第96話 早馬
王国歴224年5月26日(前話同日)
ピオニル領はこの日の朝まで平和だった。
ユーキは邸の二階にある執務室に隣り合った大きめの部屋にフェリックスやベアトリクス、クーツといった主だった家臣を集めて、領政の状況を確認していた。
王都から帰って来たケンもいる。
商業の助言を依頼しているノーラや、近衛の駐屯中隊のゲラルド・ショルツ中隊長、衛兵隊のハウトマン衛兵長にも参加してもらっている。
もちろんクルティスはユーキの後ろに控えて、退屈そうに目を瞑っている。
流石にみんながいる場所では、筋肉を鍛えるのは控えている様だ。
フェリックスが出席者に各自の分担の状況報告を促し、ユーキはそれに聞き入り、時に質問する。
その答えに他の者が補足したり質問を重ねたりもし、時に解決すべき課題がある場合は議論が交わされるが、どうやら全般的に状況は順調らしい。
フェリックスの話では、輪作の準備のための畑の測量は順調に進んでいるとのことだ。
最初は農民の理解がなかなか得られなかったが、粘り強く説明を重ねているうちに農民のためになることをしようとしているらしいという噂が広まり、その後は楽になったという。
噂の最初の出どころは、ユーキとフェリックスが最初に視察に行ったエイノーデ村らしいと、フェリックスは悔しそうな笑顔で報告していた。
既に輪作に取り掛かっている所もあり、また全体で見れば作柄にも大きな問題はないとのことだ。
このところフェリックスは領内の見回りを増やしている。
そういう時にはユーキが邸で留守番をすることになるが、フェリックスに『殿下の御手法を自分でも実践したいのでお許しください』と笑顔で言われるので仕方が無い。
ベア姉さんからは領都や町での商業の状況が報告された。
それによると、商人の往来は悪代官が関税を上げる前よりもさらに増え、景気は上を向いている。
税収も上がり、ミスリル鋼をグリンダ商会に売却した利益も合わせれば、種々の施策に用いた費用を回収してさらに余裕ができそうだ。
ネルント開拓村の方では、広大な草原を利用した馬の放牧が始まった。
肌馬の種付けも終わり、来年には仔馬が生まれ始める。
ノーラさんの見たところでは、飼料用の蕪や牧草も栽培は始まっているが、今年は種を増やす段階で、実際の利用は来年以降になるそうだ。
香草も状況は同じだが、思った以上に生育しているらしい。
夏も朝夕は温度が下がるから、夏枯れも大規模には広がらないと期待している。
もともと領都近辺でも雑草として生えるぐらいの繁殖力があるのだから、条件が合えば一気に増えるだろうとのことだ。
飼料の増産や香草栽培で畑を拡げる必要があるが、ハウトマン衛兵長の話では北部から流れ込んできた流民に農業の希望者が多く、新たな入植者として村が受け入れてくれた。
人も増え、来年からは現金収入が見込めることもあり、村は活気付いている。
近衛のショルツ中隊長は、ネルント開拓村の広大な草原は騎兵の演習に最適で、隊の練度を上げ放題だと笑っていた。
その思わぬ余禄として村の畑を荒らす害獣が近寄って来なくなり、被害が減ったと村人に感謝されたと言ってまた愉快そうに笑った。
治安も、北部からの流民がちらほらと続き、ごくたまに盗賊が迷い込むことを除けば、安定している。
ユーキが治安を強化していることは他領にも伝わっているようで、関所の役人からは、来領する行商人に『この領に着けば一安心です』と嬉しい評判をもらっているとの報告が上がって来ている。
クリーゲブルグ辺境伯閣下からの情報では、フルローズ国からの不法侵入もしばらく前からピタリと止まったままだそうだ。
ユーキにとって少し心配なのはケンで、時々ぼーっと何かを考え込んでいる。
ただ務めは疎かにしておらず、衛兵長や傭兵ギルドとの連携も上手く行っている様だ。
衛兵長はケンと立場の上下が逆転したことになるが、それほど気にはしていないようだ。
多分、ケンの勲爵士としての位も物を言っているのだろう。
その点は陛下の御配慮の賜物で、非常に有難い。
傭兵ギルドとは当初は多少ギクシャクしたが、マーシーさんがギルド長ブッセンと古株の傭兵のハーリングに手紙を書いてくれていたらしく、ケンが王都から帰って来てからは普通に付き合えるようになっているようだ。
