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月喰い  作者: 密室天使
第二章 楽園探し
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第十話 クールでマッドな快楽テロル

 平日があっという間に過ぎて、土曜日になった。

 かけ布団を下肢にかけたまま、上体を起こした。窓から日の出が見える。朝日が畳の上に陰影を作った。

 寝ぼけ眼で置き時計を見やると、きっかり七時を示している。

 僕はのっそりと起き上がった。朝ご飯の支度をしなくちゃいけない。頭の隅で朝餉の献立を考える。白米に木の芽を添えた吸い物。冷蔵庫には確か、豆腐があったような気がする……ひややっこにでもしようか。包丁で丁寧に四角に切ってやって、刻みねぎと削り節を落としてやる。あとはたまりしょうゆで決めさせてやれば、抜群にうまい。それにしようか、と思う。

 家の中は寝静まっている。時折鳥のさえずりが聞こえるくらいで、人の気配はなかった。

 父はおそらく、本殿に赴いているに違いなかった。

 姉は……いわずもがな。ぐーすか寝てるんだろうぜ。

 父が切妻の母屋に戻るのは、おおよそ八時過ぎ。姉が起きるのは、おおよそ十時過ぎ。

 飯の用意は十五分で済むから、まだ時間がある。

 僕は布団に横になった。色々なことを考える。姉のこと、いとこのこと、浮永のこと、先輩のこと、石膏像のこと……。僕は起き上がって、棚に列してある雑誌を手に取った。廃墟を特集した奴だ。誰にも理解されない趣味。壁に背を預け、生き生きと活写された廃墟を見た。朽ちた廃線、閉鎖された精神病院、廃れた駅、果てた雑居ビル……退廃を前面に押し出した造形美は、僕の心を静とふるわせた。

「……やっぱり、雪嗣の嗜好はおかしいわ」

 と。

 肩に違和感。肩甲骨を柔らかくつかまれる感触。 

「なにがおかしいンだよ」僕は背後の声に応対した。「犬好きが犬愛でるのと一緒だろ、こんなの」

 すぐ横にほっそりとした足がおりてきた。「廃墟と犬が一緒であるはずがないわ」僕の肩を支点に侵入してくる。開け放たれた窓。きっと屋根づたいに二階にある僕の室まで来たのだろう。高い運動能力のなせる技。「少なくともこれが、一般の声」

「だろうね」僕は雑誌を閉じた。

 横目を向ける。

「おはよう、雪嗣」

 さらさらとした長い髪を肩に垂らして、いとこのさだめが机の椅子に座っていた。切れ長の目で僕を見ている。 

 さだめはミニスカートをはいていた。赤と黒の、チェックの奴。次いで、丈の長いゆったりとしたパーカー。色は黒。フードが備え付けてあるが、かぶってはいない。

 外向きの格好だった。家にいるときのさだめは、いつも黒っぽいスウェットだけを着ていて、あまりファッションには気を遣わない。しかし、今のさだめはファッションと言うものを十分に理解した格好をしている。モデル雑誌の表紙を飾りそうな、いい女っぷり。

「住居侵入が刑法百三十条に規定されてるの、おまえ知らねェだろ」

「ここはあたしの家みたいなもんでしょ。責めないでよ」さだめはむすっとした。けど、普段の尖った感じはなく、どこか艶っぽい親しみが含まれていた。

「昼ごろに来ると思ってたんだけどね」僕は目いっぱい足を伸ばしてやった。「当てが外れた」

「昼ごろに来ると、あのブラコンがうるさいでしょう? この時間帯だったら寝てるだろうし、邪魔もされないだろうし」

 さだめは姉の生活サイクルを心得ているようだった。「それで街にでる前に勉強でもすンの? ここで」と僕は壁に立てかけてある小机を指差した。さだめと街に行く約束した時刻にはまだ早いからだった。

