第四〇話 憤怒鼠落
暴れ狂うような業火が、己の身体を燃やしている
あの夜──神から逃げたあの夜。
己の鮮花が、多くの火をこの身に取り込んだ。
それが今、己の肉体を芯から燃やしているのだろう。
生編の花は、身体を内から編集する力と聞く。
だから、過去の記憶が今、集まってきているのか。
「「コロス……」」
少年は、夢を見ていた。
罪の精算を求められ、燃えるような憤怒がこの身を焦がす。
そんな、赫赫とした、人の身であった頃の夢を。
「貴様ら親子の罪は割れてるぞッ」
村の男達が、少年と母親の住む家へ押し入り、怒号を叩きつけた。
こうなる未来を、少年は心底恐れていた。だが、どうしようもなく成す術がなかった。
罪を犯した母と、腹に宿った赤子を守る手立てに、自分の足らぬ頭では届かなかった。
「母ちゃんッ、逃げろ!」
張り裂けんばかりに叫び、母に逃走を促す。
少年の声に押されて、母は裏口の戸を開け放ち、逃げようとした。
されど、その裏にも、男たちは人員を配していたらしい。
「キャアアッ」
「不邪淫戒を犯したのは、この女か!」
母の悲鳴と共に、ガラガラと崩れるような音。
男たちが母を取り押さえ、怒号を飛ばし合っている。
「妻帯者の子供を孕むなぞッ、許しがたい罪であるぞ!」
そう──少年の母、暮梨村を縛る戒めを破ったのだ。
不邪婬戒──
無断で命を孕み産むべからず。この禁を破りし者。
生まれる赤子を香梨に献上し、割腹を行って赦しを乞うべし。
だから、隠し通したかった。
母と赤子を、守るために。
「ああ、それと、こいつだ!」
次は自分だ。
誰かに後頭部を殴りつけられ、床に押し倒される。
即座に立ちあがろうとするも、数人の男が馬乗りとなり、少年を床に拘束する。
「こいつは、不閑却戒を破りやがったッ、母親の妊娠を神に告げなかったのだ!」
その怒号をきっかけに、周囲の者たちが雷のような怒りを打ち上げるのだ。
「貴様ぁ! 不閑却を!」
「痴れ者がッ、貴様ら親子で罪を隠しておったな!」
「ああッ、紅子様にどう申し開きをするか!」
村人たちが口々に上げる嘆きの声が、次々に鼓膜を震えさせる。
少年は唇を噛み、血を滲ませた。
不閑却戒──
禁を破りし者を見過ごすべからず。この禁を破りし者。
全ての戒めに値する罰を受けるべし。
香梨紅子が暮梨村を治めてから、初めてのことらしい。
村に住む人間のすべてが、罪人をあまさず神の元まで引っ立てている。
親子だろうが兄弟であろうが、血のつながりさえ関係なく。
だから、皆が狂ったように憤怒しているのだろう。
香梨紅子に秘密を持つことそのものが、大いなる恥とされていた。
そんな風習があるものだから、少年はどうしても母を突き出す気になれなかった。
逃れたかったのだ。窮屈な〝正しさ〟から。
家族を守りたいという、当然のことができない無力感から。
だが、それは叶わなかった。
「どうして……わかった……?」
少年は焦燥に濡れながらも、そんな問いを発する。
母親の腹は徐々に膨れてはいたが、着物の上から見抜けるほどには大きくはない。
なのに、なぜバレたか。
「この男が教えてくれたぞ」
外から、ひとりの男が引き摺り出された。
散々と殴打されたのか、顔を腫らし、落涙を散らしている。
「ごめん……ごめん……」
少年と母親を見て、うわ言のように謝罪を漏らしている。
そいつは、母と寝ていた男だ。何度も、何度も。母の温もりを求めて。
妻帯者であるにも関わらず、未亡人である少年の母に、縋りついていた。
