第三七話 母子観賞
「は、母上……ですか……?」
カリンは恐る恐る、口にする。
疑念と期待、その二つを織り交ぜて次の言葉を待っていると、
「良い日和です。良い縁を起こしましたね」
幾度となく耳にした、その前口上──
胸の奥を川のように流れ、母の面影を呼び起こす旋律。
「貴方がどう立ち回るか、見物したいと思い、馳せ参じました」
言って、女は袖から白布を取り出し、顔の上半分に纏って目元を覆う。
その幽玄なる有り様は──
絶対的な神、香梨紅子。
「ゼイゾウを責めないで下さいね。私がカリンを驚かせたいと言って、足止めをお願いしたのです」
「も、申し訳ございませんッ、母上!」
カリンは即座に、手をつき膝をつき、屋根瓦に頭を打ちつけて平伏する。
すぐに察すること叶わなかった失態が、カリンの肉体を震わせる。
しかしどういうことだ。目の前の女は、肉体も声も母のものではない。
「母が操れるのは、灰神のみだと思いましたか?」
香梨紅子は、カリンのわずかな疑念を掬い取るように言う。
「貴方のように人間の使役は叶いません。されど、鮮花を宿す者は、特殊な手順を踏めばこの通り、心を写して肉体を借り受けられます」
ひらりと、紅子は仮初の肉体で小袖をつまんで見せる。
その愛らしい仕草を視界に収めても、カリンの動揺は拡がるばかり。
「そ、その女は、羅刹なのですか?」
「はい。羅刹というより、羅神ですね。名は弥内千子と言います」
そう告げ、紅子は平伏するカリンの肩にそっと触れ、立ち上がるよう促した。
「彼女の思惑に手を貸しているのもありまして、こうしてたまに肉体を借りて、外界を見て回っているんです」
「なるほど……流石は母上……」
この母は、六大羅生と称される羅神の一柱だ。計り知れないほど羅神教の秘術を習得している。
それを知っていてなお、流石に、長年仕えてきたカリンでも想像を絶する。暮梨村からここまでどれほど離れているのか。その果てしない距離から、羅神一人の肉体を乗っ取ってしまうとは。
どこまで神に等しい存在であるか。驚愕と畏怖に打ち震え、カリンは厳かに息を呑む。
「さて、あなたには手厳しいことを言わねばなりません」
紅子は、カリン金色の頭髪を撫で付けて、次に痛みが走らない程度に頬を摘まむ。
その所作に大いに焦り、カリンの背筋がビクリと立つ。何を咎められる? 人間を人質に取ったことか、背後からモモを殺害しようとしたことか。それとも──。
「今、あの戦いに乱入することは、羅神教の教祖であるこの私が赦しません」
言いながら、紅子は緩やかに首を傾けて地上を指し示した。
そこでは、姉たちが血に塗れ、張り裂けるように咆哮し、無数の人形と戯れてる最中だ。
「野試合であるならともかく、あれは羅神教の礼法に乗っ取って行われている正式な闘争です。あなたが割り込めば、羅神教の教義を蔑ろにすることになります」
「ごもっともです……」
カリンの肩が落ち、面差しに沈痛の色を浮かべる。
承知していた。復讐に囚われるあまり、その教義に目を背けていた。
母が治めていないこの土地でなら、どれほど荒らしても構うものかと。
「乱入し放題であるならば、羅神教の礼法に何の意味がありますか? 寝首を掻くことも、毒で暗殺することも、所構わず行えてしまいます」
「まったくもって、ごもっともです……」
紅子の諭すような声音が降り注ぎ、カリンはますます肩を縮こめる。
翁火九乱を鈴蘭の毒で暗殺したことも、母は咎めているのだ。
「そんなことを民草の前で続けるなら、戦争を起こす火種を巻くことになります。カリン、根本の教えをあなたに問います。羅神教は何のために?」
「民草を、世を、安寧に導くために……」
「そうです。もちろん、世を乱すことは一時期的に必要な場合もあります。悪道を歩む人間を正そうとするとき、我ら羅刹が強烈な毒とならねば、人間の性根を叩き直せない場合もある」
「はい……」
「しかし、今回の場合は──」
紅子は言葉を途中で切り、目元を伏せるカリンの頬を優しく撫で付ける。
「言葉を重ねすぎましたね。あなたはちゃんと反省していると言うのに」
「僕が間違っておりました……手段を問わず、浅はかな振る舞いを……」
「母のために、一生懸命尽くしてくれていたんですね」
囁くような声音がしとりと注がれ、紅子がその仮初の肉体でカリンを抱きしめた。
