第十一話 ツンでデレな青春デート
といっても、豆腐をぶった切るくらいしかやることがないのだった。
飯は昨夜のうちにしこんである。吸い物はしいたけとにんじんを切って、出汁にしょうゆで味付け、できあがったのに木の芽とつまを浮かばせれば、完成。簡単だ。誰にでも作れる。作れないのは亜麻姉くらいだ。
流し場の戸が開く気配がした。見てみると、拝殿から帰ってきた父がいた。
父は腕を組んで、包丁を手に取る息子をじつと眺めていた。
「……んだよ、父さん。じろじろ見て」
「おまえ、体からやけにシャンプーの匂いがするぞ」父は胡乱な目で僕を見た。「朝風呂でも入ったのか?」
きっと僕の顔には、しまったって書いてあるに違いない。
「あれ、なんでだろうね」僕はあたかも今気づいたかのように自分の腕のにおいをかいだりした。
「それも我が家のものとは違うようだな……」
父は性犯罪者でも見るような目つきをしている。
そして大いなる錯誤に思い至った。「まさかおまえ……俗に言う朝帰りと言う奴を」
「ちち、違うってば父さん! そんなッ、ハレンチなことッ、僕がするわけないだろッ! これはッ、これは……さだめがあがってきたからなんだ。これ、さだめのシャンプーの匂いなんだよ」
「あぁ、さだめちゃんが……こんな朝早くから?」疑わしいと言わんばかりの口調だった。そう思うのも無理はない。
「本当だって! なんなら証拠、見せてあげようか?」僕はできる限り声を張り上げた。「さだめッ! 一階に下りてきて」
数秒すると、どたどたと足音がしてきた。さだめの姿が見えると、ほっと安堵した。
さだめは不思議そうに僕と父を見比べた。そして、僕に舌端を向ける。「どうしたのよ。そんな大きい声出して」
僕がそのことを説明しようとしたとき、「なるほど」といきなり父が割り込んできた。「確かに、来ている。しかし、こう朝早くから来るってのは、いったい何事なのかな」
「雪嗣に勉強を教えてもらおうと思って、来たんです。あたし、受験生だから」
「君が受験を控えた学年であることは心得ているが……しかし、このバカ息子に、君のシャンプーの匂いが付着しているのは、はたしてどういうことかな」
するとさだめは見る見るうちに頬を朱に染めた。僕も釣られて、顔が火照る。
父はその姿を見て、なぜか得心がいったように、「そうかそうか。なるほど」と腕組みをといた。「そういうことならまぁ、ありえる話だ。いささかよろしくないことではあるが」
「父さん、それはごか」
「そそそ、そんなわけないじゃないですかぁッ! 誤解ですよ誤解。あたしと雪嗣はそんな、変な関係なんかじゃありませんッ! やめてくださいよおじさん。変に勘ぐるのは!」さだめは僕の言葉を遮って、必死に抗弁した。
「……おおそうかそうか。さだめちゃんがそう言うなら」
「なんであたしが、こんなみょうちくりんでちゃらんぽらんな人と……!」
「ひ、ひどいやーい」僕は抗議した。
「だってそのとおりでしょうこの朴念仁! アホでノロマで、にぶチンの大バカ野郎よ! ああ、あんたのことなんかぜーんぜんッ、これっぽっちもッ、好きじゃないんだからねッ!」
僕はすっかり打ちのめされて、床にくず折れた。頭の中で、アホやらノロマやらの言葉が浮いては沈み、浮いては沈み……。
さだめは僕の頭に足のかかとを乗っけて、ぐりぐり押し付けた。「こんな大バカにはお仕置きが必要だわ! まったく、雪嗣のくせになに勘違いしてんのよ……傲慢にもほどがあるわ!」
元はといえば、父が発端のような気もしたが、黙っておいた。
それを見かねたらしい父が、「さだめちゃんも、朝ご飯を食べていきなさい」とそんな提案をする。
僕、父、そしていとこというおかしな形での朝食が終わると、早々に家から出ることになった。
もう少しゆっくりしたかったが、さだめがダメだと言うから、仕方なくラインの入った靴下とグレーのカットソーを引っ張り出す。それと、切れのいいブラックデニム。細かいギャザーを寄せた、ローライズの一品だ。
寝癖に関してはワックスで適当にならしておく。あんまりベタベタつけるのはキライだから、さらっと流す程度。後はポケットに財布をぶちこむ。中身は野口英世が三人、んであらかじめ折っておいたカッターナイフの刃一枚。ジーンズのポケットは窮屈でカッターナイフが入らないための、苦肉の策。
途中、英世さんだけじゃ力不足かと思い、満を持しての樋口一葉の登板を考えた。……まさか今日一日で使い切る、なんてことにはならねェよな、と懸念するが、必要経費と割り切って計八千円、財布の中に納める。
「ほれ。準備できたぜ」僕は十分ほど居間で待機していたさだめに声をかけた。
退屈そうに指をカタカタさせていたさだめは、僕の格好を見ると、目を丸くした。
「……この格好、おかしいかな」
「ちちち、違うわよ。また早とちりして雪嗣はホントしょうもないんだから。あたしは、あんたのことカッコいいとかイケてるとか、全然思ってないから! かかか、勘違いしないでよね!」
「んだよ……どうせ僕は勘違い野郎ですよ、本当……」
「そんなこと、ないわよ。あたしが、雪嗣のこと、カッコいいって、保障してあげるから……」
さだめは声を小さくした。
まじまじと見つめる。
