第二十三限ー理奈と櫻子前編
その日櫻子は朝の微睡みを堪能していた。喧しいアラームをゴミ箱に放り込み、幸福感に浸っていた。近頃はけーやら和乃やらで色恋沙汰もご無沙汰していて、一人での気楽な幸せを堪能していた。
日々の疲れから、朝起きるのもきつく感じるようになり、この布団の中での微睡みがかけがえのない幸福をもたらしていた。
櫻子は微睡みを邪魔する目覚ましを排除し達成感に浸る。微睡みの砦防衛成功、これより意識は本国睡眠に帰還する。
そんな脳内報告をしてからどれ程たっただろうか、喧しい音が再び鳴る。
「……うるさ~い~」
音源を探す。奇襲だ、曲者だ、であえであえー。
手に取ったのはスマートフォン。櫻子はディスプレイに映った文字を見る。『お姉ぇちゃん』と映ってる。櫻子はその画面をスライドさせて電話を取る。
「もしもーし、なーにー?お姉ぇちゃんー?お姉ぇちゃんからのモーニングコールなんて、あたしはなんて幸せ者なんだろーねー」
『櫻子。馬鹿言ってる暇があったら時間をよく見て』
言われてスマートフォンの上の時計を確認する。
「櫻子が、只今の時刻ー、9時30分をお伝えしまーす。そんな事聞くために電話したのー?」
『寝惚けてるようなら現実を見せてあげる。一限終わったよ』
「……。……はえ?」
スゥッと意識が明瞭になっていく。そうだ、今日は、木曜日だ。学校が、あるんだ。
「ぬぅぅぅあぁぁぁぁっっ!?」
『おはよう。後でね』
一方的に電話が切られる。だが、それどころではない。櫻子は慌てて飛び上がって身支度を整える。なんて事だ。月曜日にも遅刻したというのに。
そうだ。昨日はバイトが終わってから同僚達とご飯を食べた後に勉強の予習復習をしていたんだ。それで、寝付いたのが4時を回っていたんだ。
支度を済ませると、スニーカーを引っかけて駅まで走る。身体はまだ起き上がっていないが、無理矢理動かす。原付を追い抜いて走り、改札を潜ると、今正に電車のドアが閉まろうとしていた。
「ふぉぉぉぉおぉぉぉっっ!」
気合いと共にラストスパート。閉まりかけたドアに滑り込む。勢い余って反対側のドアに激突しながら止まる。
「ハァ、ハァ!」
荒い呼吸を整える。後は電車で一本で学校の駅につく。そこからダッシュすれば、三限には間に合うだろう。櫻子は滴る汗をタオルで拭う。
駅について、再び学校までダッシュする。
櫻子が学校につき、昇降口で上履きに履き替えていると、ちょうど二限終了のチャイムが鳴る。二限には間に合わなかったようだが、午前中の授業半分には出れるようだ。櫻子は、前向きにラッキーと喜ぶ。
「……おはよー」
それでも、やはり遅れて教室に入るのは忍びない。櫻子はこっそりと入る。すると、まただまただ、と男子が笑っている。
「遅刻かー?櫻子ー」
「たるんでねーかー?」
「うるさーい。余計なお世話ですー」
いーと歯を向く。
「男子の言う通りなんじゃないの?」
ぞわっ、と悪寒が走る。櫻子が声の方を見ると、窓際の席に座っている理奈が恐ろしい眼力で睨んでいた。背後から抱きついている華波が居なければ、きっと恐ろしい、けーばりの絵面になっていただろう。
いや、むしろけーから睨み方でも教わったのだろうか。
「アハハハ!櫻子、遅刻だー!不良?中弛み?」
華波がさも可笑しそうに言う。寝坊常習犯が何を言うか、と睨もうとするが、理奈の顔と近すぎて、怖くて睨めなかった。
「お願いします、そんなに怖い顔をなさらないで下さい」
「たるんでない?仮にも成績上位者なのに」
仮にも、という言葉が酷く胸にささる。そういえば、月曜にも遅刻したその時も、予習をしていて遅刻したと理奈に言った気がする。
「予習復習、確かに大事だよ。学力を向上させるためにはね。けど、身や睡眠時間を削りながらしたところで吸収効率は低下するし、何より学校に遅刻して来たら全く意味がない。本末転倒だよ。バイトが忙しいのは解るけど、自己管理が出来ないなら少し減らした方が良いんじゃない?」
「……ごもっともでございます」
「もー、お姉ぇちゃんー。あんまりお説教したら櫻子可哀想だよー?」
華波が理奈から離れて二人の間に立つ。理奈は気にとめた様子もなく、
「櫻子の遅刻、駆け込みは最近目に余るから少しお灸を据えないとダメでしょ?」
「そうは言うけど、櫻子結構早くに来たじゃん?あたし三限終わってから来ると思ったもん。服装も少し乱れてるし、走って来たんでしょ、櫻子?」
「う、うん」
「ほらね?反省してなかったら走っては来ないよ。あたしなら遅刻したくらいじゃ走らないし。反省してるんだから、あんまり言っちゃダメだよ?」
