理奈と華波の思い出
埃がいくら積もろうとも、色褪せず心の中に刻まれたものは存在する。
「うっわー、懐かしいっ!」
華波は理奈の部屋にある本棚から一冊のアルバムを手にとった。掃除こそしていたが、長年日の光を浴びなかったアルバムは少しばかり埃を被っていた。理奈は額に手を当ててため息をつく。
「……華波、それをしまいなさい」
だが、すでに和乃と櫻子の興味を引いてしまったようだ。二人は顔を輝かせて華波の両脇に移る。
「ねぇ、理奈?少しくらい、良いじゃない?」
「和乃、少しですまないでしょ」
「アハッ!これ、お姉ぇちゃん!?可愛いー!」
「え、どこ?……あ、本当。理奈、可愛いわね」
「ハハッ、お姉ぇちゃんは今も昔も変わらず可愛いのだっ!」
櫻子と和乃が笑う。こうなってはもう手遅れと理奈は教科書を閉じる。テスト対策勉強会はこれにて終了。
もうすぐ二年生の学年末。その対策勉強会を理奈の部屋で行っていたわけなのだが、ものの見事に頓挫。櫻子と和乃は華波の両脇で楽しそうだった。理奈は諦めて教材を片付け、三人に出すコーヒーを入れる。
「確かにアルバムは思い出のためのものだけれど、何も今見なくたって良いでしょうに」
「だってー、見つけちゃったんだもーん」
華波がわざとらしいピースサイン。
「見つけたでなく、何かを見つけに行ったんでしょ」
開始一時間を超え、集中力が切れた華波が本棚に向かった瞬間を理奈は明確に覚えている。あの疲れきった表情はおいそれと忘れられない。
「良いじゃない、理奈。明日からの励みだと思えば」
「和乃、さり気無く今日はもうやらない事を発言しないでくれないかしら?……華波、あなたそれを見つけた罰として、居残りよ」
「密室でお姉ぇちゃんと二人っきりー!」
居残りの意味も、テンションが上がった華波には伝わらなかったようだった。はしゃぎ倒す華波を横目に、理奈は額を押さえる。
「あー、これこれ。懐かしくなーい?」
コーヒーを三人の前に置こうと、テーブルの向かいにいる理奈に華波が写真を見せる。理奈はその過去を思い出して目を泳がさせる。
「あー……。本当に、それは……。うん、大変だったわよねー……」
「お姉ぇちゃんと華波と……男の子?」
「気が強そうね、どうして膨れてるのかしら?場所は……遊園地?」
「ああ、それ、ね?……櫻子、それ男の子じゃなくて、女の子よ」
「へー!ボーイッシュだねー!」
櫻子は、短髪で顔に絆創膏だらけ、キャップを被ったその子をマジマジと見る。そして、ハッとなる。
「ま、まさか、この頃から理奈は百合色ハーレム!?」
「何よ、それ」
理奈が呆れたと言わんばかりに肩をおとす。
「待って」
和乃がその子をマジマジと見る。それから、ゆっくりと、恐る恐る顔をあげる。
「……まさか、けー?」
「そのまさか」
「えぇぇっ!?これけーなの!?……うわー、この頃からヤンチャだったんだー……」
「そうなのよ。この頃から中学生相手にケンカとかそんな事ばっかり。……この写真の時も、本当に大変だったんだから」
結局、理奈も勉強する事を放棄して思い出話に華を咲かせる。
「小学五年生、もう六年も前ね」
この頃から、今の立ち位置は変わってないように思えた。
校外学修と言う名の遠足は、小学生にとっては年に数回ある素晴らしい一日だったに違いない。それは、華波やけーのように、勉強するより動き回る方が好きな子然り、理奈のような勉強熱心な子然りだろう。
そう、その場所が、ましてや遊園地ともなれば、分別がまだ完全につかない子供ならば、羽目を外す、という言葉ではすまないだろう。
狂喜乱舞。
遊園地とは言っても、そこは学校。厳密には科学、理科の授業で習うような事を、視覚、聴覚、感覚で学ぶ科学博物館だ。
それでも狂喜乱舞。
平日に関わらず子連れも多い。小さな子供が小学生の波に入り交じる。
そんな一区画。
「お姉ぇちゃん、お姉ぇちゃん!何あれ!凄いよ!」
「そうねー」
「うおっ、理奈!あれも凄ェなァ!」
「そうねー」
