第89話 逐電
承前
国王と王妃に毒酒を浴びせた侍女シュレヒは、その部屋を去った後に廊下を早足に歩いていた。
目立ってはならないとゆっくり歩もうとするが、ついつい気が急いて足を前へ前へと進ませる。
それでも何とか走ることはせずに、スタイリス王子の控室についた。
ノックもせずにそっと部屋に入り、スタイリス王子の姿を見つけるなり駆け寄ると、歓喜の声を上げた。
「殿下、私、やりました! 陛下も妃殿下も、侯爵様のおっしゃったように倒れられたことを確かめました!」
スタイリス王子は驚愕の余り、座っていた椅子から飛び上がった。
「なっ! な、何を言ってるんだ」
「侯爵様のお言いつけ通り、薬入りの葡萄酒を浴びせたのです! 妃殿下に怪しまれ、毒見をせよと迫られましたが、グラスの薬酒を掛けたら、力なく崩れ落ちられました! これでもう、殿下が王族籍を去る必要はありません!」
それを聞いてスタイリスは激怒で顔を真っ赤に染めて立ち上がると、シュレヒの襟元を両手できつく持ち、がくがくと首を揺さぶった。
「お、お前、何と言うことをしてくれた! それは弑逆じゃないか! 俺はそんなこと聞いていないぞ! 説得すると言っていたではないか! まさか陛下と妃殿下に……露見したら、俺までが死罪になる」
その挙句に、「いや、俺は知らん、俺は関係無いぞ!」と叫ぶなり、シュレヒを思いきり床に突き倒した。
シュレヒは床で頭を打ち、気を失った。
スタイリスはそれを打ち捨て、頭を掻きむしりながら室内を歩き回る。
代わりに従者が走り寄り、シュレヒの容態を確かめた。
呼吸や脈拍にはこれといって異常はなく、どうやら気を失っているだけのようだ。
従者がシュレヒを抱き上げて長椅子に寝かせる間に、一方でスタイリスはそれを気に掛けず、ぶつぶつと考えを口から洩らしている。
「どうすればいい、糞っ、クレベールかイザークがここにおれば……。このまま行くと、臣籍降下を嫌ったと俺が疑われるのは必定ではないか。シェルケンの畜生めが。陛下に大人しく従っておれば……。俺はそうしようと思ったのに、あの糞狸親父の言葉に無理やり乗せられたばっかりに……。いや、そうだ、今からでも遅くはない!」
スタイリスは従者を振り返った。
「良いか、今すぐに王族・貴族籍の管理担当の所へ行け!」
「殿下の貴族籍への移管は中止ですね?」
「馬鹿者、俺を殺す気か! 逆だ、今すぐに、できれば昨日付で臣籍降下を完了したことにさせるのだ。祖父の名を使って構わん。いいか、出来るだけ早くだ。俺はアンデーレの所へ行く。もう、ここへは戻らん。そっちが終わったら、俺の身の回りの荷物をまとめてアンデーレ領に直接に来い。そこで合流するのだ。わかったな!」
「はい、殿下」
「もう殿下とは呼ぶな!」
スタイリスは言い捨てると、後も見ずに部屋を去り、廊下を小走りに急ぐ音だけが残った。
残された従者は困った顔で長椅子の侍女の方を見た。
放置するのは気が引けるが、この女が気が付いた時にここにいてあれこれ尋ねられては困る。
変に関わり合いになったら、スタイリスは自分も簡単に切り捨てるに違いない。
誰もいなければこの女もあの男に見捨てられたことを悟るだろう。
従者は女の目を覚まさないように静かに部屋を出て、戸籍係のところへ急いだ。
スタイリス元王子は御者に馬車を飛ばさせてアンデーレ伯爵家の邸に急いだ。
前触れも無い突然の訪問に驚く執事達を尻目にファレノ嬢の居場所を尋ねると、案内を急かして彼女の部屋に入った。
かつての恋人が驚くのにも構わず、満面に得意の作り笑顔を飾り付けてファレノの侍女に「婚約者同士の話なので二人きりにしてもらいたい」と命じ、二人きりになるや否や、ファレノにいとも親し気に話し掛けた。
「ファレノ、久し振りだな。ずっと気に掛けていたが、元気そうで何よりだ」
