、まったく……思ってもみない」と顔の右半分を手で覆い、左の眸で虚空を見つめている。異様だった。
「あの……先輩?」
「おっと、みなまで言うな。わたしには分かっているよ。……ここまでが潮時かな。欲をかいては我が身を滅ぼすだけだからね。では、学校で会おう。ふふふ」榎戸先輩は一人で完結して、潮が引いていくように去っていった。なぜ自分が駅前の広場にいたのか、告げもせずに。
奇をてらったような、意味深な言葉。
僕とさだめは置いてけぼりの風になった。
「……変な人」さだめは言った。口調にさっきまでの微妙な気まずさはなかった。
「美術部の部長やってンだ、あの人。稀代の芸術家」僕の頭の中に、あの石膏像が想起された。存在感抜群の、全神経を彫像に巻きつけているかのようなファシーな感覚。「芸術家だから、感性が独特なのかもしれねェ」
プラットホームで電車を待つ。
しばらくして、人ごみととも搭乗。隣同士に席に座り、次々と様変わりする風景を眺める。林立した建造物に、掘割に架かる鋼橋。密集したビルはいかにも窮屈そうで、むき出しの橋梁は無骨だった。縦横に巡る道路と水脈。切土を儲け、平坦な地表を作り、住みやすい土地を作る。この地区は元来、傾斜の激しい狭隘の地だった。丘陵があり、大河があり、点々と畑があるような僻地。しかし、時の流れとともに開拓され、開発されていった。ニュータウン。たちまち県内一の大都市に成熟する。
それで僕の居住する隠森の村は、時代に取り残された土地、というわけさ。誇れるのは歴史くらいか。隠森神社は平安時代より人々の信仰を集めている。村民から熱く遇され、幾重にもわたる戦乱を見事に乗り切った、霊験あらたかな神域。
今となってはそんなもの、完全に忘れ去られているが。
到着。わずらわしいとすら言える都会の雰囲気から脱し、元の静謐に戻る。隠森村は今日も穏やかだった。
改札口を抜けると、まず畑中の一本道が見える。それに沿うように電信柱が突っ立っていて、土の盛り上がった畦畔が走っている。駅前には停留所があって、二十分ほどバスに乗れば、隠森神社に着く計算。
停留所の屋根は風雨で腐っており、木材のベンチに座っている人はいなかった。
純然たる田舎。
見慣れた風景に安堵する。
「うーん、帰ってきたぁって感じだわ」さだめは伸びをした。まるで自分は一人暮らしで、ひさしぶりに帰省してきたみたいだった。
「疲れた。歩き回ったり、電車に乗ったりして」
「そうね。でも、ここまできたら後ちょっとじゃない」
「さだめはこれから、バスって奴に乗らなきゃいけないことを忘れてるな?」
「……そうだったわ」さだめは肩を落とした。「でも、もう少しだけ、一緒にいられる……」
僕がポカンと間抜けた面をさらしていると、さだめはふいに拳を振り上げて、ポカポカ殴ってくる。意味の分からない奴だ。なんでいきなり殴るんだ。
透き通るような日が差している。すぐ近くには雑木林があって、獣のいななきや虫のすだきが聞こえてきた。むれるような草木のかおりが鼻腔を刺激する。
強い風が吹いてくる。
落ち場が風にもてあそばれ、狂いだしたようにクルクルと踊り、さだめの笑顔がクルクルと回る。さしずめ、後二十分ほどさだめの暴力に付き合わなきゃいけないわけで、ニコニコ笑いながら僕を殴打する面貌が頭に強く、焼きついた。
どたどたとあわただしい足音がする。床の間の一室で、その音を聞いている。
何かが板敷きを滑るように走ってきた。呼吸を整える間もなく、障子を開く。白むような朝日とともに、ぬっと山のような威容があらわれる。
「……息せき切って、どうしたんだよ」僕は洗濯物をたたむ手を休めて問うた。突如もたらされた奇態を、いぶかしむ気持ちがはたらいた。
一片の余裕すら感じられない挙措で敷居をまたぎ、畳を踏む。障子を閉めることはせず、黙って膝をつき、端座した。僕と対峙するような形となる。
「いいか、よく聞け」
父は般若のような面相をしていた。カタカタと歯を打ち鳴らしている。薄く垂れた唇が、色の悪い紫に染まっていた。
その魔に憑かれた気迫に呑まれていることを自覚しながら、かろうじて、おうと返事をした。父のおののきが、こちらにまで伝達したかのような心地だった。
息の詰まるような沈黙が流れた後、ふいに父がにじり寄ってきて言った。
「さだめちゃんが神隠しにあった」




