第三九話 ネズミ覚醒
「な──ッ!?」
「ネズミ様!?」
大咆哮の後、眼前で打ち上がった火柱に、絡舞は驚愕、タカオは絶句。
地に縫い止められていたネズミが、突如、紅蓮の炎に包まれた。
しかも、あの絶叫の響きは、間違いなく──灰神のもの。
死んでしまったのか。灰神に転化してしまったのか。
炎に包まれたネズミの左半身から次々と花が生え、肉体が侵食されてゆく。
命潰えた末の変異。そう思いかけた、そのとき──。
「「コロス ナントシテドモ」」
灰神のようなうわ言ではない。
灰神のような漠然とした殺意でもない。
炎に包まれるネズミの肉体、その相貌に収まる充血した眼球。
その瞳が、確かな色で、憎悪の矛先を明確に百足人形へと向けているのだ。
「「テメエ マジデ ユルサネエカラナ」」
ネズミの肉体を刺し貫いていた数多の刃が、一つ、また一つと火柱の熱で折れ曲がり、ひしゃげて溶けゆく。
慌てて、百足こと絡舞は一歩後ずさり。
「こんなことが──ッ」
その驚愕が漏れた直後──ネズミの背中に密着した畳が爆ぜた。
焦げた畳の燃え殻が辺りに散り、残り火を纏った黒灰が盛大に室内に舞う。
ぶちまけられた粉塵で視界を覆われた瞬間。
タカオの頬を、灼熱が撫でるのだ。
「「ハナセ」」
肉体に炎を纏うネズミが、いつの間にか。
人形の巨体を駆け上り、タカオを拘束する一本の腕を握っていた。
「「カアチャン ヲ ハナセ!!」」
母ちゃんを離せ──何か幻覚を見ているのか、タカオと実母を混同している。
されど、うわ言とは呼べない、くっきりとした輪郭を帯びる感情がそこにはあった。
「「オオオオオオオオッ!」」
そして、尋常ならざるネズミの握力に、人形の腕に亀裂が入ってゆく。
メキリピシリと稲妻のような筋が走り、最後に盛大に引き千切られた。
「あ……」
タカオの肉体が宙を舞い、床へと落下する。
されど、地面に叩きられる直前、その背にネズミの手が添えられた。
「「カアチャン マッテロ」」
言って、タカオの肉体を優しく受け止めると、室内の端に避難させる。
全身に炎を纏っているのにも関わらず、その火は一切、タカオの身に触れることすらなかった。
「ネズミ様……」
タカオは瞠目して息を呑む。
無作為に異能を振るう灰神ではあり得ない、精密な鮮花の扱いだ。
だが、左半身に咲き誇る花々は一体なんなのか。ネズミの身に起こっている現象はあまりにも不可解。
「貴様ァ!」
背後から、百足人形から怒号が放たれる。
あっけなくタカオを奪われたことに、腹が煮えてるらしい。
「奪わせぬッ、奪わせてなるものか! 私の愛しい人形をッ、貴様などに!」
黒髪を振り乱し、狂信にも似た執着を吐き散らす。
そして、無数の刃を振りかぶって、ネズミに迫り狂うのだ。
対して、迎え打つネズミは緩やかに腰を落として、
「「テメエ ノ モンデモ ニンギョウ デモ ナイ」」
四つ脚で地面を穿ち、百足との間合いを吹き飛ばす。
そして、尋常ならざる膂力をもって──跳んだ。
「「オレ ノ カアチャン ダ」」
火の粉を散らし、黒灰を引き連れ、一直線に標的へ踊りかかる。
炎獣が狙い定めたその軌道は、まるで弓を絞ったように一点へ。
人形の顔面、その嘲笑を浮かべる忌々しい顔に。
「ゴッ──」
ネズミが放った拳が盛大に炸裂し、百足の面に亀裂が入った。
衝撃の勢いそのままに、人形の巨体が後ろへ吹き飛ぶ。
百足は無惨に床に打ち付けられ、即座に起きあがろうと腕を立てるも、
「「ヨクモッ カアチャンノッ ハラヲッ ケリヤガッタナァアアアッ!!」」
凄まじい咆哮を放ち、ネズミが容赦なく顔面を蹴り上げた。
乾いた破砕がねじ込まれ、百足人形の面に更に亀裂が走り、顔の外殻が弾け飛ぶ。
「こんなッ、はずでは──!」
百足の巨体が社の奥へと転がり、木柱に激突してようやく止まった。
炎が燃え移った人形の面から呻くのような音が立ち、滑らかな人面が剥がれてゆく。
だが、まだ終わらない。
ネズミはすでに次の一歩を踏み出していた。
「「コロスッ マジデ!!」」
全身から昇る業火を吹上げ、立ち上がろうとする人形を更に蹴り上げる。
まだ許してなるものかと、ネズミは暴力の嵐を人形に加え続ける。
顔を殴りつけ、腹を蹴り倒し、髪を掴んで床に叩きつける。
百足人形は必死の抵抗を試み、迎撃の刃を幾度も振るうも。
そのすべてが炎によって溶かされ、破壊され、手首ごと齧られ引きちぎられる。
これはまずいと身を引くも、髪を掴まれて床に引き倒され、その顔面に拳を振るわれる。
