休み時間ー理奈とバレンタイン
バレンタイン企画短編です
西条高校家庭科調理室。一月も始まったばかりの時期の放課後に、そこは異質、とも言える匂いが立ちこめていた。
「うげっ」
思わず、華波がそう零すが、誰もそれを咎めようとは思わなかったみたいだ。見学と称して忍び込んで来たけーだけが、目を輝かせて自分の目の前に幾つもの皿の数々を並べ、調理部が作っているものの数々を今か今か、と待っている。
「理奈。俺、早く喰いてェ」
「ちょっと待ってなさい」
そう言いながら、理奈はその匂いと同質の匂いを放つコーヒーを顔色一つ変えずに飲む。そのさまは、意図的に摂取する事で、皆の不安を和らげているようにも見える。
「出来たわよ、ガトーショコラ」
目の前に持って来られたガトーショコラの四分の一を自分の皿に、残りをけーの皿に乗っける。けーは迷わずそれに手を伸ばして次々に口に放り込んでいく。決して少ない量なんかではない。一人前が、計三点、次々とけーの腹の中へと消えていく。調理部の面々が、その様を胸焼けを引き起こしそうな思いで眺める。たちこめるチョコの匂いで気分が悪くなった部員すらいる。
「うめー、うめー。けど、少しチョコ感少なくねェかよ? ココアパウダー少し増やすくらいがちょうど良いと思うぜ」
「そうね。何故だか解らないけど、ココアパウダーが少ないみたいね。下手なアレンジ加えたり、量を守らないと、失敗するわよ?」
けーの言葉に賛同しながら、理奈はカフェモカ、カカオの混ざったコーヒーを飲む。
何故だか、じゃない。その時、全員は辟易としながら、換気しても換気しても消えないチョコレート、カカオ臭。その匂いに辟易とし始めて、どうしても少なくなってしまったのだ。
生チョコから始まり、チョコクッキーやガトーショコラといった、様々なチョコレート菓子類。しまいには、手作りのト○ポやポッ○ーまで作ってしまった始末だ。
事の発端は、数人の女子、男子の発言によるものだった。
「理奈先輩、バレンタイン用のチョコの練習がしたいです!」
「女子の作ったチョコが、バレンタインに食べたいです!義理で良いから!」
その時の理奈の表情を、華波はよく憶えている。普段と変わらない無表情ながらも、嫌悪ともとれる目だった。その結果、ここ二、三日、チョコレート関連のお菓子を、とにかく作っては作っては作らせている。
だが、華波は腑に落ちない事が一つだけあった。それは、何故理奈がバレンタインを嫌がるか、であった。
クリスマスは誕生日と重なり、ないがしろにされてしまい次第に嫌いになっていった。だが、バレンタインは気付くといきなり嫌いになっていた。それまで毎年チョコをあげていた華波も、バレンタイン前になると、理奈の機嫌が悪くなるので、以前一度尋ねた事があった。すると理奈は、酷く冷たい目をしながら言った。
「恋人に、その時好きな人にうつつを抜かして、大切な事をないがしろにする、悪習だから」
悪習、とすら言った理奈の心意を、華波は未だに掴めないでいた。それまで毎年楽しそうに、チョコレートを交換していたのに、何故だろうか、と。
だが、それでも理奈は手を抜かずに教えていた。教えを請う相手を、ないがしろにしたりはしなかった。理奈は、人を重んじる。人の心を、重んじる。だから、好きな人にこういったイベントでものを贈りたいという気持ちを重んじて、自らの抱える嫌悪を隠して教える。一方で、もう嫌だ、と思わせる程作らせたりもするのだが、そこはもうそんな事を思わせないためだろうと、華波は判断していた。
周りを一切気にする事なく運ばれてくるガトーショコラといったチョコレート類を平らげていくけー。けーは甘いものに目がない。チョコレート尽くしの部活の写真を見た翌日から、毎回駆けつけて、それらを平らげていくようになった。部員達は、初日ですでに試食すらも飽き飽きとしていたから、それだけは互いの利害が一致して都合がよかった。
「理奈ァ、俺ァこんなにチョコが食えて幸せだー」
「良かったわね、けー」
「……うん?」
華波は、どこか疎外感を憶える。理奈の態度は、いつもと変わらない。変わらないはずなのに、何故だろうか。どこか冷たいものを感じるのだ。薄い氷の壁が、間にあるかのように。
「お姉ぇちゃんー」
「なに?」
