第三三話 化け物(下)
「タカオさん……」
突きつけれたその刀身に、ネズミの背筋が凍る。
覚えがある。骨のように白く、いっそ淡く輝くようなこの美しさに。
紅子が自身の腕の骨で作成する神刀──〈紅雀〉だ。
香梨の大社の前、モモと死闘を繰り広げた際、かつてネズミも握ったことがある。
その切れ味を、感触を、ネズミは覚えている。まるで豆腐に包丁を入れるように、人の肉体にするっと刀身が入ってしまうのだ。
されど、臆している場合ではない。ネズミは自身の胸を叩いて活を入れる。
傷つき、心軋ませる者に、手を添えるときだ。
──花の羅刹として。
「トオルを置いて行くなら……私の望みが叶わぬくらいなら──」
花か、己か。
タカオが言葉の途中、紅雀の軌道が自身に喉元に向かって動いた。
──まっずい!
無力感に苛まれて、自害を選び取る。その極端な行動は、自分にも経験がある。
ネズミは弾かれるように動いた。突きつけられた紅雀の刀身を、右手でむんずと掴み取り、タカオの喉元から遠ざけるため、自身の身に強く引き寄せた。
「ぐうううッ!」
焼けるような激しい痛みに悶絶しながらも、刀身を握り込んで鮮血を散らす。
そのネズミのあまりの行動に、狼狽していたタカオの瞳に戦慄と恐怖が灯り、柄を握る手を小刻みに震えさせる。
「はっ、はっ」
タカオが短い呼気を吐くたびに、ネズミの血液が刀身を渡って鍔に落ちる。
そして、鍔に溜まった血溜まりが、畳に紅の花を一つ、二つと咲かせてゆくのだ。
「ネ、ネズミ様……」
その花が咲けば咲くほどに、焦点の合わなかったタカオの眼が、ネズミの苦痛に歪む相貌をしっかりと捉え出した。
「……ダメです……離して……このままじゃ、ネズミ様の手が」
「超痛い……離したい……」
言葉とは裏腹に、ネズミは空いた左手も刀身に運び、そのまま掴んで鮮血を滴らせる。
タカオにとっては意味がわからないだろう。離したいと口にしながら、痛みを倍にするような奇行を、ネズミが行っているのだから。
されど、ネズミはこの方法しか知らない。この方法が鮮烈に記憶に刻まれているから。
「なんで……ネズミ様が傷つく必要が……あるんですか」
「こうやって……俺の命を繋ぎ止めてくれた人がいたんだ。だから──」
ネズミは言いながら、徐々に両手を滑らせ、刀身の根本まで両の手を運ぶ。
白く輝く紅雀が、真っ赤に色づくその様を見て、タカオは絶句して硬直する。
他者の血潮は、暴力的なまでに視覚を支配する。見慣れていなければ尚更だ。
「タカオさん、誰かが傷ついたとき、心を痛められる人は強い人だよ」
ネズミは痛みに悶えながらも、タカオの大きな瞳を真っ直ぐ見つめる。
かつて、ザクロがしてくれたように。
「痛みに共感して、思い直すなんて芸当は、心が強くないとできない。弱い人は平気で人を傷つけて、自分を正当化するんだ。『自分は悪くない』って」
ほら、とネズミはタカオに視線で指し示すと──。
「あ……」
タカオはすでに、紅雀から手を離していた。ネズミの痛みに耐える姿を見て、自分でも気がつかぬ間に、あっさりと。
錯乱状態の中、自分の衝動よりネズミの身の危険を優先したのだ。これを強者と言わずしてなんと言うのだろうか。
「タカオさんは強いよ。何もできなかったのは、神に迎合しようとする鮮花のせいだし、狂った化け物だった絡舞紀伊のせいだ。妹さんを失った痛みと、自分の価値を混同しちゃダメだ」
手放された紅雀を傍に置き、ネズミは手の平から火花を上げて傷を修復しはじめた。
そのパチパチと弾ける光の舞踊を見て、タカオは呆然と口にする。
「弱いですよ……私は……」
「なんで、そう思うの?」
「地下道で……トオルを思い出せるのは私だけであると、ネズミ様はおっしゃいました……」
「言ったね」
「それすらも……今……忘れておりました……。トオルのことより、無力であった自分を拭いたくて、この場から立ち去ることを拒絶しました。あの人形を愛でる絡舞に一矢報いたくて……怒りに任せ……錯乱して……訳もわからず自分に刃を……」
辿々しく紡がれるタカオの悲壮に、ネズミは気持ちは痛いほどわかると頷く。
花か己か。自分の思考と鮮花の思考、二つの思考を彷徨わせて生きていると、自身の行動基準を見失う時がある。
「タカオさん、俺もさ、怒りに……囚われ……」
自身の過去を振り返り、ネズミが口を開いた直後だった。
「て……た……ことが……」
途端に、ネズミは言葉の続きを取り落とす。
タカオに理解を示すため、まるで怒りを拭い去ったような、そんなことを言おうとした。
それが許せなかった。なぜか、口にすることを憚られ、腹が煮えてくる。
頭に霞がかる。それは手放すなと、身の内で声がするのだ。