「……」
華波に諭され、理奈が少しバツの悪そうな顔をする。華波は少し視線を反らした理奈を見るや否や、その背後に回る。
「落ち込んでたり怒って怖い顔してるお姉ぇちゃんはあたし嫌いだなー」
そう言って抱き付く。そして理奈の頬に頬ずりを始めた。
「ちょ、華波ー」
「怒ってもいつも通りの顔に戻るのは、この柔らかいほっぺたのお陰かなー?柔らかーいっ」
つついたり、引っ張ってみたり。華波は理奈の頬を堪能し続ける。ふと思い出したように顔を櫻子の方に向ける。
「あ、櫻子ー?」
華波から解放されようと動く理奈を片手で制しながら、華波が櫻子に再び視線を向ける。櫻子は、遅刻に対する反省と、華波のフォローで、なんとも浮かない顔をしていた。
「なに?」
「問題です。お姉ぇちゃんのほっぺたは他の人より柔らかいです。ですが、他にも人より柔らかくて気持ちいー場所があります。さて、どこでしょう?」
「え?……どこか」
「正解はー」
櫻子の回答なんてまるで聞いてない華波は、頬から手を離し、正解の場所に移動させる。
「ちょ、華波!?」
どこに触れるのか、察しのついた理奈が顔を真っ赤にして先程よりも強く暴れるが、華波の拘束はそれを上回る。護身術は学んでいたのに、華波はそれをものともしていないようだった。そして、
「こっこでーす!」
「「「ぶっ!?」」」
華波が触れた場所は、あまりにも常識外れで、思わず吹き出したのは櫻子だけではなかっただろう。いやでも視線が行くその光景、特に男子の目は完全に釘つけだった。
「やっぱり柔らかいなー。んーんー?前より大きくなってない?Dくらい?けしからんけしからん」
「ちょっ!や!華波!いい加減にしなさい!」
真っ昼間から、華波は理奈の胸を揉みまくっていた。理奈の顔はもう熟れたトマトよりも尚赤い。がっしりと左手と身体で理奈を押さえつけて、右手で揉んでいた。
理奈から黄色い声が上がり始めた頃、三限開始のチャイムがなり、そこで入ってきた教師が制止をかけるまで、華波は執拗なまでに揉み続けた。
「……櫻子の、せいだからね」
解放された理奈の恨めしそうな言葉に、何て事をしてくれたんだ、と櫻子は頭を押さえる。
だが、そのお陰でか、沈んだ気分も大分上がっていた。櫻子のせい、とは言ってたものの、理奈からそれ以上何かを言われる事もなく、普段通りの日常に戻った気がした。
「うー」
次の休み時間、理奈は背中を壁に完全に預け、唸るように華波を睨んでいた。
「どう?あたしのテクは?やるでしょ?あのお姉ぇちゃんの喘ぎこ」
「華波っ!」
櫻子に自信満々に言う華波に叱責を飛ばすが、どこ吹く風だ。
「あたしはねー、今猛烈に幸せなのだっ。和乃
の恋が叶ったからね。だからあたしもフィアンセのお姉ぇちゃんとラブラブしたいなー、って思ったわけ。和乃には負けないよー」
「負けて良いからっ!本当、人前でなんて事するのよ、華波は……」
先程の事を思い出して、再び顔を赤く染める。染めた顔を手で隠す。
「最近やけに剥がしにくいし、やたらと過激なスキンシップとってくるし、なんなのよ、華波は本当に」
目に涙を溜めながら、プルプルと震えている。確かにお姉ぇちゃんの性格的にアレはキツイだろうなー。櫻子は苦笑いを浮かべる。
「笑ってるけど、櫻子のせいなんだからね」
キッと睨まれる。涙を貯めた目で睨まれると、酷い罪悪感に襲われる。櫻子は視線を外して乾いた笑いをする。櫻子のせい、と言いつつも、やはり揉んだ張本人、華波をすぐに睨む。華波はまったく、微塵も気にせずにケタケタと笑いながら理奈に近寄る。
「もう、もう!」
ポクポク、と可愛らしい音を立てながら理奈が近付いて来た華波の事を殴る。痛くないそのスキンシップと変わらない攻撃を受けて、華波は笑う。
「その絵、本当にカップルだわ」
櫻子は、ダメだけど憎めない彼氏と、それに振り回され続ける真面目な彼女の絵面を二人にトレースする。
「そういえば、和乃付き合ったんだよね」
「そうだよー」
「夏樹さんと。夏樹さんはしっかりしてるし、心配するような事は起こらないでしょう」
「んー」
櫻子は自分を迎えに来てた新鋭隊長という役職の暴走族を思い出す。どうも尖り過ぎていて、そういう感情を抱く事はなかった。店の中で騒いでる客を表に連れ出したりと、かなりアグレッシブであった。そして、初恋はなんだか酷い別れ方したな、と縁起でもない事を思い出す。
「あたしは最近てんでないな、そういうの」
「んー、あの時の彼以来?」
「そう。理奈に解決してもらったあれ以来。あれからどうも、踏み出せなくてね」
「……」