理奈は、華波の呼びかけに反応こそすれど、どこか、華波を責めているような目をしていた。華波は、その目のせいで、何かを言う事もなく、なんでもない、と隅っこに下がる。
そして、帰宅すると、華波は一人で調理部で習ったチョコレート菓子の復習がてら、それを義光に振る舞う。義光は、それを一口だべると、毎度頷いて、同じような言葉を口にする。
「うん、うまい。日々精進しているな、華波」
今日も、変わり映えしないコメントだけだった。華波は、自分のお菓子に何が足りないのだろうかと、首を傾げる。理奈に聞けば手っ取り早いのだが、お菓子について個人的には教えてくれないだろうな、と華波は思う。あれだけ機嫌が悪いのならば、不可能だろう。
「……」
理奈の、どこか冷たい態度が少し引っかかった。白々しいというか、何か怒っているような感覚。華波にとって、それは、酷く悲しいものだ。身に覚えがなく、聞く事も、はばかられるあの態度。
「……お姉ぇちゃん」
胸に、ぽっかりと穴が空いてしまったようだった。近くにいるのに、酷く遠い。まるで、巨大な壁に遮られているようだ。キュゥッ、と締め付けられるように胸が痛み、華波は、早くこの穴を埋めたいと、強く思うのであった。
そして、二月十三日。その日、家庭科室の光景はさらに異様なものとなっていた。
「クソ不味ッ! テメェ、舐めてんのかよッ!?」
けーが鬼の様な形相で睨むのは、調理部員ではなく、一般生徒。そもそも、見慣れない制服、大量のピアス、長い金髪に恐怖を抱いていたその生徒は目尻に涙を浮かべる。足がガクガクと震え始める程であった。
バレンタインの一週間前であるこの時期には、理奈に教えを請いに来る生徒が続出する。この一般生徒もその一人だ。彼女は憧れの男子に告白するようの手作りのチョコレートを理奈に習いに来たのだ。だが、肝心の理奈はけーの横に座って、コーヒーを飲むばかりだ。
一人一人教えていたり、色々なレシピを教えたり監督するのは面倒、と思っていた理奈は、一月の上旬から調理部員達にいくつかのレシピを教え与えた。それも、希望や得意分野から理奈がチョイスしたグループでだ。そして、どのグループがどのお菓子が得意かを判断して各グループに教えさせるという手段をとった。そうする事で、自分の負担を減らす。嬉しい誤算として、けーが試食係を請け負ってくれた。のだが……。
「……そんなに?」
理奈はグループに視線を向けるが、彼らは首を傾げるばかりだ。
「なんか妙な酸味があんだけどよ、それがまた嫌ーなハーモニーを奏でててよ」
「あ、それお酢です」
「お酢だァアァッ!?」
けーが驚愕のあまり叫ぶ。原因不明の何かの正体を知って気分が悪くなった。目の前がチカチカし始める。そのまま、胃を握られたような感覚に落ちる。
「ホラ、恋って甘酸っぱいし……」
「ガトーショコラで甘い部分、酢で酸っぱい部分の演出なんかッ!?」
「そうですっ!」
「アホかァッ!」
「……なんでそんなもの混入させたのよ……」
グループの方に視線を向けるが、全員が首を横に振る。知らぬ間に、こっそり混入させたようだ。彼らの表情からは、試食するハメにならなくて良かった、と安堵の色が伺える。
「テメェ等も、味見くれェしてから寄越せェェッ!」
食ってみろ! けーの怒声に全員がおののく。食べない、という選択肢はなさそうで、そのグループ、そして理奈が試食する。
恐ろしい衝撃だった。口にいれる前から、異常な臭いが漂っている。そして、噛めば噛む程、お酢の味が口の中に広がっていく。
「……これは、恐ろしいハーモニーね……」
理奈が、口許を押さえながら呻くように言う。もはやこれは、ガトーショコラの形をした何か、であった。
「……何かアレンジを加える時は、教えている班員の許可をとって下さい……」
「……はーい」
一般生徒は、自信作を全面的に失敗作と言われて、どこか意気消沈としている。
「……ああいう奴が、俺、一番良くないと思う」
「……そうね。典型的な料理が下手な人ね」
「なーんでアレンジ加えんのかな、妙な」
「さぁ? オリジナリティが欲しいんじゃない?」
「……いらねェ真似しやがってよ」
けーは忌々しそうに、クッキーをほおばる。そして、それをコーヒーで流し込むが、まだお酢の被害が残っているようで、しばらくコーヒーを飲み続けた。
「しっかし、すごい人だな」
けーが言うように、家庭科室には、あり得ないくらいの人で溢れかえっていた。理奈に、教えを請いに来た生徒達だ。