「こっち見るな!」さだめは近くにあったティッシュ箱を投げつけた。剛速球だった。
加えて、それがものの見事に的中するものだから、笑えない。鼻にぶち当たって、涙が出そうになる。そういえば鼻を強打されたら、痛みのあまり涙腺が緩んで視界が利かなくなるとか、そんなことを聞いたことがあるぞ。
「ほら、さっさと行きましょう。あのブラコン変態女が起きる前に」
僕は鼻を押さえながら言った。「そういや参考書を買うんだっけ……色々と話が脱線してて、すっかり忘れてた」
僕たちは朝の八時過ぎだと言うのに、なぜか街に出かけることになった。
*
小一時間ほど電車で揺られると、都心の市街地に出る。混雑と喧騒の街。しかし、九時過ぎと早いためか、人通りはそれほどでもない。密集した商店では、緩やかな目覚めとともに店開きを始めるころだ。
「そもそもさ」僕は口火を切った。「そもそも、何でこんな早い時間帯に、市街地に行かねばならんのだ」
「だって、こうでもしないとブラコンの魔の手を振り切れないもの」
「けど、参考書くらい、どっかの本屋でちょちょっと済ませりゃいいンだ。さだめは僕より頭がいいんだからさ、参考書くらい一人で選べるだろ」
「……うるっさいわねぇ。男がガタガタ言ってんじゃないわよ。武士に二言はない。でしょう?」さだめは挑発的な目つきをした。「あんたの二言目はこう。『オーケー、僕に任せな』。女をリードするのが男の役目でしょうに」
「オーケー、僕に任せな」僕はやけになっていた。「でも、本屋の営業時間は往々にして、十時半って相場は決まってンだ」と携帯電話を開く。九時三二分。「後六十分、おまえはただ待ち続けることができるのか?」
「六十分と言わず、百二十分にしましょう」と言って、さだめはポケットから何かを取り出した。「それからでも遅くはないわ」
さだめが取り出したもの……それは映画のチケットだった。今流行の恋愛映画。ちょーど二枚ある。「ちょっと待て。何でおまえの手に映画館の入場券があンだよ」まるでこの日のできことを予期したかのようだった。「なんかそれ……おかしくね? 参考書買うだけじゃなかったけか、これ? しかも二枚あるぞ。用意周到すぎねェかなこれ」
「上映時間は十時きっかりかぁ。ちょっと待たなきゃだけど、その空き時間はポップコーンやらパンフレットやらでうまく潰れそうね。むしろちょうどいいテイスティング。さすがあたしね」
「えっと、僕の言葉聞いてる?」
「映画館まで見積もって、徒歩十分ってとこかしら。この映画、すっごく面白いって評判なのよ」
「聴覚でもやられてンの? 一回耳鼻科に診てもらったほうがいいンじゃねェの?」
「さて、あたしたちを待ち受ける映画は、いったいどれほどのものなのか……確かめてやろうじゃないの」
さだめは言いすがる僕を無視するように僕の手を引いた。別名連行とも言う。
行きかう人々は、引きずられていく僕を不思議そうな目で見ているのだった。
街の映画館は九時ごろから開いているようだった。決して多くはないが、一定の人が集まっている。
さだめは楽しそうにパンフレットだとかの関連商品を物色していた。どれがいいだとか、これにしようかとか、そんなことをのたまっている。
結局、小さいサイズのポップコーンを二つ買って、席に座った。スクリーンが近すぎず遠すぎずの最適な位置。客は少なく、息苦しい感じもしない。朝早くから来たかいがあるというものだ……てェ、なんかおかしいよなおい。僕は自分で自分に突っ込みを入れた。
大筋を忘れているような気がしてならない。
でも、映画を見ているうちに気にならなくなった。
その内容は男がいて、女がいて、別れたり付き合ったりするって言う話だった。ありきたりと言えばありきたりで、王道と言えば王道で、面白いと言われれば面白い。全米が泣いた、とか言う文句もあながち嘘じゃないのかもしれない。
物語りも中盤に差し掛かった頃、ふいに柔らかい感触がした。右手だ。肘かけに置いていた右手。重ね合わせるように握られる。
視線を横にずらすと、何食わぬ顔で映画を観賞している彼女がいた。でも、どこか気恥ずかしげにちらちらとこちらをうかがっているのが分かった。その真意を図りかねた。しかし、黙って受け入れた。イヤな気分じゃなかった。ポップコーンが食いづらいだけで。
終幕の一文字がスクリーンに浮かぶと、ぞろぞろと客が退場していった。余韻の残る会場。さだめは僕に目まぜをよこした。行きましょうか、と言う合図だった。
映画館を出ると、「お昼にしましょう」とさだめがそんな提案をした。
時刻を確認してみる。後五分で正午。お腹も程よく空いていた。「そうだね」
「ここら辺においしいケーキを出す店があるんだけど……どうかしら? ケーキだけじゃなくて、サンドウィッチもおいしいの」
「おおせのままに」僕は茶化した。
「ふざけないでよ」
さだめは僕の頭をポカっと殴った。
頭部の痛みに耐えながらも、これってデートだよなァ……とかなんとか思っても口には出さず、さだめについていった。
喫茶店『アテンシャン』は駅のすぐ近くにあった。
ショーウインドウから数人の客が見える。繁盛しているみたいだった。
僕たちはなんと、そこで素敵でエクセレントな一時間を過ごすのだった。




