終話 花の羅刹
少女の啜り泣く声が、川のせせらぎと共に響いていた。
声を押し殺し、姉妹たちにバレないように一人でこっそりと。
『あらあら、また泣いていらっしゃる』
老婆がその背中に優しく声をかけ振り向かせると、まだ八つにも満たない歳の幼い顔が、盛大に鼻水に濡れていた。
『ザクロ様は泣き虫ですね』
言って、少女の白い髪を撫でつけて抱き寄せる。
『紅子様に叱られましたか? モモ様やカリン様に揶揄われましたか?』
このとき自分がなぜ泣いていたのかわからない。
カリンの能力で溺れた人間を救えなかったからか。
母に役目を与えられ、強制的に五戒の執行に手を染めたからか。
悲しいことが多すぎて、この頃は随分と川のせせらぎに嗚咽をかき消してもらっていた。
泣いていると大抵、彩李に見つかり、こうして慰められていた。
こんな恥ずかしい夢を見るのはやはり、彩李の花を自分の喉に取り込んだからだろうか。
『どれどれ、顔をよく見せてくださいね』
彩李が胸に抱き寄せていた少女の顔を上げると、自身の着物と少女の鼻水がべっとり糸を引いていた。
『ふふふ、目に入れても痛くない。子に恵まれなかった私を、こんな気持ちにさせてくれるとは。愛い子、愛い子。どれほど顔が崩れようと、あなたは花のように美しい』
彩李はザクロの白い髪を撫でつけて、目元の涙を拭い、和やかに笑う。
梅干しのような笑顔を見て、夢見る少女と啜り泣く子、気持ちが重なりぽつりと呟く。
『私は……正しかったか?』
口に出してみれば、自分が何を聞きたいのか判然としなかった。
母から逃げたこと。そのせいで彩李を死に追いやったこと。
少年を巻き込んだこと。姉妹を巻き込んだこと。きっと──そのすべてだろう。
『正しいものなど、ありはしません。香梨紅子、その神以外は』
ああ、なんだ。やはりお前は狂信者だ。どんなに心を通わせたつもりでも、結局他者を通して神を見ている。ほんとに、うんざりする。
老婆から身を引き剥がし、ザクロはその場から立ち去ろうとした。だがしかし、強い力で腕を引かれ、そのまま再び抱き寄せられた。
『されど──心が軋み、涙を流す者の背中に手を添える。それが間違っているはずがありません。例え誰が責め立てようとも、一人で泣いている者を放っておけないその心、間違っている道理はありません』
あぁ、やはり夢だ。
言って欲しかった言葉を、言って欲しかった者に言って貰えた。
我ながら都合が良い。彩李は本心ではきっと、自分にそう言いたかったのだろうと、勝手に喜んでしまっている。
夢だとわかっていても、心が感謝で満たされる。
『望むなら、共にどこまでも走りなさい。愛しい、愛しい──』
花の羅刹よ。
そんな彩李の言葉を最後に、ザクロの見た情景は、瞬く光に照らされ包まれた。
✿
「ん……やべ、居眠りしてた……」
微睡む眼を擦ってみると、川の水面に陽光が反射し、ザクロの瞼を温めていた。
眠気を振り払うため、伸びをし欠伸をすると、冷たい空気が肺に流れ込む。
夏も終わりに近づき、日差しは肌に柔らかく、影は東によく伸びている。
「ネズミ、腹減ったな」
広葉樹に囲まれたとある川縁、そこに横たわる大岩に、飛び出た獣耳と、透き通るような白髪頭が二人揃って腰をかけ、川に糸を垂らしていた。
木のツタで作った頼りない釣り糸と、動物の骨を削って作った釣針に毛虫を刺して水面に投げ込んでから一刻半。待てど暮らせど、釣果は望めていないのだ。
「まいったなぁ。釣れなさ過ぎて、ちょっとイライラしてきたかも」
ネズミは退屈そうに釣竿を揺らして眉を掻く。
どれほど粘っても魚が針にかかる様子は一向にない。
作った釣具が悪いわけではない。魚がいないわけでもない。
最大の原因は──。
「お前が魚食いたいつったんだろうがッ、気合い入れろ!」
「うるせぇええ! 黙れッ、お前も居眠りしてただろぉ!」
ザクロとネズミがこんな口論をしばしば巻き起こしているせいで、魚どころか虫さえ寄せ付けない有様だ。
二人が香梨紅子の追跡を振り切ってから二週間が経とうとしていた。追加の追手が来てはたまらないと、崖越え、山越え、森を超え、共に手を取り合う逃亡の旅路は長く続いていた。
そんなある日、長女リンゴの産み出したツバメが文を持ってきた。
『リンゴ、ミカン、共に健勝につき』
姉妹の無事を報せるその文には、丁寧に地図まで添えられていた。どうやら安全な人里に身を置いて呑気に暮らせているらしい。
これは合流せねばと、ネズミとザクロは地図に書かれた目的地に向かっている最中、
「ネズミィッ、お前マジで生意気になったもんだなぁ? ちょっとおどおどしているくらいが可愛かったのになぁ!」
「羅刹らしいんだろ? これがッ」
