第序話 秋来たり
鳥の囀りが響く名も知れぬ大森林。
秋の到来を報せるように朝はすっかり肌寒く、山間から吹き抜ける風はひどく肌に冷たい。
夏は燦々と降り注いでいた力強い陽光も、薄膜で覆うような広い雲に遮られ、弱々しくネズミの頭頂部を照らしていた。
「おお、珍しい」
茂みの中、身を屈めたネズミの眼前には、可憐なナデシコが花弁を白く揺らしていた。
鳥の羽をほぐしたようなその花を見つめていると、同伴する少女の寝癖が脳裏に過ぎる。
「ザクロー、ナデシコが咲いてるよ。綺麗だよー」
「どうでもいい……野糞しながら話しかけんな」
ネズミが茂みから顔を出して話しかけると、ザクロは手をひらりと煽いで袖にする。
香梨紅子の追跡を振り切ってから一ヶ月あまり、二人の逃亡の旅路は続いていた。
ときには入り組んだ樹海をひた走り、ときには険しい渓谷を越え、ときには激しい濁流を泳ぐ。互いに声を掛け合い支え合い、大自然の厳しさを乗り越えて、共に絆を深め合う日々を送っている。
しかし、数日前からザクロの調子がすこぶる悪い。
いつもならもっと喜声なり怒声で打ち返してきてくれて良いものだが。
「ああ……起きたくねぇ……布団の上で寝てぇ……白米と山菜鍋食いてぇ……暖かい風呂入りてぇ」
今は地面に横たわり、うわ言混じりに二度寝に誘われている。
ナデシコのような可憐な白髪も、土埃に塗れて黒ずんでしまっていた。
「やっぱり俺のせいだよね」
ザクロの症状に思い当たる節がある。暮梨村の外へ走り出したとき、ネズミも散々苦しめられた。恐らく、香梨紅子の元から離れようとした離脱症状だ。
羅刹の喉の中に寄生する鮮花。それらは、より強い花と一つになりたがる習性がある。その引力が宿主を母の元へと戻そうとしているのだ。
「俺がまた鮮花を開けなくなっちゃったから……」
ひと月前、ネズミは能力の開花を成し遂げた。その花の力は凄まじく、ザクロを含めた姉妹たちの支配の糸を切り、香梨紅子の強大な引力から解き放ち、暮梨村から脱することに成功する。
行使した能力も強大なもので、自身とザクロを焼き続ける業火を、瞬く間に喉の奥へと呑み込んでしまった。自身の肉体の性質を超常的に変化させ、命を拾う鮮やかなる花であった。
彩李によれば、ネズミの能力は香梨紅子から産まれたものであると聞いている。
『流石は紅子様から生まれた至高の花。生物としての在り方にさえ縛られないとは……』
そう、あの老婆は言っていた。文面通りに受け取るならば、ネズミは恐ろしくも強大な鮮花を秘めていることとなる。
強きネズミの鮮花に支えられていたのか、しばらくはザクロも調子が良かった。どれほど過酷な自然の中で過ごそうとも、ハツラツとした生命力に溢れていた。
しかし、時が経てば経つほどに足取りが散漫になり、ネズミの背中におぶさって休憩する時間を増やしている。
これは見ている方も堪えるものがあると、ネズミはザクロの復調を期待して自身の鮮花を開こうと試みたが、伊紙彩李を失ったあの日以来、鮮花はうんともすんとも応えてくれなくなった。
花さえ自在に開けていればと、ネズミは肩を落とし眉根を揉んで謝罪を溢す。
「ごめんね、ザクロ。また花を開けるように頑張って見るよ」
弱々しい声音で呟くと、ザクロが首だけ動かし、ぽってりと微笑した。
「いいや、お前さんが頑張ることじゃない。母上から解き放ってくれただけで感謝してんだ。それに、ずっと私を背負ってくれてるしな。充分過ぎるだろぉ」
労ってくれてはいるが、どこを見つめているかわからないほどに虚な眼をしている。
自分ではどうにもできないほどに、気力を枯らしているザクロの有様に、ネズミは花が萎れるように耳を垂らした。
「でも、俺にできることなら何でもしたいよ。ザクロには元気になってほしいからさ。調子の悪いザクロを見てるのは、便秘になったみたいで居心地が悪いな」
「ははッ」
ネズミがなんとか振り絞った冗談に、ザクロは思わず吹き出して半身を起こす。
