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第八限ー理奈とざわめき

朝、喧騒で起きた。仲の良い両親の、叫び声が聞こえる。何だろう、と寝返りをうつと、うるせぇ!と孝之がうるさく階段を下りて行き、その喧騒に加わる。

おお、なんてロックな朝だろう。なんて嫌な三重奏だろう。自分が加わる事はないので、せめて二重奏か独奏にはなってくれないだろうか。

金切音のような叫び声が、本当に喧しく、ついに理奈は布団から引っ張り出される事になった。

「朝から何なの!」

「ね、姉ぇちゃん!危ない!」

孝之の、悲痛な叫び。危ないとは、どういう事だろう。

そして、気付いた。目の前に、足の直ぐ先に、奴がいた。

きっと、誰しもが嫌悪感を抱かずにはいられないだろう。黒く、ギトギトしてる、台所裏の大魔王等とも呼ばれる、奴。

理奈の口から叫び声が出て、四重奏になる。

と思いきや。

理奈は近くにあった古新聞を掴むと、それで奴を掴む。家族三人のギョッとした気配を目で制すると、それを持ったまま玄関に向かう。戸をあけると、奴を外に逃がす。

「うちには来ないでね。色々面倒臭いから」

新聞をゴミ箱に捨て、手と顔を洗う。台所にいくと、家族三人が、座り込んでいた。

「理奈ちゃん~、ありがとう~」

母が言ちゃんうと、理奈は男二人に目を向ける。二人はバツが悪そうだ。

「……孝之が早くなんとかしてくれればよかったのに」

「は!?親父だっていい年して情けねぇ真似しやがって!」

「二人とも、うるさい」

デュエットにピリオドをうつ。二人はボソボソと、ピアニシモで言い合っている。

「アレくらいなんとかしてよ。大した事ないでしょう」

「……いや、姉ぇちゃん、手で掴むって、かなり難易度高いから」

「直接触った訳でもないし、毒があるわけでもないでしょう。少し気持ち悪くて汚いだけ。それとも孝之は犬を飼って散歩の最中、飼い犬がフンをしても片付けないで帰る訳なの?」

こちとら小さい頃、華波につれ回され男子と山の中で遊んで育ったのだ。虫なんて大した事ない。

孝之はそれとこれはさー、とかなんとか言っているが、理奈はそれを黙殺する。

朝食を済ませ、身支度を整える。

少し伸びてきた髪を後頭部の上の方で、シュシュで結わく。そのシュシュはこの間華波の誕生日にシュシュをプレゼントしたところ、お揃いー!と言って買ってきてくれたものだ。ただし、理奈が華波にあげたのは桜柄、華波が理奈にあげたのは蓮柄だった。

あの子は、桜と蓮の見分けがつかないのだろうか。理奈は一抹の不安を覚える。いや、そこまで馬鹿じゃない。馬鹿じゃない……ハズだ。

「まったく、心配ばっかりさせるんだから」

理奈の心配事は絶える事はなさそうだ。

コーヒー豆を保冷バックに入れ、それを通学バックにいれる。コーヒー豆は熱に弱い。暑くなってるこの時期に持ち歩くならば、冷蔵した方が良いだろう。

ローファーをはいて、家を出る。基本的に起きる、身支度、出るのが遅い孝之とは、家を出る時間がかなり異なる。孝之はいつも遅刻ギリギリだ。それでも遅刻していないだけ、まだ良いが、早いうちにあの習慣はなんとかした方が良いだろう。

駅につくと、目立つ、見慣れた姿を見つける。華波だ。今日は大分早いようだ。

「かな」

声をかけようとして、息を呑む。華波は、凄い顔をしていた。

死んでるかのような顔だ。青ざめ、白くなっている。それに少し俯き歩き、影がさしているのだから、その印象はより一層強くなる。

華波が顔をあげる。

「あ」

一瞬、砂漠で遭難した人が、オアシスを見つけたかのような顔をする。そして、次の瞬間にはいつもの、天真爛漫な、底抜けの明るさを宿した笑顔になる。

「お姉ぇちゃーん!!」

いや、底が見える気がした。明るさの下に、悲しみを抱えているのが伺える。何がそこまで、彼女を追い詰めているのだろうか。不安を覚えずにはいられない。

きゃっきゃっきゃっ!華波は元気に語り倒す。理奈が相槌をうち間がない程に。

「でねー」

「うんうん」

「なのー!」

発散と隠し事を纏めてやっているような印象だ。

学校についてもその勢いは止まらない。

「おっはよー!」

櫻子の加勢でその勢いは水を得た魚だ。最近家庭科室に出入りするようになった和乃も、そのエネルギッシュな雰囲気にぎょっとする。

「そういえば、今朝の事なんだけど」

理奈が、朝の出来事を語ると、櫻子と和乃の顔がひきつる。だがそこには理奈は気に止めずに、

「情けなくない?男が二人も。ひどい目覚めになったよ」

「……いや、多分普通のリアクションだよ、お姉ぇちゃん」

「……ちょっと、難易度高いね、理奈」

ん?これじゃ私がおかしいの?理奈は自分の立場が4対1になったのを感じて、藁をも掴む思いで唯一の救いを求める。

「華波は」

どう思う?理奈は向き直って発そうとした言葉を、思わず飲み込む。

酷く、沈んだ顔をしている。華波が嫌悪感を抱くような話題ではないし、どちらかというと、上の空のような。

「ほら、華波だってリアクション出来てないじゃん」

櫻子がおかしそうに笑う。

「さすがに無理でしょ、それは」

二人は苦笑いしているが、理奈としてはそれどころではない。明らかに状態がおかしい。

「かな」

「森下さんー!!」

タイミング悪く、また相談事だ。

「い、今は勘弁して下さい!!」

理奈は聞く耳を持とうとしないが、断るのはいつもの事、というのは周知の事実。尚且つ、頼み続ければ聞いてくれるというのも周知の事実で、人とは身勝手なもので、自分が窮地にいると、人の都合なんて気にも止めないものである。

「あ、授業」

誰かの一言で気付く。もう始業まで時間がない。慌てて理奈は物を片付ける。櫻子と和乃は先に教室に向かい、奇しくも華波と理奈が残される。

「華波、悩み事なら私が相談にのるよ」

「え?」

「最近、様子がおかしいから」

理奈の言葉は、少し華波の殻をあけたようで、華波の顔が沈む。隠していたものが、少し顔を見せた気分だ。

「お姉ぇちゃん」

華波が泣きそうな顔で抱きついてくる。理奈はその頭をよしよし、と撫でる。

「少し、甘えてもいい?」

「良いよ。だけど、今は取り敢えず授業に行こ?」

「うん」

幾つかの検討はついている。後は、それを華波から聞くだけだろう。

独りでいるのが怖い、と言わんばかりに華波は理奈の手を繋いで離そうとしなかった。

どんな理由であれ、華波をこんなに追い込んだ事を許さない。理奈は密かに強い決心を固める。

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