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花の羅刹✿ 【第三部準備中】  作者: 再図参夏
第弍部 千歳町編
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第四六話 不定魂在

 カリンの揺れる瞳が、母の手元を捉える。

 母の片手に──血に塗られた紅雀が握られていた。

 

 あの瞬きをする間もない一瞬で、ゼイゾウの腹を刺傷したのか。


 ──どういうことだッ!?


 カリンの心臓が早鐘のように打ち鳴らされる。意味がわからない。受け入れられない。

 理由もなく信者を突き刺すようなことを、神である香梨紅子がするわけがない。


「ああ、最初に言っておくべきでした。カリン、紅雀を借りました」


 ゼイゾウの返り血で着物を汚しながら、母が思い出したようにこちらに向かって言った。

 薪を割るために刃物を借りるような、そんな手軽さで。


「ぜ、ゼイゾウが戒律を犯したのでしょうか?」


「いいえ、彼は一度も戒律を破ってはいませんよ。エダとして、よく勤めてくれました」


 そんな賛辞を送りながら、紅子は流血に悶えるゼイゾウの肩に手を添える。

 言動と行動が一致しない。母がここまで矛盾したことをするなんて。


「な……なじぇ……ぶぇにこさまぁ……」


 カリンを代弁するように、吐血するゼイゾウが聞いた。

 すると、先ほど信者を労っていた同じ唇で、紅子が突き放すような嫌悪を漏らす。


「あなたの姿が視界に入るたび、胸に不快感がありました。なぜなのか、ずっと疑問だったのですが──ネズミの記憶の覚醒を引き金に、私も思い出したようです」


 言うと、紅子はその場に膝をついたゼイゾウと目線を合わせて、


「ゼイゾウ、ネズミの実母の腹に、蹴りを入れましたね?」


 何処までも黒い憎悪が込めた声。

 その音ともに、紅子は紅雀を振りかぶる。


「赤子の命が宿る〝私の腹〟に、暴行を加えた」


「おぅぶ──ッ」


 念押しとばかりに、またゼイゾウの腹に白刃を押し込む。

 吹きつけられた血飛沫が辺りに飛散し、カリンの見ている光景が赤く紅く染まってゆく。


「母上……なぜ……」


 声がかすれた。理解が追いつかない。

 かつて、ネズミの実母にゼイゾウが加えた暴行を、『私の腹』と母が言ったのだ。


「なにをされてるのですか……」


 ゼイゾウの背に生えた紅雀の刀身に視線を縫い止めたまま、カリンは震える声で尋ねる。

 すると、紅子の口元が柔らかな笑みを浮かべるのだ。


「ネズミの実母である〈秘匿の花〉の灰神。その鮮花を浄化することなく、この身に取り込みました」


 紅子は、あくまでも静かに、あたかも茶菓子を摘むような手軽さでそう言った。


 他者の鮮花を食らうとき、己の血で浸して浄化しなければ、元の宿主の思念が己の精神に宿ってしまう。

 そのことわりを、羅神教の教祖である香梨紅子が知らないはずがない。


「浄化せずに……。では、今その女の思念が……」


「ええ、そうです。ネズミの実母の思念が、私の頭の中で木霊するのです」


 この男は許せない。

 ──そう語る母は、微笑んではいなかった。


 怒りか、憐れみか。一体、何を考えているのか。

 言葉の端に滲む、母とは違う響きが、カリンの胸をざらりとかき乱す。


「重ねて問います……どうしてそんなことを……」


「〝母〟という生き物の、気持ちが知りたくなりました。私には自分の腹を痛めて子供を産み落とした経験がありません。だから、興味がありました」


 言って、紅子の首がしなだれるように傾き、静かに痛みに耐えるゼイゾウに向けられる。

 

「憎しみとは、おもしろき花です。この感情の達成を成し遂げられるなら、何を犠牲にしても良いとさえ思えてしまう。今まで味わったことのない心の所作を……堪能できます」


 湿り気を帯びる声音で、紅子はゼイゾウの腹に突き立てた紅雀を引き抜く。

 

「ごぅ──ッ」


 絶痛に喘ぎ、ゼイゾウはその場で手をつき、口から盛大に吐血する。

 そんな信者の様子に、紅子はただ花を見つめるように呟くのだ。


「もっと苦しんでほしい……そんな風に、思うのです。ネズミの母は、何処までも感情の濁流に身を任せる性分だったのでしょうね。息子であるネズミよりもはるかに、獣に近い女です」


 そして、と、紅子は心底と呆れるように溜息を吐く。


「その感情の濁流は、息子であるネズミに……最も強く向けられていた。幸せにしたいのに、妬み、憎んでしまう。何よりも独占したいのに、嫌われるような甘え方をしてしまう。これほどの矛盾を抱えてしまうのが、母親というものなのでしょうか」