ハウトマン衛兵長がブッセン傭兵ギルド長と時々酒場で酒を酌み交わして親睦を図っているという噂もユーキの耳には入っている。
ケンが時々一人で黙って考えに沈み込んでいるその思いと理由は大体想像がつくが、ユーキとしては声を掛けづらいので暫くは様子を見ることにしている。
全員の報告が一通り済み、ユーキが所感を述べた。
「どうやら領の状況は概ね順調に推移していると、国王陛下に良い報告ができそうだね」
その嬉しそうな声に、皆の顔が綻んだ。
「では、殿下、王都に行かれて陛下に直接御報告されてはいかがですか? 他にも御用はたっぷりとおありになるでしょうし」
そうフェリックスが進言して一同がユーキを見てニヨニヨと口を曲げた時だった。
突然、クルティスが物も言わずに窓に寄った。
何事かと皆がそちらを見ると、やがて馬が疾走する蹄鉄の音が開いていた窓から聞こえて来た。
その蹄音はどんどん大きくなり、邸の庭に入って来て止まった。
クルティスが見守るうちに、二頭の馬から乗っていた男達が跳び下りて、警護の衛兵に手綱を預けるのももどかしそうに邸に向かって走って来て、出迎えた執事に何事かを早口に告げると共に邸の玄関に向かい視界から外れた。
その男達の顔に見覚えがあったクルティスはユーキを振り返って告げた。
「殿下、マレーネ様からの御使いの早馬の様です」
「わかった。皆はここで待っていてくれ。クルティス、行くぞ」
「はい」
ユーキがクルティスを引き連れて廊下に出ると、階段の方から従僕が一人、急ぎ足でこちらへ来たのでユーキ達もそちらへ向かった。
従僕は立ち止まって姿勢を正すのももどかしそうに早口で報告した。
「殿下、母君様からの御使者です。応接室に案内いたしました」
「わかった。今から行く」
ユーキ達が急いで一階の応接室に入ると、使者達は椅子に腰掛けてまだ肩で荒い息を吐き、グラスにアンジェラが注いだ水を飲もうとしているところだった。
使者達はユーキの姿を見ると、慌てて立ち上がろうとする。
「そのまま。構わないからゆっくり水を飲んで息を落ち着けて」
ユーキは声を掛けて制止し、向かい側に座って彼等の呼吸が整うのを待った。
使者たちは急いで何杯かの水を立て続けに飲み干すと、大きな息を吐いてユーキに向き直った。
ユーキはその様子を見て逸る気持ちを抑え、努めて冷静に声を掛ける。
「では聞こうか。母上からの使いだと聞いたけど、何があった? まさかマルガレータ殿下か父上に何か?」
「いいえ、事は国王陛下と王妃殿下です。突然お倒れになられました」
「何だって!」
ユーキは驚いて無意識に立ち上がり、つい大声を出した。
その剣幕に使者達がびくっとして身を引く。
「オホン」
そこに、アンジェラが咳払いをした。
「殿下、殿下にもお水をお持ちいたしましょうか?」
そう言われて、ユーキは自分が立ち上がっていたことに気がついた。
「アンジェラ、有難う。でも水はいらない。君達、驚かせて済まない」
そう言うとユーキは座り直し、視線を落として深呼吸を繰り返してから顔を上げ、使者達に尋ねた。
「で、お二人の御容態は? それから倒れられた原因は?」
「御容態は篤いとのことです。御意識も失われたままとか。侍従長から伝えられたことによると、原因も不明で御夕餐を取られていた席で倒れておられるのが見つかり、給仕をしていた筈の侍女一名が行方不明とのことです。不祥事の可能性が高く、そのためまずは城下におられる王族のみに内密に第一報が送られました」
「だとすると、近在の貴族達はまだこのことを知らないんだね?」
「はい、道中の諸領で馬を借りる際に何事かと尋ねられましたが、一切洩らしておりません。マレーネ殿下の御伝言ですが、『警備を厳重にして第二報を待て』と。慌てて上都なさらないようにとも」
「わかった」
ユーキはどうするべきか考えた。
事は重大である。
国王陛下が御不予であることが国民に伝わったら、国全体の動揺を招きかねない。
だが、不祥事、すなわち暗殺事件であるならば、どのみち国は大きく揺れ動くだろう。
そうであるならば、この領も王族である自分が領主を務めているだけに大きな影響を受けることは免れない。
それならば早くに備えを始める必要がある。何をどうすればいいのだろうか。