「「チョウシノンナァッ クソジジイ! カアチャンニ、アヤマレ!!」」
手がつけられない、怒りに任せた野生の暴行。
激しく吹き荒ぶ、身に覚えのない罵詈雑言。
背後で見守るタカオでさえ戦慄する、容赦のない虐待の雷雨。
「貴様はッ! さっきから何を言っている!?」
「「ウルセエェエッ シャベンナ カスッ!!」」
「気の狂った獣風情がッ、謝れと言ったり、喋るなと言ったり──」
絡舞紀伊がそう叫んだ瞬間、ネズミの手が人形の口に突き入れられる。
ズブズブと、奥へ奥へ、腕を人形の肉体に侵入させてゆくのだ。
そして、勢いよく腕を引くと──。
「あッ」
タカオは思わず肩を跳ねさせる。
人形の口から女子が一人、引き摺り出されたのだ。
髪はタカオより短めで、愛嬌と静謐な美しさが共存する、タカオとよく似た相貌。
「トオルッ!」
叫び声がほとばしり、タカオの目が潤む。
百足の中に寂しく仕舞われていた実の妹を、ネズミが助け出してくれたのだ。
「ネズミ様ッ、妹を!」
タカオが震えて声を上げると、ネズミがトオルを大事そうに抱きかかえたまま、ふいと後方へ跳躍する。その足が着いたのは、タカオのすぐ側だ。
「ありがとうございます!」
タカオが駆け寄り、妹を渡すように両手を広げて促すと、
「「オレノ イモウト ダ」」
ネズミはトオルを大事そうに抱えて、タカオを睨みつけるのだ。
その視線は、少年が宝物を奪われまいとするような、剥き出しの本能が滲んでいた。
「ネズミ様……お願いです」
現実と幻覚を混同させているネズミに、タカオはか細いながらも確かな声音で懇願する。
炎の向こうにいる魂へと語りかけるように、その眼を見つめて。
すると──
「「ナンダ カアチャンカ」」
二つの呼吸の後、ネズミは血走った眼を不意に細め、安堵を滲ませて呟いた。
そして、ゆっくりとトオルの身をタカオに預けるのだ。
「トオル……」
タカオはトオルを強く抱いて、その相貌を見つめる。
肌は白く、瞳は白濁として虚。呼吸による命の拍動を感じない。
あのとき、あの夜、目を背けて逃げ出した妹の死が、今ここにある。
「「ズット イッショ ダヨ」」
そんなうわ言が、トオルの口から漏れる。
妹はずっと、そう言ってくれていた。どれほど自分達が羅刹として脆弱でも、共に生き、共に笑い合って、互いを支えてゆこうと。
「うん、ずっと一緒だよ」
タカオの膝が弛緩するように崩れ、その場でへたり込む。
灰神でも、妹なのだ。血を分けた家族を、この身にもう一度抱けるとは。
深い喜びに、感謝に、頭が自然と垂れ下がる。
「ネズミ様……ありがとうございます」
「よかったね。タカオさん」
一瞬、その一瞬の一言だけ。
ネズミから生きた音が。温かみのある人の声が。
タカオが驚き、面を上げると。
「「コロス マダ コロサナイト」」
ネズミの肉体から生えた花々が、一層と花弁を広げ、纏った炎から灰燼を噴き上げる。
そして、死と憎悪を引き連れるように、再び、人形へと突撃してゆくのだ。
「あなたは……何処までお優しいのですか……」
タカオはネズミの背に魂を揺らし、声を枯らす。
正気を失い、怒りに暴走しながらも、妹を助け出してくれた。
死体であるからと、打ち捨てなかった。
自分が一番傷つき、心を軋ませているだろうに。
何処までも自分を顧みず、他者の心に寄り添ってくれる。
「「ゴラァアアアアアア!!」」
「ヒョォオオオオオオオオ!!」
炎を纏う獣と、歪にして巨大な百足が激突する。
火の粉を散らし、狂刃を弾き、裂帛の咆哮で空気を爆ぜさせる。
異形と異形の闘争によって衝撃が絶えず発生し、社がキシキシと悲鳴を鳴らす。
「ネズミ様……あなたは神様です。絡舞紀伊なんて足元にも及ばない」
眼前に広がるこの世ならざる光景、その中で煌々と輝く──勇敢なる獣。
その命の輝きは間違いなく、誰よりも苦悩を抱えてきた者の光だ。
ネズミと話していると、なんとなく察することができた。
誰よりも苛烈な苦しみを乗り越えてきた人物なのだと。
だから、怒ってくれているのだ。
だから、誰よりも叫んでくれているのだ。
家族を奪われた悲しみも憎しみも、深く理解して寄り添ってくれたのだ。
「やっちゃえ、ネズミ様」
トオルの手をそっと握り、タカオは思いを託す。
踏み躙られた姉妹の、烈火のような怒りを。
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