腹に子供を植え付けるほどに、熱く温もりを交換し合っていた。
「てめぇえッ、ふざけんな!」
少年は火山のごとく咆哮する。
「心を弱らせた母ちゃんに言い寄っておいてッ、密告しやがったな!」
父が溺死してから、傷心した母の心に影が差し込んでいた。
寂しさに囚われたのだ。その心に、この男はつけ込んだ。
毎晩のように母の肉体を貪っておいて、この浮気男は──
自分の赤子を宿したと知るや、自分だけ贖罪を求めたのだ。
「妊娠させておいてッ、テメエだけ許されようとしたなカス野郎!!」
「俺はッ、俺はなぁああ! 抱っこして欲しかっただけなんだぁああ!」
少年の怨嗟に、浮気男が気色が悪い弁明を叫ぶのだ。
「その女がッ、誘ってきたんだ! 俺は悪くねえんだ!」
まるで突破口を見つけたかのように、ヘラっと笑って、周囲にそんなことを吐き散らす。
「テメエ──ッ!」
少年は怒りのあまり、頭がどうかしそうだった。
自分が獣であったなら、あのゴミクズの喉笛を噛みちぎれたのに。
鋭い牙が欲しい。鋭くて丈夫な、肉食獣の歯が。
「殺すッ……テメエもッ、ここにいるカス共もッ、全員殺してやるからな!」
「痴れ者がッ、罪人の癖に、なんたる口の聞き方か!」
大柄な老爺が、拘束された少年にずいっと詰め寄ってくる。
そして、容赦なく拳を少年の頬に振るうのだ。
「紅子様の治世でッ、不閑却戒を破るなどッ、神への冒涜も良いところだ! 貴様に人権があると思うたか! 口を開くな! 醜悪極まる鼠がぁ!」
怒声と共に、また少年の顔に拳を振るう。
少年は知っている。この男をよく知っている。
ゼイゾウ──香梨紅子に〈枝〉という特別な役割を与えられている信者だ。
いつも我が物顔で村中を練り歩き、神の教えとはなんたるかを振りかざしていた。
気に食わなかった。このクソ野郎も。
神の正しさを盾に、高慢な態度で説教ばかり垂れてきた。
「殺す……」
散々と殴りつけられてもなお、少年は憎悪の火は消えなかった。
瞳からほとばしる火花を散らし、ゼイゾウを噛み付かんばかりに睨むのだ。
「人間をやめていたか……その眼の色は、恥を知らぬ獣に他ならない」
そう吐き捨て、ゼイゾウは少年から視線を切ると、次には母の元へ。
「元はと言えば、貴様が災いの種……」
忌々しいとばかりに呟き、母の顎をむんずと掴む。
「貴様も獣だ、情欲に囚われた雌猿が!」
ゼイゾウが勢いよく上げた膝が、母の腹に突き刺さった。
赤子が宿る寝室を、
容赦なく、無惨に、
蹴り上げたのだ。
「ああッ……ああッ……」
母の悶絶が床を這う。
その音が、少年の正気を完全に奪い去る。
「テメェエエエエ!」
気がつけば、獣のように暴れ狂っていた。
火事場の馬鹿力が爆発し、大柄な男たちを、少年の小さな身で振り解いてしまうのだ。
「ダメ!」
母が何か言っている。
関係ない。もう全部、壊してやる。
「ぶっ殺す──ッ」
背後から覆い被さった男の顎を、頭突きで砕き。
右から取り押さえようとした男の喉を、力一杯殴りつけ。
左から迫り来る男の目玉に、容赦なく指を突き入れた。
「やはり、貴様は芯から罪人よ。酷い真似をしおって」
瞬く間に三人の男を打倒した少年に、ゼイゾウが唾を吐くように言う。
罪人で上等。獣で結構。
少年は咆哮し、怒れるままに飛びかかった。
「どっちが罪人だ! 女を殴る奴がッ、命を粗末にする奴がッ、正しさを振りかざすな!」
背中から打ち出すように放った渾身の拳が、老爺の顔面を強襲する。
