第三四話 百足人形
タカオの悲鳴が静寂な社の中を貫き、正確な位置を報せてくれる。
ネズミは音の鳴る方へ、ひたすらに駆けて後を追った。
「タカオさん!」
床板を蹴り、襖を打ち破り、荒々しく駆け抜けた先、階段に突き当たった。
悲鳴の残響は──頭上から降り注ぐ。タカオは最上階に連れ去られたらしい。
急ぎ、ネズミは階段を駆け上がった。
だが、最上階に足を踏み入れた直後、その光景に圧倒され、恐怖で身が硬くなる。
「なッ……」
そこは、仕切りのない広大な空間。
八〇畳ほどの五重塔の最上階、神の住まう聖域。
そこに巨大な〝化け物〟が佇んでいた。
「これは……」
ネズミの眼前に立ちはだかるのは、五〇尺(十五メートル)もの巨躯を誇る人形だった。
胴体は分厚い布で覆われ、、百足のように長く、体からは何本もの腕が生やし、どの腕も鋭い打刀を握りしめている。恐らく、文に書かれていた〈百足〉なる存在だろう。
こちらを嘲笑うような冷笑が刻まれた人形の面には、井戸底の闇を切り取ったような黒き長髪がぬらりと垂れ下がり、口紅が塗られた唇からカクカクとした木が擦れる音を立てている。
「ネズミ様ッ」
うねうねとうごめく複数の腕の一本、それが、タカオの腰に蛇のように巻き付き、彼女の身を拘束している。
──助けなくちゃ。
百足人形の迫力に圧倒されていたネズミは、己の意識を叩き起こす。
紅雀を正面に構え、腰を落として床を踏み締めた。
途端だ。ネズミが突貫の態勢を取ったその瞬間──。
「ヒョオオオオオオオオオオオオオ!」
人形の口が大きく開かれ、奇怪な咆哮が放たれる。
そして次には、百足人形の腕の一本が鋭く伸び、ネズミの首元に横薙ぎの一閃が放たれた。
「──ッ!」
間一髪、ネズミは身を屈め、白刃を躱す。
だが、その雷鳴のような不意の一撃に臆し、ネズミは後ろに跳び退き、背中を壁にぶつけて息をつまらせる。
──危なかったっ! 少しでも気がつくのが遅れていたら、今の一瞬で終わっていた。
一命は取り留めた。されど、放たれた斬撃の鋭さに怖気が這い上がり、足元が竦んでしまう。
(……絡舞紀伊は今、遊郭の中でザクロとモモさんと戦っているのに……こんな大きな人形を動かせるなんて)
恐ろしい上に理解できない。神の座に君臨する羅神というものは、やはり計り知れない。
同じ感情を、拘束されているタカオも抱いたのか。
「ネズミ様ッ、逃げてください! 一人で相手取るにはあまりにも──」
部が悪い。タカオがそう言い終わるか否か、百足人形の巨体が動いた。
無数の腕で畳をドスドスと踏み鳴らし、瞬く間にネズミの眼前に殺到する。
「ヒョオオオオオオオオオ!」
口から奇怪な音を発し、無数の腕から刺突の雪崩が放られる。
ネズミはたまらず横に跳躍して、第一刃を回避。
だが、続けざまに第二刃、五つの切先が眼前に迫っていた。
「やばぁああい!」
絶叫し、垂直に大きく跳躍して回避する。
が、それがまずかった。避け方を致命的に間違えた。
空中に浮いたネズミは、無防備な的に他ならない。
全身がガラ空きのその肉体に、容赦なく刺突の嵐が降り注ぐ。
「ハッ──」
数多の切先が目前に迫り、ネズミの脳が急激に血液を回す。
何か、命を拾える物はないか──瞳を頭上に走らせる。
天井を渡る太い梁が、視界に飛び込む。
ネズミは即座に、頭上の太い梁を足で蹴り、肉体の軌道を横にズラす。
押し寄せる刺突の津波は空振り、ネズミの肉体に届かず、壁に刀身を沈めてゆく。
ネズミは床に着地し、再び距離を取る。奇跡的だ。ここまでの猛攻を、戦いに慣れていない自分が凌げている。
翁火九乱の鮮花を喰らったからだろうか。血を吸わせて思念抜きをしたのだが、僥倖にも、歴戦の羅神の経験と知恵が、わずかに肉体に宿ってくれているのか。
しかし、防戦一方では、いずれ潰されてしまう。
「カッ!」
覚悟を決め、ネズミは渾身の力で跳ね飛び、百足人形に突進する。
紅雀を上段に構え、胴体に一撃見舞おうと一気呵成に振り下ろす。
しかし、その鋭く放たれたネズミの一閃は、火花とともに阻まれる。
「くッ」
無数の腕が持つ数多の刀身が、鉄の壁となって立ちはだかった。
その刀身が折り重なる様が、まるで鉄で出来た蜘蛛の巣のようで。
──最悪だ。
間合いに踏み込んだ勢いそのままに、ネズミは紅雀を振るい続けるも。
幾重にも構えられた凶刃に拒まれ、弾かれ続ける。