 息も絶え絶えにしているゼイゾウに対してすでに興味を失ったのか、紅子の視線は緩やかにカリンに戻る。


「息子を愛していたのに、誰よりも怒りをぶつけていた。父の死を乗り越えようとする息子と、その死に囚われる自分を比べ、劣等感と寂しさに溺れていたみたいですね」


 内なる感情を分析するような紅子の声に、嘲りや侮蔑の色はない。


「もっと息子に寄り添ってほしかった。一緒に悲しみの底に落ち、共に泣いてほしかった。そんな感情が暴走し、一緒に悲しんでくれそうな男と肌を重ねた……愚かな女ですね」


 染みるように言うその響きは──泣きじゃくる我が子をあやすような、溢れるような慈愛を纏っていた。

 

「……母上……やはり理解できません」


 カリンは沈痛に相貌を濡らす。

 絶対なる神である母と、愚かなる人の母であるネズミの実母。

 香梨紅子の御心に、その二つの顔が同時に存在することが、カリンには耐えられない。


「そんな愚かな女の思念をなぜ……咀嚼しているのか……」


 恐る恐る聞くと、カリンの眼前に返り血で濡れた母がしゃがみ込む。

 神か、人か。焚き火に照らされたその姿は、今、どちらなのか。


「私もね、困難に挑みたくなりました。ネズミがこの私に背いたように、ザクロを救うために炎に身を投じたように……私も己を投じたくなったのです」


「何に……ですか……」


「愛と憎しみが同居する、どうしようもない生き物の感情に」


「何故ですか……」


「ネズミの母の愚かさを、理解し、咀嚼し、克服すれば──私は羅刹として一歩成長できる気がするのです」


 やはり、どんな言葉を尽くされようとカリンには理解できない。

 香梨紅子は完璧だ。成長など望まなくとも、すでに完成されていたのに。


「美しいものを……なぜわざわざけがす必要があるのですか……美しい鯉が泳ぐ水の中に、毒を流し込むようなものだ……」


 受け入れ難い現実に、カリンの思考がぼやけ、身体に浮遊感を纏う。

 神として崇めていたものが、穢れた血糊にまみれて汚れてゆく。


「あらあら……『穢す』と、あなたは解釈するのですね」


 呆れるような声音を這わせて、紅子は血に濡れた両手でカリンの頬を包み込む。

 娘の顔にべっとりと紅を塗りたくって、次には諭すように言うのだ。


「どれほど、あなたが穢れようとも、私があなたに対する愛情は変わりません」


「……変わらない……?」


「自分の大切なものを誰かに踏みにじられたとき、あなたは、その大切なものの評価を下げるのですか?」


 その問いに、カリンは答えられなかった。

 血に濡れた紅子の姿が否応なく焼き付いて、喉が締め付けられるように乾く。


「花はそこに変わらず咲いています。どんなかぜに吹かれても、花は花であるという価値は、一切変わることはありません」


 言われて、カリンの瞳に溢れるものがあった。

 無惨な敗北をきしても、母はただ愛情を注いでくれていた。

 それなのに、自分は、母が変容したとき、評価を変えてしまうのか。

 その程度の信仰心であったのかと、カリンは激しく恥じ入った。


「僕が……間違っていました……母上の新たな試みを……否定するような気持ちを……」


「いいのですよ。私の戯れに、あなたをかき乱してしまいましたから」


 紅子は柔らかく言い、カリンの頬から手を離す。

 目眩がするような血の香りを残して、紅子はゆっくりと立ち上がる。

 すると──背後で虫の息が漏れた。


「ぶぇにこ……さま……これが、このゼイゾウの……最期のお役目、でしょうか……」


 血を失いすぎたのか、ゼイゾウの瞳が虚な色で訴える。

 縋るようなその有様に、紅子は含んで笑った。まるで、昼寝をする猫を眺めるように。


「はい。ゆっくり、苦しんで死になさい」


「がし……こまり……まじた……」


 言うと、ゼイゾウは布団に身を預けるように、血溜まりの中に沈んでゆく。

 そんな老爺の相貌は、晴れやかなものだった。神に役目を与えられたからか、なんの憂いもなく死にゆく顔は、ひどく安堵が滲む笑顔だった。


「それでは、行きますね」


 ゼイゾウがピクリとも動かなくなった頃合い、ふと、紅子は焚き火に背を向けた。

 その歩みは、夜の帳を割くように、しずしずと響く。

 血を吸った衣が足元で湿った音を立てるたび、森の空気がわずかに粟立つ。


 カリンは立てなかった。

 ただ、燃える薪の音と、紅子の足音を、朦朧とした意識の中で聞き続ける。


 神/人が道を歩まれる。仮初の肉体で去ってゆく。

 どこまでも、暗く、深く──感情渦巻く、森の中へ。

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