 さだめは眉根を寄せるようなしぐさをした。不満そうな、落胆するようなそぶり。「勉強かぁ」

 潮騒が聞こえてきた。風浪。窓からは磯と繁茂した海草が遠目に見える。渺茫(びょうぼう)たる海の広がり。

「雪嗣はあたしが勉強するために早く来たと思ってるのかしら」

 さだめは憮然とした表情をしている。

 指でクルクルと髪の毛を巻きつかせている。物憂いに髪を耳にかけたり、つまらなさそうに頬杖をついたりする。

「……違うの?」

「……いいわよ、勉強しましょう勉強」さだめは観念したように言った。「なんせ受験生だもんね、あたし。そうでしょ?」

 立ち上がった。壁にかけた小机を取るために。

 小机を設置すると、さだめは近くにあった座布団を畳に敷いた。シャープペンを握っている。よく見たらそれは、僕のものだった。机上のペンたての奴を拝借したらしい。

「どうせなら、雪嗣の寝顔とかをじっと眺めたり、漫画みたいに雪嗣を優しく起こしてあげたかったのに……なんでちゃっかり起きてるのよ。これじゃ、あたしが早起きした意味がないわ」

「んだよ、小声じゃ聞こえねェよ」

「なな、なんでもないわよ! うるさいのよあんたはぁーッ!」

 さだめは理不尽なことを言った。

 さだめと真向かいに腰を下ろすと、「どうせなら教えてよ。勉強」とさだめがそんなことを提案する。「あたしに」

「僕に教えられることなんて、クールでマッドな廃墟の歩き方くらいだぜ」僕は親指を立ててやった。

 さだめは呆れたような表情をした。

 仕方ないわねぇ、とさだめは切なそうにして、押入れのほうをごそごそやった。何かを探しているらしかった。伸びたふとももが悩ましかった。やけに無防備だった。

「あった」とさだめが取り出したのは英語の問題集だった。僕が中学生の頃に使っていたものだった。「これ、使ってもいいかしら?」

「もちろん」僕はクールに言ってやったね。

 さだめは問題集をぱらぱらとめくった。「全然された形跡がないわ……はたしてこの問題集は、雪嗣の勉強に役立ったのかしら?」

「少なくとも」と僕は声をひそめさせて言った。「さだめの勉強には役立つかもしれないよ」

「……そうね。ありがたく使わせてもらうわ」さだめは遠慮もなく、じかに答えを書きつけた。

 そのことに文句を言うでもなく、ぼんやりとペンを目で追った。

 さだめは流れるように英文を綴った。堂々とした筆致。

「これ、分からない」

 さだめの発言と、紙上をうねっていたペンが止まったのは、ほぼ同時だった。

「ん。どれどれ」

 僕が膝を立てて首を伸ばして、問題の箇所に指を当てた。文字が反対になっているから、見にくい。

 それを感得したらしいさだめは、「真正面からじゃ見にくいでしょ」と言った。「だから……ととと、隣にきなさいよ。あたしの隣にッ!」

「は、はァ?」

「だからっ、見にくいんだったらあたしの隣にきなさいよさっさと! 分からない奴ね!」

「い、いきなり大声出すんじゃねェよ」

 奇妙な感じが抜けなかったが、引き下がることもできず、さだめの横に移動した。

 するとシャンプーとせっけんが合わさったような、いい匂いがした。柑橘系の清楚な感じがして、でも、肩にかかった髪やうなじが扇情的な色香をかもしだしている。そのギャップに頭がくらくらしそうで、さだめはただの仲のいいいとこでしかないはずなんだけど……そんな平生(へいぜい)から抱くことのなかった官能を、強く意識する自分がいる。僕はそれをごまかすように、「もしかしておまえ……朝風呂、入った?」とだしぬけに口走った。が、言い終わった後、生々しい欲求といけないことをしたという気恥ずかしさがせりあがってきた。僕は今しがたの発言を激しく後悔した。

 さだめは顔を赤くした。「ななな、なんで、それを……」

 僕はさだめの手首を取って、「だっていい匂いがするし、肌もやたらと綺麗だし……これは十中八九、風呂に入ったッてことなんじゃねェの?」と鼻を近づけて、においをかいだ……って。