『貴様らぁ! 不閑却を!』
『痴れ者がッ、貴様ら親子で罪を隠しておったな!』
『ああッ、紅子様にどう申し開きをするか!』
知らぬ男達の怒声が、ネズミの頭蓋に木霊した。
空気を読まず、記憶の断片が顔を出し始めたのだ。
『よくもツ! 母ちゃんの腹を蹴りやがったな!』
喧々轟々と渦巻く怒声の中、切り裂くように叫んだのは、自分の声だ。
『殺してやるッ! テメエら全員ッ 殺してやるからな!』
胸に踊る憎悪が、いっそ楽しみであると自分に告げるのだ。
家族を傷つけた男たちを、どう八つ裂きにしてやろうか。
「ネ、ネズミ様……?」
意識の間隙、タカオが動揺し、顔いっぱいに戸惑いの色を浮かべていた。
急に硬直したネズミの頬に手が伸ばし、声をかけてくれている。
「タカオさん、やばいかも……この感じ……俺、気を失うかも……」
旅籠屋の廊下で起こった現象と同じであるならば、この後、ネズミの視界は記憶の世界に覆われてしまう。
そう危惧した直後、目の焦点がじわりと滲み、白い霞が視界の端にかかり始める。
「ひ、避難しましょうッ、何処か、押入れに身を隠せば──」
タカオがネズミの腕を取り、なんとか立たせようと必死に足掻くも、獣の重い体重を女子の細腕で起こせる訳もなく。
持ち上げられないならばと、タカオがネズミの両手を持ち、引き起こそう奮闘する。
そのときだ。
「……え…………」
ネズミのぼんやりとした視界の端に、異質な〝手〟が現れた。
白く、滑らかで、それでいてどこか無機質。まるで陶器のような質感。腕は異様に長く、人のものとは思えない。
その腕の根本を目で追う。
部屋を隔てる襖の隙間──そこから、ぬらりと、粘つくように差し伸べられていた。
「タカオさん……逃げて……」
知らせねば、そんな一念で声を絞り出す。
だが、弛緩した口から発せられたネズミの警告は、かすかに空気を揺らしただけ。
タカオはそれに気づかない。必死にネズミの身体を引き起こそうとし、迫る白き手に背を向けたまま。
そして、次の瞬間──。
白き手が鞭の如く身をしならせ、タカオの首を鷲掴みにした。
優しくも容赦なく、まるで長年探していた玩具をついに見つけたかのように。
「キャアアアア!」
張り裂けんばかりに悲鳴を上げるタカオは、床を引き摺られ、襖の闇へと呑み込まれた。
最悪なことが起こった。追わねば。何としてでも。
「ぁぁ……」
力の入らぬ手でなんとか側に転がる〝それ〟を、ネズミは手繰り寄せる。
紅雀だ──この業物であれば、どんなに弱い力でも。
ネズミは刀身を左手で支え、右手を柄頭に乗せ、切先を自身の右太腿に立てる。
「はは……」
これから自傷するにしては、心が曖昧で、何の覚悟もない。
酷烈な痛みが待っているのに、頭を呆然とさせている自分に、ネズミは含んで笑う。
そして、ネズミは何の躊躇いもなく、刀身を一気に押し込んだ。
腕一本分の体重のみで、紅雀は深々とネズミの足の中に沈んでゆく。
「グアアアアアッ!」
魂魄が焼けただれてゆくような絶痛に、ネズミは悶絶して仰向けに倒れ伏した。
肉体の内からドクドクとした脈動が打ち鳴らされ、息をゼエゼエと吐き散らす。
そうして酸素を取り込んでいると、意識が駆け足で覚醒してゆく。
霞がかっていた視界が徐々に晴れ、すれ違うように全身に焦燥が伝う。
「やれる……」
ゆっくり身体を起こして、血糊で汚れた畳に手をつく。
「行か……なきゃ……」
ネズミは足に刺さった紅雀の柄を掴む。今度は抜き取る痛みと戦うことになる。
ふう、ふう、と荒い呼吸を吐き、躊躇いを打ち捨てるように、
「ガアアアアアッ!」
気合い一発、一気に刃を太腿から抜き放ち、絶叫を打ち上げる。
心臓の拍動が四つ、そのわずかな間だけ悶え苦しみ、ネズミは回復の火花を散らして立ち上がった。
「あ……」
すると、立ち上がった拍子、下半身に履いたステテコに閉まっておいた菊の花が、するりと床にこぼれ落ちた──こんな時のため、ザクロが渡しておいてくれた翁火九乱の鮮花だ。
血に濡れ、畳の上を転がった鮮花。たっぷりネズミの血を吸ったその花を拾い上げ、ネズミは口の中に放り込んだ。
不思議と痛みはなかった。初めて香梨紅子の社の中で鮮花を喰らったときは、硝子の破片を飲み込んでしまったかのような激烈な痛みがあったものだが。
相性の問題か、何かしらの法則があるのか、視界が羅生界に覆われることもなく、ただただ喉を緩やかに通り、肉体に活力が与えてくれる。
「キャアアッ!」
足の傷が回復した直後、再びタカオの悲鳴が社の中を這い回る。
殺されてはいない。まだ間に合う。ここが正念場だ。
ネズミは紅雀を口に咥え、四つ脚で襖の闇へと駆けだした。