苛立ち、力任せに一合、また一合と火花を散らすも、紅雀が虚しい鳴き声を上げるのみ。
ネズミの怪力と香梨紅子の作成した神刀、組み合わせは良し。されど、眼前で蠢き続ける打刀に、うまく衝撃を逃がされてしまう。
──胴体が無理なら。距離を取って腕を一本づつ斬り落とす。
そう、ネズミが頭を切り替えた刹那。
「後ろですッ、右に避けて!」
意識に割り込む、張り裂けるような警告をタカオが打ち上げた。
ネズミはその声を信じ、背後に視線を切ることなく右横に跳躍した。
すると、先ほどまで立っていた場所に七つの斬撃が雨のように降り注ぐ。
「なッ!?」
その光景に、ネズミは青ざめて息を呑む。
承知はしていたが、この百足人形──腕が伸びるのだ。
どういう絡繰か、布に覆われた胴体の中で可変しているのか。
先ほども、胴体を見せず、腕だけ伸ばしてタカオを掴み取った。加えて、ネズミと対面しながら、背後に七本の腕を忍ばせていたのを合わせて見ると、目測で三〇尺(約一〇メートル)は伸びるだろうか。
「タカオさんッ、こいつの弱点知ってたりする!?」
ネズミが、大声でタカオに問いを投げるも、
「すみません! 私も初めて見ます! 美しさに囚われていた父上が、こんなおぞましい物を作るなんて!」
そうだろうな、という返答。事前にした打ち合わせでも、タカオから絡舞の能力の情報はほとんど出なかった。羅神の能力の仔細を探るということは、首を狙う者であると誤解されてもおかしくはない。ゆえに、タカオもトオルも、絡舞紀伊の能力について、努めて知ろうとは思わなかったと言う。
「ふうッ!」
距離を置き、百足の側面に回ったネズミは、焦燥を打ち払うように一息吐いて、冷静を手繰り寄せる。
倒す必要はない。タカオの身柄さえ奪還できれば、即座にこの化け物から逃げても良いのだ。その一念を置くだけで、少しは心が軽くなる。
──やってみるか。
百足人形が旋回してる内に、ネズミは自身の喉を脈動させた。
チウチウチウ
鳴った。鳴ってくれた。翁火九乱の鮮花を取り込んだおかげか、ネズミの鮮花が開花してくれた。
だがしかし──。
「…………」
何も起こらない。能力が行使された気配がない。
「ヒョオオオオオオ!」
ネズミの動揺を咎めるように、百足人形が先手を打つ。
巨体が間合いを吹き飛ばすように素早く動き、無数の腕が大上段に構えられた。
頭から叩き伏せるような凶刃の豪雨が、ネズミに向かって振り下ろされる。
「──ッ」
たまらず、ネズミは後ろへ下がるも、即座に刺突の追撃が眼前に迫る。
さらに下がろうと身を引くも、気が付かぬ間に、壁際に追い詰められていた。
「ヒョンッ、ヒョン!」
襲い来る五つの切先が、ネズミの肩を斬り、耳を掠め、右腕に裂傷を刻む。
間一髪、左に転がるように回避し、ネズミは致命傷を免れる。
チウチウチウ
体勢を立て、ネズミは四つ脚で駆けながら、再び喉を脈動させる。
花は開くには開いてくれる。だが、何も起こらない。
何が条件なのか。羅神の鮮花を取り込んだというのに、どれほど頑固な花であるか。
ザクロと共に獄炎に焼かれた夜。あの死を目前にするような苦痛の中に溺れなければ、花は起きてくれないのか。
そんな逡巡に堕ちたネズミの脳裏に、伊紙彩李の言葉が過ぎった。
『あなたは何を祈りますか?』
何を祈るか。何を願えば、生編の花が力を振るってくれるのか。
この状況を打破したい、その一念では不足しているというのか。
「ヒョオオオ!」
ネズミの思考を打ち払うように、百足人形から横薙ぎの一閃が振るわれた。
迫る切先を寸手のところで回避し、ネズミがまた後ろに下がろうと身を引いた。
その瞬間だった──。
「やあ」
ネズミの背後。
耳打ちするような近距離で。
聞き覚えのある声が、鼓膜を打った。
最もこの状況で聞きたくなかった女の、人の心根を踏みにじる冷声。
心臓を鷲掴みにされるような冷淡な響きが、ネズミの動きを一瞬止める。
まずいと、肉体を再始動させ、咄嗟に声のした方向に紅雀を振るうも──。
「返してもらうぞ」
右手首に強い衝撃が走る。
女の足が、紅雀ごと手首を蹴り上げたのだ。
「これは僕が、母上から賜った品だ」
ネズミの手から弾かれ、紅雀がくるくると宙を舞う。
その円を描く鋭刃が。
神が作りし白骨刀が。
金髪の少女──カリンの手に緩やかに落ちた。
「貴様が使って良い道理などない。汚らしい獣風情が」