ユーキが考えを巡らしていると、眼にチラチラと光が入った。
顔を上げると、壁際に立っているアンジェラが手に持った愛用の銀盆をユラユラと動かして窓からの光を反射させこちらの気を引こうとしている。
ユーキが気付いたと見るや、アンジェラは親指を立てて二階の方をクイクイと指差した。
それがアンジェラの意見か。
確かに全員が信頼できるし、対策を立てるにも知恵を集めた方が良いだろう。
ユーキは決心して使者達とアンジェラに言った。
「君達、今の話を私の主だった家臣にもして欲しい。アンジェラ、ヘレナを呼んで一緒に僕の部屋に来てくれ」
ー----------------------------ー---
ユーキの執務室に集まった家臣達は、使者の話を聞くと一様に顔を蒼ざめさせて沈黙した。
ユーキは全員の顔を見廻してから言った。
「みんな、良くわかっているとは思うけれど、これは家の他の者達にも秘密だからそのつもりで」
全員が一斉に頷く。
「その上で、何をするべきか意見を聞きたい」
全員が当惑して互いの顔を見合わせる。
長く仁政を行い平和を保たれた陛下と妃殿下は、御健在なのが皆の心の中で当たり前のこととなっており、不祥事の可能性という事態を受け入れ切れていないのだろう。
最初に口を開いたのは、意外にもノーラだった。
「使者様にお伺いしたいのですが、御出発の前の王都の状況はいかがでしたか? 何か普段と異なることや妙な噂話はありませんでしたか?」
「気が急いていたので王都の状況には気は回りませんでしたが、普段とさほど変わりは無かった様に思います。少なくとも、国王陛下の御事態に気付いている風では無かったですね」
「他には? 例えば行商人同士の噂話では、最近王都の安宿が混みあって、なかなか宿が取りにくいそうです。その様な話はありませんでしたか?」
「そうですね。関係があるかどうかはわかりませんが、居酒屋が混んでいるという話はありましたね」
「ノーラさん、それはどう言う意味があるのですか?」
ベアトリクスが意図を尋ねると、ノーラは薄い微笑みを浮かべて応えた。
「宿の噂話を聞いた時は何も考えなかったのですが。もし陛下がお倒れになったのが不祥事だとすると、それを企んだ者は何がしたいのでしょうか」
その問いには、フェリックスが首を捻りながら答えた。
「例えば国を混乱させたいとか、自分が陛下の代わりに権力を握りたいとかだろうな」
「一つずつ考えてみましょう。例えば、他国が我が国に侵略したくて陛下を取り除き、混乱の内に侵攻しようとしている可能性はあるでしょうか」
「否定はできないが、可能性は高くないだろうな。フルローズ国にはクレベール王子が行かれて、不法侵入も止まっている。北側の諸国とは友好関係が続いていて、それを崩して争乱を起こす必要性が感じられない。軍備拡張の噂も聞かない」
「でしょうね。では、国内の誰かが混乱や権力の掌握を望んだのならどうでしょうか」
「他の王族や不平貴族か。もし国の体制を転覆させようとしているなら。……ああ、ノーラさん、あらかじめ王都に手勢を入れておくだろう、ということだな。そうすると王都に住居を持たない者が増えるので宿や居酒屋が混む、その表れかもしれないということだな」
「はい、そうです、補佐様。もちろん、憶測に過ぎません。ですがそういう小さな事象を積み上げていけば、何かが見えてくるかもしれない、ということです」
「なるほど。みんな、気がついたことがあったら、何でも言って欲しい」
ユーキが促したが、この場にいる者の殆どは最近王都には行っていない者ばかりだ。
難しい顔をして頭を捻っていると、もう一人の使者が恐る恐る口を出した。
「あの……。スタイリス殿下の事は伝わっておりますでしょうか」
「スタイリス殿下に何かあったのか?」
フェリックスが訝しげに尋ねると使者は慎重に言葉を選びながら言った。
「陛下が倒れられる前日のことなのですが、陛下がスタイリス殿下を謁見室にお呼びになられて、アンデーレ伯爵令嬢との御婚姻と爵位の御継承、そして外務の役職への御任官をお命じになられました」
「伯爵位を、ですかな? ということはつまり……」
クーツが驚いて先を促すと、使者は恐る恐る続けた。