より一層と親交を深めたネズミは、ザクロに遠慮のない物言いができるようになった。
ザクロが怒鳴れば、ネズミも怒鳴り。ザクロがイタズラを仕掛ければ、ネズミは全力の反撃に打って出る。
遠慮し、怯えながら過ごしていた二ヶ月前のネズミとは見違えるほどに声を張り上げている。
「魚が逃げちゃうからッ、静かにしとけ!」
フンっと、ネズミは鼻息荒くして丸い背中をザクロに向け、釣り糸を乱暴に放る。
「ったく、可愛くない」
言葉とは裏腹に、ザクロは口を綻ばせる。そっぽを向いた少年の大きな口から笑みが溢れている。こんなしょうもない口論が楽しくてしょうがないと思ってくれているのだろう。
それがなんだか、妙に嬉しい。全力でぶつかってきてくれる相手がいるのは何よりだ。
「…………」
ザクロはふと、我に帰る。
生意気になった友人の背中を見ていると、つい小言を言いたくなってしまうのだ。
あの老婆も、こんな気持ちで姉妹達に小言をくれていたのだろうかと。
世話が焼ける者が近くにいると、つい言葉を尽くしてしまいそうになる性分は、あの老婆に似たのだろうか。
もう二度と会えなくなってから、彩李の気持ちが少し理解できた気がした。
「ザクロ……、助けて……」
少女が物思いに耽っていると、隣で少年が張り詰めた小声を漏らす。
瞠目して振り返れば、少年の鼻の上に紫の蝶が一匹、その大きな羽を休めていた。
「人騒がせな。お前、虫苦手なの? 鼻でフンッってすりゃ飛んでいくだろ?」
「俺の鼻息で……蝶々の羽が傷ついちゃうかも。ザクロがシッシッて……やって」
ネズミの必死の懇願に、腹の底から笑いが込み上げ、ザクロはくつくつと含んで笑った。
そして、途端に胸に歓喜の念が湧き上がる。蝶の一匹を傷つけられない少年が、自分のために炎に身を投じてくれたのかと思うと、胸から感謝が溢れて。
「ネズミ、ありがとうな」
そんなことがぽつりと口から漏れた。
照れくさい気持ちもありながら、感謝を伝えずにはいられなかった。
「……いいから。はやく助けて……」
「まあ、聞けよ。本当に感謝してんだ、お前さんには」
「え、マジで助けてくれない流れ……?」
ザクロはまた腹を抱える。
この降って沸いた友人が戸惑っていると、つい揶揄ってしまう。
「しりとりしようぜ」
「しない。むしろ三日は……口聞いてやらない」
流石にそこまでヘソを曲げられては面倒だと、ザクロは自身の鼻息をネズミの鼻に吹きつけた。
「ああッ、蝶々が!」
「大丈夫だ。鼻息くらいで羽虫は傷つかん」
少しだけよろめいて、ヒラヒラと優雅に蝶は舞う。
それを気遣わしげに見送ると、ネズミは安堵の息をつく。
その様子にザクロは笑って、ネズミの肩を支えに立ち上がった。
「場所変えよう。日が出てる内になんとしても一匹は釣るぞ」
「あいよ」
木漏れ日が照らす川縁を、二人は軽やかに歩いてゆく。
そこでおもむろに、前を歩くザクロの背に、ネズミの声がかけられた。
「なあ、ザクロ」
「ん?」
「俺も、その、感謝してるから」
ポツリとネズミが顔を伏せて言うと、ザクロは足を止める。
「一緒に走ってくれて、ありがとう」
改まって、ネズミは頭を垂れて感謝を口にした。
そして、勇ましく背筋を伸ばし、ザクロの眼を真っ直ぐ見つめるのだ。
「俺は、もっとお前と走っていたい」
その願いに、祈りに、少女の瞳が揺れた。
──ああ、お前の中にも、ちゃんと彩李が生きてるんだな。
あの老婆の最後の説教だ。他者を包み込むような祈りを、幸福をと。
伊紙彩李の残した祈りが、少年の中に生きている。
素直な心根で他者の気持ちに応えられる者を、目指そうとしてくれている。
手を握られれば、握り返す、そんな花の羅刹を。
「ずっと、望むなら最後まで」
少女が手を差し出すと、少年はその手をそっと握る。
少女の花が芽吹くような微笑みに、少年は咲き誇るように笑う。
二人が歩く道の先、レンゲショウマの花がゆらり頭を垂れていた。
ここまでご愛読ありがとうございます。
これにて、第一部完結となります。
ネズミとザクロの活躍はまだまだ続きます。
その旅路が珍道中となるか、血に濡れた闘争/逃走劇となるか、
是非とも見届けて頂ければ幸いです。
──✿──
そして、卑しくも作者からお願いがあります。
少しでもおもしろいと思っていただけましたら、
ブックマ-クと、画面下の評価欄から☆☆☆☆☆を頂けると、
私が泣いて喜び、尻を叩きながら感謝を叫びます。
読んでくれている人がいるという証は、
以降の話を書く上で、とても心強い励みになります。
心温かい感想などもお待ちしております。
それでは、第二部〈千歳町編〉でお会いいたしましょう。