悪い事をした訳ではないのだが、若干の後ろめたさを感じて黙って一瞬視線を反らす。
「お姉ぇちゃんーっ」
それに感付いた華波が理奈に抱き付く。理奈はサッと胸を両手でガードする。先程の事をまだ警戒しているようだった。
「お姉ぇちゃんはいつまでもあたしとラブラブしよーねーっ」
そして再び頬ずりをする。華波の励ましに気付き、少し気恥ずかしさを覚える。至って何気ない、気付かれないような仕草だったのに、なんで気付いてしまうのだろう、理奈はそのまま身を預けようかとも思ったが、またあの二人は、という呆れたような声が聞こえて我に返る。
「だから、人前では止めなさいって言ってるでしょ!?」
「解ったー」
華波が思いの他あっさりと身を離す。あれ?と理奈は若干の寂しさを覚える。
寂しいなんて思ってどうするのよ、私。確かに寂しいけど、どちらかと言うと、子供の成長を感じた親のような気分な訳であって。
ガシッ、理奈が自分の感情に慌てていると、華波が理奈の手首を掴んだ。顔をあげると、華波はニカッと天真爛漫な笑顔を浮かべる。
「……華波?」
嫌な、予感を覚えた。言うならば、問題を解決したのにも関わらず、新たな問題に気付いてしまう、そんな瞬間によく似た予感。
「なーら人気のないとこで二人の愛を育もう、お姉ぇちゃん!」
「……」
寂しいなんて、極めて気のせいに違いない。一瞬でも成長したなんて思った自分が馬鹿だった。華波が、成長する訳がないのだ。
「いい加減にしなさい」
掴まれた手首捻って華波の手を外す。あら、と間の抜けた顔をしている華波のおでこにペチッ、と平手をあてる。
「本当に華波はいい加減にしなさい。でないと、私だって怒るわよ?」
「う、ごめんね?お姉ぇちゃん」
「良いよ」
「二人は彼氏要らずだよね、本当に」
二人の仲の良さは簡単な事では壊れないだろう。櫻子は今までしてきた短い恋を思い返す。一時期的な深い仲とは、二人は違う。
「……いいなー」
「なになに?櫻子寂しいの?」
華波が今度は櫻子に抱き付く。理奈がため息を露骨についている。呆れ果てた顔で白い目を向けられるが、色々とあって人肌が恋しくなった櫻子はその視線を無視する。
「寂しいんだよ、華波ー」
ヒシッと華波に抱き付き返す。そーかそーか、と華波が櫻子の頭を撫でてやる。
「大丈夫。櫻子はあたしの第二の妻だから寂しい思いはさせないよ」
「重婚!?」
「お姉ぇちゃんは渡さないけどねっ☆」
身体を一度離してビシッ、と親指を立てる。櫻子はそんな華波を抱き締めて、
「あたしに鞍替えしよーよー、華波ー。寂しいんだよ、最近」
「……それは胸の事?骨があたって痛いんだけど、櫻子」
「お姉ぇちゃんー!華波が!華波がぁーっ!」
華波にコンプレックスを突かれた櫻子は理奈に泣き付く。理奈は先程よりもさらに白い目を向けて一言。
「五月蝿い」
泣き付く櫻子を一言で撃沈させる。華波がポンポンと肩を叩いて励ますが、モデル並みのスタイルの華波にやられても、傷口を抉るだけだった。
「うぅぅぅぅっ!そのやたらとデカイ胸を分けろ!」
櫻子が華波を指差しながら言うが、華波はポーズをとりながら、
「あたしのプロポーションは、お姉ぇちゃんを楽しませるためにあるのだっ!譲れないかなー」
「別に楽しんでないから。楽しむ余地ないでしょう、私」
「そんな事言って~♪昨日だってあたしの胸に顔埋めてたじゃん」
「華波が私を埋没させただけでしょ!勘違いされるから止めなさい、本当に!」
本日何度目かの顔面爆発現象発生。そこで授業のチャイムが鳴る。華波と櫻子を席に座らせて、理奈はため息をつく。今日はいつもに増して華波の勢いが凄い。なんなんだろう、何かあったのだろうか。少し不安を覚える。
華波の近況を振り返るが、今は父親と二人暮らし。親子二人で仲良くしているという話は聞いて間もない。父親とも理奈は何度かここ数日にも会ったが、おかしな面はなかった。
ゾワッ、と背中に悪寒。
「ッッ!?」
声は辛うじて出なかった。だが、授業中というのに、今の不意討ちはあまりだろう。理奈は後ろにいる犯人、櫻子を睨む。櫻子の手は、理奈の背中に指を沿わせたところで止まっている。
「なに」
「なんとなく」
「授業中なんだから、止めなさい」
「……はーい」
櫻子は少し落ち込んだようにノートを取り始める。それを確認してから、理奈は前を向く。
櫻子も挙動不審だし、何かあったのだろうか。櫻子の場合、本当に厄介事な気がして仕方がない。
理奈は嘆息する。疲れる一日になりそうだ。
今回は馬鹿っぷり全開の日常系ですね
多分四話構成くらいになりそうです
次の話も随時アップ出来るよう努めます