いつもとは異なる、抱擁の感触。しかし、そこから伝わる甘やかな吐息が、カリンの思考を曖昧に溶かしていく。
「良い子良い子。なんて従順で素直な子でしょう。愛していますよ」
弾むような甘い言葉が鼓膜に流れ、ああ、やはりと、カリンは顔を蕩けさせてその双丘に顔を埋める。
モモも、他姉妹もあの獣も、なんと愚かなことか。これほどの寵愛と快楽を手放してしまうなんて。
「カリン、あなたは踏み間違えはしましたが、面白い立ち回りをしましたね。非常に、興味深い状況を作り出しました」
言いながら、紅子はカリンの右頬に労るように手を添えた。
「おかげで、あっちもこっちも面白い見せ物でいっぱいです」
楽しみとばかりに微笑み、紅子は地上の戦いに首を向ける。
「ザクロの動きが洗練されていますね。この母との闘争で学びを得た様子」
糸に繋げた羽虫を巧みに使い、人形を撫で切りにしてゆくザクロに感心。
次には、五重塔を見上げ、楽しみとばかりに息を吐いた。
「さあ、ネズミ。次はどんな〝花〟を見せてくれますか?」
✿
五重塔、その最上階。
けたたましい破砕が室内を這って、土壁を一閃に斬りつける。
百足人形から放たれた斬撃が空を切り、ネズミの肉体を掠めた。
「──ふうッ」
紙一重で横薙ぎの一閃を空中に跳んで躱したネズミは、背後の壁を蹴る。
床を、壁を、天井を、縦横無尽に四つ脚を駆使して駆ける続けていた。
避けることに集中し、絶えず移動し続けていれば致命の一撃は避けられる。
だが、攻撃を仕掛けるとなると、相変わらず無数の刃が立ち塞がってしまう。
しかも、こちらは素手一つ。無策ではどうしても届かない。
「ちょこまかと!」
百足人形から苛立ちの声が上がった。
壁と床を縦横に駆け回るネズミに、怒りを募らせている。
苛立っているのはこちらも同じ、どう攻めるか。
歯噛みしながら、脚を運び、思考を巡らせ、百足を翻弄し続けていると。
「いらぬッ、いらぬ! 最早、この社も、無用の長物!」
百足人形の口から、トオルの声音を借りた絡舞の憤怒が放たれる。
次の瞬間、百足の動きが一変した。
「捨てるのだッ、我が願望のために!」
まるで暴風のごとく、ネズミを追いながら腕という腕を乱暴に振るう。
すると、四方の壁を次から次へと破壊し始めたのだ。
ネズミが斬撃を躱すたび、飛び散る土壁と木片、宙を舞う瓦礫と粉塵。
百足人形は刃どころか、拳すらも振るって、塔の内部を削り取ってゆく。
そうして、あっという間に、室内は支柱だけを残した吹きさらしに。
「これで、壁を蹴ること、できまい?」
値踏みするような言の葉と共に、秋の夜風がネズミの背中に冷たく這う。
四方の足場が無くなった分、回避する術が限られる。今までのようにはいかない。
されど、ザクロが教えてくれた。
──手札が悪いときこそ胸を張るのが羅刹の在り方だ。
状況はさらに不利、されど、ネズミは口元を吊り上げる。
「神を名乗っといて、鼠一匹捕まえられないとか。どんだけ不器用なの? 普通、家まで壊す? 猫でも飼っておけよッ、近所迷惑なんだよ!」
「この──ッ」
大上段に構えた大振りの斬撃が、ネズミの正面を強襲する。
自虐を交えた挑発が功を奏してくれたようで、百足の所作が明らかに粗い。
ネズミは横に跳躍し、縦に走る刃群をひらりと避ける。
そしてすぐさま反転し、その腕の一本に──喰らいつく。
「グゥウウウウ!」
文字通り、噛みついたのだ。刃が無いなら〝歯〟がある。
強い顎の力を利用したネズミの咬撃に、百足の腕がひしゃげて砕ける。
バキリメキリと、いっそ心地良い音を奏で、木片がそこらに飛散する。
「オオオオオオ──ッ!!」
ネズミの裂帛の咆哮が空気を震わせ、一気に腕一本を噛みちぎった。
その尋常ならざる怪力の余波で、百足人形が体勢を崩す。
たたらを踏み、ブレた体幹を支えるように、無数の腕を地面に着けたのだ。
「やった! ネズミ様すごい!」
百足の腕に抱えられたタカオから歓声が上がる。
明々白々な隙。拘束されたタカオを助けるのは今しかない。
されど、ネズミは。
──なんだこれ。
吹き付けるように人形な内部から散った、紫色の血流。
酸味のある独特の刺激臭。ひどく不快な匂いが充満するその液体。
それを──ネズミは頭から浴びてしまった。
「かかったな」
絡舞紀伊からしたりと、勝ち誇るような声音が漏れた。