しかし──それは届かなかった。
ヒヒヒヒヒヒ
「がっ──」
拳が届く寸前、背後で猿の引き笑い。
羅刹の鮮花の、その開花の音だ。
人を使役する、傲慢なる花の音だ。
肉体が動かない。目の前に、殺すべきクソジジイがいるのに。
「か、カリン様!」
ゼイゾウが即座に膝を折り、少年の背後に平伏した。
少年は動かぬ肉体で、なんとか目玉だけを動かす。
すぐ横に、輝く金の髪が揺れていた。
「何事だ? この騒ぎは?」
「ははっ、こちらの者が不閑却戒を犯しました。その母親も不邪淫戒を……」
「は?」
カリンの青い瞳が、少年をじっとりと睨め付ける。
信じられないとばかりに息を呑み、次には少年の頭を鷲掴かむ。
「母上の治世で、不閑却? なぜ抗えた? 人間であっても糸が肉体に巻き付いていたはずだ」
なんのことやら、少年はよくわからない。
ただ、ただ、腹から噴き上がる業火を、ぶちまけたくてしょうがない。
「そいつをっ……そのクソジジイとカス野郎を……殺させてください……」
充血した眼で懇願していた。
頼む、鮮花を引っ込めてくれと。
「母上に元へ連行する。手をかせ」
冷徹に、カリンは言い放ち、ゼイゾウに指示を送るのだ。
「殺させろよッ、殺させてくれたらッ この足で紅子様に自白しに行く!」
だから、と、少年はなおもカリンに向けて懇願すると、
「貴様ッ、カリン様になんという口を!」
発憤した村人たちが、少年を殴りつける。
肉体が動かないことをいいことに、容赦なく暴行を加え続けるのだ。
「やめてッ、息子を殴らないで!」
母の悲痛な訴えが、室内に響くも。
暴力の嵐は止まらない。
少年の鼻は砕け、目から流血を散らし、口から吐瀉物をぶちまける。
「すべて打ち明けますッ、今ここで割腹します! だから息子をそれ以上、殴らないで!」
ふざけるな、と、倒れ伏した少年は音にならない声で呟いた。
まだ生きてる。赤ん坊がその腹の中で生きてるのに。
諦めんじゃねえ。母親が、命を諦めんな。
「ふざけんな……」
ここまでどんだけ苦しんだと思ってるんだ。
神と赤子を天秤にかけて、どれほど苦悩したか。
神に背を向けると決めたのだ。諦めてなるものか
「諦めんな……母ちゃん……俺は……諦めねえぞ……」
血に塗れた肉体を起こし、少年はまだ立ちあがろうとする。
その鮮血を滴らせる様子に、カリンが呆れたようにため息を吐いた。
「怒りに囚われ、自分の状況をわかっていないな。詰んでるよ、君は」
刃物でゆっくり刺すように、言い放ち、
「連れて行け」
そう、冷たい声音で周囲に指図する。
「はいっ、ただ今!」
かしこまって背筋を立てたゼイゾウが応えると。
最後とばかりに、少年の顔に蹴りを入れる。
「「ダメダ……」」
赤く染まった視界が、ゆらり揺れる炎に変わる。
忌まわしい過去の残滓が、やがて現実と混在して、幻覚へと変化してゆく
百足人形の数多の手が、自分を殴りつけてくれた男達の手に見える。
顔を涙に濡らすタカオが、あのとき守れなかった母に見える。
灰神トオルが、産まれたはずの命に見えてしまう。
「「カアチャン……アキラメンナ……」」
肉体が燃える。ゆらゆら燃える。
諦めてなるものか、言いなりになってたまるか。
その思いが、獣となった今も、燃え続けている。
あの夜、守れなかった。
けれど、今は違う。
今度こそ、すべて叩き潰す。
例え、灰神となろうが──
「「アキラメルカッ クソヤロウォオオオ!!」」
ネズミは血走った眼を見開き、眼前の百足へと吼えるのだ。