「はい、臣籍降下です」
それを聞いて、ケンと衛兵長以外の全員が凍り付いた。
王族貴族の世界を良く知る者達が考えたことは皆同じである。
スタイリス王子が玉座の次の主は自分だと思っていたことは、貴族であるならば誰でもが知っている。
その機会を失って暴発したのではないか。
だが、王族が国王を弑そうとしたなどとは、そう簡単には口には出せない。
ショルツ近衛中隊長が慎重に口を開いた。
「失礼ながら、スタイリス殿下は強い権力欲はお持ちだが、御自分で策謀を考え計略を巡らされるような御方ではないように思う」
その意見に、フェリックス、ベアトリクスやクーツが頷く。
壁際にアンジェラと共に控えていたヘレナ侍女頭が静かな声で言った。
「王族諸家にお仕えする侍女の間での噂話からすると、王族の中で緻密な謀を巡らされる能力をお持ちなのはクレベール殿下だけだと思いますが、殿下は既にこの国におられません」
「そうね、ヘレナさん。だからスタイリス殿下の件は切っ掛けになった可能性はあるけれど、お二人の殿下が直接関係しているとは考えにくいですわよね」
ベアトリクスが応じると、フェリックスが呟いた。
「そうすると、やはり貴族の内の誰かということになるか……」
その呟き声が消えると、今まで黙っていたハウトマン衛兵長が口を開いた。
「皆様、しばらく前から北部からの流民が増えているのは関係はありますでしょうか?」
「シェルケン領やグラウスマン領で増税が行われて食い詰める領民が多い件だね」
ユーキがそう言って周りを見ると、ケンが俯いて何事かを呟いている。
「ケン、何か考えていることがあったら言ってくれるかな?」
「はい、いくつか思い出した事があります。一つは近衛の仲間と居酒屋で食事をしていた時の噂話に過ぎないのですが」
「構わないから話して」
「ミンストレル宰相が、最近他の派閥から孤立しているということを聞きました。それから、シェルケン侯爵が盛んに他の派閥に近づこうとしているとも」
「そう。それから他にも?」
「クノスプ丘陵という場所で盗賊の討伐を行ったのですが、捕えられた賊がシェルケン領の出身者で、税を納め切れずに兵に取られて、あげくに集団で逃げ出して賊に身を落としたと言っておりました。似たような連中がたくさんいた、とも」
「スタイリス殿下か、シェルケン侯爵か、か……」
ケンの話を聞き、ユーキが誰にともなく言った言葉を聞いて、ノーラが「ふぅ」と大きな溜息を吐いた。
ユーキが水を向けた。
「ノーラさん、どう思う? 今の状態で僕達がするべきことは何かな?」
「殿下、先程も言ったように、今ここで上がったのは全て傍証に過ぎません。ですから、もう少し事態が明らかになるまで待つ必要があると思います。ですが、万一の他国からの侵攻に備えていただくべく、クリーゲブルグ辺境伯閣下には早く内密に知らせた方が良いと思います。またこれも万一ですが、御母君からの御伝言にもあったように、殿下に対する刺客に備えて警備を強化した方が良いのでは」
「……そうだね。クーツ、辺境伯閣下への使者に立ってくれ。警備の方は、衛兵長だね」
「承知しました」「確と」
「我が中隊も一度全員を領都に戻します」
クーツと衛兵長がユーキに答え、中隊長も応じた。
ユーキはそれに頷いておいて、またノーラを見た。
「ノーラさん、他には?」
「情報の伝達手段を確保するために、乗馬が得意な信頼できる人と馬をできるだけ多くこの近くに集めておくべきかと」
「それも中隊長と衛兵長かな?」
「はい、殿下」「承知しました」
「殿下、傭兵ギルドにも人材はあると思います」
ケンが進言し、ユーキは頷いた。
「そうだね。そちらはケンにお願いする」
「はい、ギルド長にだけ内密に事態を伝えて、良い傭兵を押さえておいてもらえるように依頼します」
「うん、頼んだ」
ユーキは最後にもう一度ノーラに尋ねた。
「何だかノーラさんに頼りきりだけど。これから先、どうなると思う?」
「そうですね。……恐らく、数日中には王都での争乱の知らせが来ると思います。その内容で事態は見えて来るでしょう」
ノーラはしばらく考えた後に推測を述べ、そして最後にぽつりと付け加えた。
「人がたくさん亡くなることになるでしょう」