「でしょう? だから私はバレンタインが嫌いなの」
「そーなのかよ?」
「ええ」
理奈は、ため息一つつくと、けーに一度だけ視線を向け、教壇の上から、教室内を見渡す。
「料理というのは、コツではないわ。少なくとも、私はそう思っているの。料理というのは如何に想うか、どれだけ愛情を込めて作るか、というのと、日々の鍛錬だと、私は信じているわ。一朝一夕でどうこうなるものじゃないって。確かに、コツを押さえれば、ある程度のものを作る事は出来るわ。だけど、それだけじゃ足りないの。
仮に、私がいつも教えている部員達と、私がその一品だけをサラッと教えた子達に、同じものを作らせたとするわ。そうするとね、出て来るのよ。普段から料理に携わっているかどうか、という差が。もちろん、後者の子達のも美味しくできるわ。だけどね、違うの。不安定なのよ。均一でないの。そして、彼女達はそれに気付いていないわ。私は、それが嫌」
「……理奈も色々あんだなー」
ポンポン、とけーが理奈の頭を撫でる。理奈はなされるがままに、けーに頭を撫でられる。あ、ヤベ。癖になりそう。とけーが思っているのも露程も知らずに、理奈はけーに頭を撫でられる。
撫でられる。撫でられる。撫でられる。撫でられて、撫でられる。撫でられる。撫でられる。
「……いつまで撫でるつもり?」
冷たい視線に貫かれたけーは、大人しく手を引く。サラサラとした髪に、もう少し触っていたかった気もするが、諦めるしかないようだ。
「……そういや、華波がいねェな?」
「……」
理奈は何も言わずにコーヒーを飲む。
「理奈?」
けーが尋ねても、理奈は何も答えない。
「オイ、理奈よ? 華波は」
「知らない」
けーの言葉を遮り、理奈が言う。けーはゾッとする。理奈の目が、面白くないと語っていた。酷く、不機嫌そうな目。……一体、何したんだよ、アイツ。それ以上の言及を許す事なく、一切を黙殺しながら、理奈は今日の部活を終えた。
けーの見送りを断り、理奈は電車に揺られる。
面白くない。
今日は予定があるから、先帰るね、と華波は部活前に帰ってしまった。
面白くない。
予定、自分よりも、優先する予定があるという事に、理奈は酷くショックを受けた。お姉ぇちゃん大好き、といつも鬱陶しいくらいくっついていたのに、予定があると言って、帰るのが、酷く気に入らない。
「何よ、馬鹿」
改札を潜って、家に向かう。薄暗い住宅街の路地。街頭が、酷く頼りない。
果たして、この道はこんなに暗かっただろうか、と理奈は疑問に思う。何故だろう、何でだろう。
華波がいないだけで、どうしてこんなにも暗くなるのだろうか。
酷く不安で、頼りなくて、寂しい。哀愁に心が折れそうで。どうしても、華波の事を、思い出してしまう。
「お姉ぇちゃーーーーん!」
そう、きっと、いつもこんな声を、笑顔とくれたから。
腰、いや背後全体に恐ろしい衝撃。そのまま足が地面から離れて、身体が浮き上がる。
「ぐっ!?」
落ち着け。理奈は自分に命じた。衝撃は、足が浮く程であったが、姿勢を大きく崩す程ではない。落ち着いて着地すれば、どうってことはないはずだ。
倒れ込みそうになる身体を、足を思いっきり前に出して姿勢を制御する。そのまま、地面を蹴るようにもう一歩。なんとか、つんのめりながらも、倒れる様な事はしなかった。
衝撃の正体はなんだと、背中の方を見ると、どこか、馴染み深い、いや、見慣れた人物がいた。
「……なに、してるのよ」
「ううっ、お姉ぇちゃんー……」
冷静に考えれば、華波以外の誰でもない事なんて、吹き飛ぶ程の衝撃を受けた瞬間に気付きそうだが、今の理奈はそれほど冷静な状態ではない。不安や、面白くない、という思いが、思考を邪魔している。華波はしっかりと腰に腕を回していて、この束縛は簡単には外れなさそうだ。
「……お姉ぇちゃん」
「なに」
理奈は、やはりどこか冷たい。だが、華波は今を恐れてはいけないと、パッと離れて、理奈と向き合う。
「これ」
言って華波は手提げ袋を理奈に突き出す。理奈は、それを受け取ると、しげしげと見る。
「……なに、これ」
「……バレンタイン」
華波は少し視線をそらしながら言う。そして、ギュッと目をつぶって、意を決する。