同い年のはずなのに、まるでそこらの子供のように異様な程に騒ぐこの二人は一体なんなのだろうか。可愛げがない、とすら言える程に落ち着き払った理奈は二人に両方から手を引っ張られ、引き裂きの刑を食らっていた。
「あー、もう!落ち着きなさいよ!ゆっくり順番に見れば」
「「あっちから!」」
結局もめる。何を言おうが関係ないのだ。とにかく自己主張の強い二人にいつも理奈は振り回されていた。だが、手のかかる二人を放っておく事も出来ず、理奈はいつも二人の世話役になっていた。
なのに。
気付くと、華波はどこかに消えていた。
「……」
ズドーン、と理奈は落ち込んでいた。世話役のはずなのに、見失ってしまった自らの行いを悔いて。
「り、理奈?すぐ見付かるって」
「……そう、ね……」
けーが励ますが、理奈の落ち込み様は尋常ではなかった。まるで、世界の終わりみたいな顔をしていた。ギュッ、とけーは拳を握りしめる。何してやがるっ、と華波への怒りを膨らませる。
そのまま、二人で博物館の中を歩いて華波を探し続けた。すると、華波を見つけた。
知らない、大人に手を引かれていた。
カッ、とけーの頭に血が昇る。誘拐の文字が浮かんだのだ。
「テメェ!」
理奈が声をかけるよりも先に、けーは走っていた。勢いそのまま、恐ろしく小柄な体型からは予想も出来ない跳躍。その男のこめかみに飛び膝蹴りを決めたのだった。
「そしたら、その人は迷子センターに華波を連れていく途中の、非番の警察官だったのよ。家族連れのね」
「うっわー、けーもやるねー……」
「警察官に、飛び膝蹴り……」
櫻子と和乃は呆れを通り越して称賛する。その頃から血の気は相当濃いみたいだった。
「けーは先生に取り押さえられるし、華波は安心感からか泣き止まないし、本当、大変だったのよ?」
「アハハ、ごめんねー」
華波が頭を全く悪びれずにかく。
「それで、華波の迷子の理由は何だったの?はしゃぎ過ぎ?」
「甘ーい!このあたしが、その程度の理由でお姉ぇちゃんから離れると思ったか!?甘過ぎるぜ!」
「……」
櫻子の問いに、理奈は顔を少し赤くしてそっぽを向く。対して華波はニヤニヤと笑っている。
「こっれなのだー!」
華波は、スマホを高々と掲げる。二人は目を点にさせる。
「いや、それスマホじゃん。最新型の」
「え、どういう事?」
「違う違~う、こーれっ」
華波は笑いながらストラップを見せる。いくつかついているストラップの中で、かなり年季の入ったもの。プラスチックの星形のストラップだ。
「お姉ぇちゃんとあたしは、今もこれ付けてんだよー」
「「ああ、のろけ?」」
「違うわよ。私はただ、物持ちが良いだけよ」
「またまた~」
「おアツい事で」
ニヤニヤ。ニヤニヤ。ニヤニヤ。三人のニヤけ面に、理奈の顔が赤くなる。
「こ、このストラップ、けーの分もあるから」
苦し紛れ。理奈の言葉に華波は頷く。
「まーねー。ケンカの時とかに無くなってなければね」
「あー、けーって、物持ち悪そうなイメージあるよねー」
和乃が苦笑を浮かべる。実際、けーの物持ちは最悪である。理奈はけーが同じバイクに乗っているのが不思議で仕方がない。機械まみれで精密なのかと思っていたが、存外耐久性に優れているのかもしれないと、けーの趣味がメンテナンスである事など全く想像もしなかった。
「けーはおいとくとして。……結局のろけよね?」
「だよねー」
さてと、と二人が立ち上がる。顔を赤くさせたままの理奈が二人を睨む。
「帰るつもりかしら?まだロクに勉強もしてないのに?」
「いやー、今日は華波からののろけで胸いっぱいというか?」
「少し二人っきりにしてあげた方が良いかな?というか?」
「野暮で下世話なお気遣いをありがとう。けど遠慮は要らないから一緒に勉強はどうかしら?」
頭がパンクするまで詰め込んでやる。そう言われた気がした二人は早々に逃げ出す。理奈はそんな二人にため息をつく。
「まぁ、和乃は成績良いし、櫻子も悪くはないものね。……問題は……あなたよ、あなた」
「ほえー?」