 あれ。

 僕は固まった。何かがおかしかった。そんなつもりはなかった。でも、体が勝手に動く。本能の中にある“求め”に肉体が、理性に先んじて応じていた。

「へへへ、変態ッ! なぁーに女の手ぇかいでんのよっ! もももっと続けなさい!」

「……ん? さだめ。おまえ、なんか変なことを……」

「いいから続けなさいよ! あたしの可憐ですべすべの手をもっと堪能しなさいよ!」

 さぁ、とさだめは逆に僕の手を握った。

 おかしいような気もした。さだめの鬼みたいな形相。僕は恐る恐る、さだめの可憐ですべすべの手をつかんだ。

「ほっぺに、くっつけてェ、いいかな」

 さだめは上気した顔を、人形みたいにぎこちなく、縦にした。

 僕はさだめの手を、自分の頬に、当てる。じりじりと体内が焦げていく。

 触れ合ったと思ったとき、さだめの体内が皮膚越しに漏れつたわってきた。皮膚の内側から狂おしい血潮の激しさがあって、僕の呼吸は切れ切れになる。

 粘膜同士をこすり合わせるような、みだらな快楽があった。

「はぁ」とさだめは切なげな吐息をはいた。それが僕の顔にかかって、変に生暖かくて、甘いにおいがした。さだめは熱にうなされたように、僕の唇に人差し指を沿わせたり、首筋に手を這わせたりした。

 ……なンか、違う勉強になってねェかな。これ。 

「そっ、それでさっ、分からないところって、どこ、かな」

「……うん。そこは、ね……こここここ、ここ、なの」ニワトリかよおまえは。「なのね、あたし、ここが……っていやぁ、あんまり、強く、しないで……」

「手ェ、離したほうがいい……?」

「それはダメぇッ!」さだめは意外に大きい声を出した。そして、気恥ずかしげに顔を伏せる。「そんなの、ダメ、だよ。離しちゃ……手を、離しちゃ……あたしイヤだもん」と僕の手をぎゅっとした。濡れたような瞳をしている。

 僕は狼狽した。凛と構えるさだめの姿が想起される。だが、今のさだめはその心象と遊離していた。んで、かわいいんだものすごく。嘘じゃない。ギャップが効いている。体がかぁーっと熱を帯びた。

 体中の血が沸騰しそうになるのを、理性を総動員して棚上げに処し、問題を解くのに勤めた。ダメだ。バカになる……。

 設問に集中する。

 でも……。

「教えて……あしたに、教えて……雪嗣」

 さだめの呼吸は、すっかり乱れていた。

 ペンを握っている。

 さだめはペンを握っている。

 僕はためらいながらも、ペンを握ったさだめの手に、己が手を添えた。心臓が高鳴るのが分かった。

 さだめは震えるような呼気を出して、そっと僕のほうを見た。目が合った。互いに目を逸らす。僕の顔はきっと、ゆでだこみたいに真っ赤だと思う。

 僕はゆっくりと、ペンを動かした。「ここはね……過去形じゃなくて、過去完了を使ってェ……“work”は働くだけじゃなくて、効き目のあるって意味もあるんだ」

 途中、疑問を抱いた。確かにさだめの指定した問題は、簡単なものではない。しかし、さだめの学力で解けない問題でもない……。

「んん」と僕の思考を遮るように、さだめが体を寄せてきた。柳みたいにしなだれてくる。体の左半分が熱い。横座り。よく見れば、さだめのはいているスカートの丈は、思いのほか短かった。艶かしい大腿(だいたい)。僕はさっと目を別の方向に向けた。

 時計がある。時刻は七時半。早い、と思った。時がたつのが早い。三十分も経過している。

 問題の文を書いて、簡単な解説を加える。さだめはうんうんと頷いている。

 僕はゆっくりと体を離すと、「あっ……」とはかなげな声を漏らした。名残惜しそうに僕の服の裾をつかむ。そのしぐさはひどく、弱々しい。

「僕、朝ご飯、作らなくちゃいけないから……」

 そんな適当な理由をこねあげて、この奇妙な場から離脱した。なんかもう……ダメ。違う。理性が壊れそう。でも、さだめは僕のいとこで、そういう風に見てなくて、半分血がつながってて……。

 階段を下りながら、そんなことを考える。

 そんなことを考える。



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