「そりゃ一大事だな。お前さんの快便のために、ちょっとは気張らなきゃな」
「いいよ無理しないで。俺が今、腹と尻を気張ってるからッ、ウウッ!」
ネズミが眉を逆のハの字にして気張って見せると、
「はははははッ、せっかく起きようと思ったのに、笑わせんなっ」
随分とザクロの顔色が良くなってくる。快調に及ばないものの、腹の底から笑えているのは良い兆しだ。
「ほんと、お前さんと一緒で良かったよ」
しとりと言い、ほんのりと頬に赤みを浮かべ、ザクロは誤魔化すように速やかに立ち上がる。
そして、照れくささを払うように首を回し、肩を回し、着物の襟を整えて、右手の義手を掲げた。
「生まれろ、羽虫ども」
緩やかに唱えると、ザクロの喉が脈動し、カチカチカチと音を立てる。義手の機構から六つの穴が開き、六匹の影が勢いよく飛び出す。
激しい羽音を立てて、白きスズメバチたちが主人の周りをひらりと旋回し始めた。
「ちょっと上まで頼むわ」
ザクロが顎で指示を送ると、羽虫たちがザクロの背中にしがみつく。
すると、そのままザクロの肉体は宙を浮き、ゆっくりと上へ、上へと昇ってゆくのだ。
「相変わらず……」
凄い。と、ネズミは茂みの中で感嘆の声を漏らす。
鮮花はどれも超常的な現象を司どるものではあるが、目の前で起こっていることはあまりにも理不尽だ。
人の親指ほどしかない羽虫たちが、どんどん少女の肉体を空へと運んでゆくのだ。
既に、ザクロの肉体は頭上高く上昇し、周囲に生える針葉樹の天辺で停止している。
「また、俺も鮮花を食べたら……」
ザクロは伊紙彩李の鮮花をその身に取り込んだ。故に、羽虫たちの能力が飛躍的に向上したという。
目覚ましい成果をまざまざと見せつけられ、ネズミは心内で一念を燻らせる。自分も同じことをすれば開かなくなった花もまた起きてくれるかもしれないと。
一度は香梨紅子から譲渡された鮮花を肉体に取り込んだが、当時は特に何も起こることはなかった。
しかし、一度は開いたのだ。前回とは違う結果になるのではないか。
「ネズミ、真っ直ぐ南に行こう」
しばらく、ネズミが思案している間に、既にザクロは羽虫たちと共に地上に帰還していた。
「微かに煙が見えた。山火事じゃなきゃ、人がいるはずだ。たぶん、ここから数刻の距離だ」
「おおッ! ご飯分けてくれるかな?」
「そうだな。なんか食える物恵んでもらおう。流石に米食いたいし、醤油とか塩とかも調達したい。それと、遠慮なく火を起こして焼いた魚か獣にありつきたい」
うんざりしたように言うザクロに、ネズミは「ほんとにそう」と深く首肯する。
二人は香梨紅子が追加の追手を放っていると予見して、出来るだけ痕跡を残さないように今日まで過ごしてきた。魚を焼くために火を起こすなんてことをすれば、遠目でも位置がバレてしまう。
故に、ここ一ヶ月の間、周辺で調達した木の実や花の蜜でなんとか食いつないできた。何度か我慢しきれず、焚き火を起こして焼き魚を作ってしまったこともあるが、周囲を警戒しながら光源を起こすのは、かえって心労を溜める結果となった。
「運が良ければ、リンゴとミカンと合流できるかもな」
「確かにッ」
ザクロの言葉に、ネズミの瞳が輝く。
そうだ。リンゴの産み出したツバメが、二人の滞在場所を報せてくれていたのだ。
ツバメが運んできた地図によると、山の中に切り開かれた〈千歳町〉と呼ばれる人里で二人は生活しているらしい。
ただ、ネズミたちはがむしゃらに逃げてきてしまったせいで、自分たちが何処にいるのかさえわかっていない。地図を受け取った時点で自分たちの現在地がわかっていないのだから、太陽や星の位置でなんとなく向かうべき方位を定めることしかできなかった。
しかし、そんな雲を掴むような日々から解放される。人間に出会ってしまえばこちらのものだ。
「千歳町……町の名前はわかってるから、人に聞けば教えてくれるよね?」
「だな。親切な奴を捕まえて聞き出そうぜ」
二人は相貌を明るくして、煙が上がる南へと歩を進めるのだった。