「バレンタインのチョコ! お姉ぇちゃんは、バレンタイン嫌いっていうけど、あたしは好きなの! 大好きな人に、好きって気持ちを伝える、このイベントが、好きで……。だから、あげようか、迷ったけど……。お姉ぇちゃんにも、このイベント、好きに、なって、欲しくて……」
後半はだんだんと意志が揺らぎ、小声になっていってしまった。だが、言いたい事は言えた。華波は、自己満足だなー、と自己嫌悪に陥りながら、理奈に背を向ける。
「それだけ。……それだけ、だから」
最近怒っている理由とか、バレンタインを嫌いになった理由とか、色々聞きたかったが、華波は今日は帰ろうと、帰路につく。
その時、ギュッと袖を掴まれる。振り返ると、理奈が華波の袖を掴んでいる。
「寒いし……上がってく?」
バツが悪そうに、理奈が尋ねる。華波は首を縦に振って返事をする。
そして、理奈の部屋。部屋に入ると、理奈は華波の手提げ袋の中、チョコレートの入った箱を取り出す。そして、それを開ける。
「うわっ、凄い、ね」
ナッツの乗ったチョコレートや、イチゴチョコといった、様々なチョコレートの詰め合わせ。おまけに、どれも手作りのようだ。市販の感じは、どのチョコからも感じなかった。理奈は、それを一度机の上におくと、華波の横に座り、華波の腕を抱く。華波の肩に顔を埋めて、何も言わない。
「……ごめん、ね」
しばらくしてから、理奈がそう小さく言う。機嫌が悪くなり、少し華波に当たり気味だった事に対する、反省。
「……ううん。私が、何かしたみたいだし」
「……した、というか、してくれなかったっていうか……」
「うん?」
してくれなかった? 華波は、首を傾げる。
「……三年前、華波が、私の教えたチョコを、彼氏にはあげて、私にはくれなかったから」
「え、あたし、三年前、お姉ぇちゃんに届けたよ。……うん、持ってた」
食い違いが、生じた。二人とも、首を傾げる。
「……え? 嘘。受け取ってない」
「持ってったよー! ちょっと夜遅くになっちゃったから、ポストに入れといたもんっ!」
「……ポスト? ……あ、まさか……。……華波、それ、名前も何も書かなかったでしょ」
「え、そんな事さすがに憶えてない」
理奈は呆れたといいながら、盛大にため息をつく。それはもうわざとらしいくらいに。
「あった。三年前、朝起きたらチョコの入った紙袋がポストに投函されてた。けど、名前も何も書いてないから、怪しいって言って捨てたの」
「ええっ!? 酷くない!?」
「酷くないわよ。名前も書いてないのよ? 何が混入してるか、解ったものじゃないわよ。じゃぁ、華波は差出人不明のチョコがポストに投函されてたら食べる?」
「うっ、食べない……かも」
「かもじゃなくて食べないでしょう。普通」
「え、じゃぁ、ちょっと待って? お姉ぇちゃんがその翌年からバレンタインなんて悪習って言ってたのって」
カァッ、と理奈の顔が真っ赤になる。
「あたしがチョコあげなかったからなのぉー?」
「……そ、そうよ! 悪い!?」
「あ、開き直った」
「うるさい。……だって、毎年くれてたのに、彼氏が出来てからはくれないなんて、くれないなんて……」
目元に、涙すら浮かべて、理奈はボソッと言う。
「……寂しい、じゃない……」
その時、華波のなかで、何かが壊れた。
果たして、何が壊れたのだろうか。いや、一つだけだ。
そう、壊れたのは、華波の、理性くらいだろう。
「お姉ぇちゃん! お姉ぇちゃん!! 可愛い! 可愛いよぉ!! なにそれ、なにそれ! めっちゃくちゃ今デレたね!? お姉ぇちゃん、ツンデレの才能あるよー!」
ガバッと抱きつく。抱きついた勢いそのまま、倒れ込む。華波は可愛い、可愛いといいながら、頭をワシャワシャと撫でたり、ほおずりをしたりと、繰り返し愛情を表現する。理奈は、自分の発言に対する羞恥から、なされるがままだ。いや、むしろ、今までツンケンとしていて、華波からのスキンシップがなかっただけに、これくらいされる方が、ちょうど良いとすら思えた。
「お姉ぇちゃん! 今日は一緒に寝よう!? 愛を確かめ合おう!?」
「いや、それは……」
「なんでなんで!? 大丈夫、もうあたし達17だから。18禁も怖くない!」
「ダメに決まってるでしょう!? 何言ってるのよ!? いい加減にしなさい!」
18禁という言葉に、顔を真っ赤にする。華波の暴走は、しばらく止まる事はなかった。
Happy St.Valentine's Day