上機嫌に独りアルバムを眺めている華波に、冷たい視線を向ける。華波はそんな理奈の横に座ると、困ったように笑う。
「アハハ、ごめんごめん。ちょーっと休憩のつもりだったんだけどー……」
「全教科75点以上、五教科合計400点以上」
「無理ー!?」
「それくらい取りなさい」
理奈はツンとそっぽを向く。勉強会を解散させたのだから、それくらいはとってもらわないと気がすまない。
「お姉ぇちゃん、ごめんってばー」
言いながら華波は理奈の背後をとり、抱き付く。誰も見ていない事は解っていても、どうも馴れない。自分が酷くいかがわしい事をしている気分になる。
「離しなさいよ」
顔を赤くしながら抵抗する。華波はうーん、と唸ると、理奈の耳元で喋る。
「あたしはお姉ぇちゃんにギュッてされると落ち着くんだー。あたしが怒らせちゃったから、お姉ぇちゃんが和やかになってくれるかなーって」
「もう怒ってないから離しなさい」
「ほんと?」
「本当よ」
怒りは羞恥に変わってしまった。落ち着くかで言えば、酷く落ち着かない。自分からするときは大丈夫なのに、何がいけないのだろうか。理奈は華波から解放されて、ホッと胸を撫で下ろす。
「お姉ぇちゃんー」
華波が何か言いたげな、期待の籠った視線を送ってくる。意図を察した理奈はどうしようか、と首を傾げる。そのまま掌を華波に向ける。
「ダメ。しない」
「うえ~? なんで~?」
尋ねながらも華波が腕を伸ばしてくる。伸ばされた手を、理奈は無情にもパシッと払い落す。しばらく払われた手を眺めていた華波は、第二手、三手を伸ばすが、それらを理奈は払う。そのまま腕での攻防を展開する。
「あなたが勉強会を妨害したから」
いなすのは容易い。掴まれる前に払い落せば良いのは、とても楽だ。対して掴もうとする華波は、苦戦を強いられていた。
「良い~じゃ~ん~」
パシッ、パシッ。バシッ!
次第に音が強くなる。払う。弾く。流す。理奈の防御はまるで鉄壁で、やがて華波が肩を落とす。
「ううっ」
ガクッと項垂れる華波。理奈はそれを見てコーヒーを一口飲む。香ばしい香りが鼻を抜けていく。哀愁溢れる華波の姿を眺める事数秒。酷く可哀想に思えてきた。そう、まるで妹に意地悪でもしているような罪悪感。
実妹ではないのだけれど。理奈は視線を逸らしてため息をつく。こうして、折れるのはいつも自分だ。
そっと華波の背に手をまわして、軽く抱擁した。まるで抱き枕を抱くように。えへへ、と結局自分の思い通りになった華波が笑う。そして、5秒程度で離れる。
「はい、おしまい。しっかり家で勉強してくる事」
理奈がビシッとドアを指さす。華波は露骨に不満そうだ。
「ええ~」
「我儘言わない。私はあなたの要望を聞いてあげたでしょう? あなたも私の要望を聞いてもらうわよ。……それに」
理奈がため息をつく。まるでどこか見られているかと思えるくらいタイミング良く来たメールを見る。
「どうやら、叔母さんがくるみたい」
「翔子叔母さん?」
「そう」
シャキンッ! 華波は背筋を伸ばして、慌てて勉強道具を片付け、帰宅準備に取り掛かる。
「おおおおおおお姉ぇちゃん! あたし帰るね! アハハ! 急用思い出しちゃった!!」
「ええ、また」
「ばいばーい!」
突風のように華波は部屋から消える。さてと、と理奈もゆっくり腰を上げる。正直、気乗りしない。だが、何故だかこの家では主に、自分のこの叔母の相手をするように決まっているのだ。
「孝之に、押し付けられないかしら」
『迎えに来て♡』そんなメールを見て、理奈は心労を隠せない。
「……もう、文章にハートなんかつけて良い年でも」
ゾワッ! 悪寒を感じて振り返るが誰もいない。当たり前だ。ここは、さっきまで皆で勉強をしていた、自分の部屋なのだから。
「……」
霊的なものは、さほど信じていない。真っ向から否定をしたりはしないが、視線を感じたからどう、なんて事は普段考えない。そう、普段は。
「……あの人、本当に何か特別な力でも持っているのかしら?」
恐怖しか覚えられない叔母を迎えに行くために、理奈はそっと上着に袖を通した。