「はあ? 殿下、どういたされました? あんなに嫌っていた私の所へ何の御用ですか?」
「お前に会いたくて来たに決まっているだろう。お前は今日も変わらずこれほどまでに美しい。流石は俺の許嫁だ」
「何を今更、心の片隅にも無いことを。コボルドでも番の前ではもう少し優しい声で吠えますわ。婚約など、殿下の望まれたことではないのでしょう? 私も陛下の御命でなければ、お受けする訳もないのに」
「何を言っているんだ、我が愛しのファレノ。俺が今回の陛下の御沙汰をどんなに喜んだと思っているのだ」
「えぇ? 何ですって? 冗談じゃありませんわ。御自分の手当たり次第の女漁りを棚に上げて、私を尻軽だの淫乱だの男狂いだの浮気性だのと散っ々に罵られたこと、私は忘れておりませんわよ」
「それはお前の心を取り戻したくて言ったのだ。本心ではない。俺はもう、お前以外の女には手は出さない。見向きもしない。死ぬまでお前だけを愛する。この陛下からいただいた剣に誓う」
「殿下、お気は確かですか?」
「ああ、確かだ。俺は一刻でも早く、陛下のお言葉通りにしたいのだ。お前の父に婚約の挨拶をさせてもらいたい。伯爵はどこだ」
「父は殿下と私の婚儀の準備のために、一時領地に戻っております。お互いに気が進まないとは言え、陛下の御命ですもの。準備をせぬわけにはいかないことを御存じでしょうに」
「それは好都合……いや、有難い。では、我々も直ちに我らが領地に向かおうではないか」
「殿下、本当に大丈夫ですか? この国はどこですか? 御自身と私が誰かわかりますか? お名前は?」
「俺は風の国ヴィンティア王国に並びない麗しの淑女ファレノ・アンデーレ伯爵令嬢との婚約の御命を有難くも国王陛下にいただいた、元王子スタイリス・ヴィンティアだ。いいか、ファレノ。落ち着いて聞け」
「はい?」
「陛下と王妃様が倒れられた。毒を盛られた恐れがある」
「何ですって!」
ファレノが血相を変えて叫び声を上げ、スタイリスは慌てて声を潜めて人差し指を唇に当てた。
「しっ、声が高い。誰がやったかは知らんが、わかるだろう? 俺が疑われる恐れがある」
「陛下は、妃殿下の御容態は? 御無事なのですか?」
「わからん。倒れられたのは確かだが、お命に関わったかどうかは知らん」
ファレノはがっくりと両膝を床に付き、両手を胸に当てて頭を垂れた。
震える声で祈りを捧げる。
「お痛ましい……神様、四精様、何卒御恵みをお二人に……どうか、どうか御無事で……」
「おい、それはもう侍従共に任せるしかない。そんなことより俺の話を最後まで聞け」
「そんなこと?」
スタイリスの冷たい声を聞いて、ファレノは顔を上げた。
すっくと立ち上がるとスタイリスに詰め寄り、いきなりその胸倉を力一杯に掴んで引き寄せた。
両目を吊り上げて睨みつけて問い詰める。
「本当に殿下ではないのですね? 臣籍降下を避けるために謀られたのではないのですね?」
「そんな訳があるか! 放せ!」
スタイリスに手を振り払われても、ファレノは疑りの眼をスタイリスから離さない。
だが、少し考えると訝し気な表情に変わった。
「……確かに殿下にそのような度胸があるとは思えませんわね……。昔に私の部屋に忍んでこられた時も、再三再四びくびくと、しつこいぐらいに父の留守を確かめておられましたものね。そんな大事を謀れるほどの切れる頭脳でもあられませんし。騙せるのは王族の妃の座に目が眩んで勝手に転ぶ馬鹿娘ぐらい」
「う、うるさい! とにかくあらぬ疑いなのだ! だが誰が何と言って難癖を付けて来るかわからん。もしそうなったら、俺がこうしてここにいる以上、お前達も一緒に疑われることだろう」
「そんな! 私達は何もあずかり知りませんわ」
「それを避けるためには、俺が喜んで臣籍降下とお前との婚姻を受け入れたところを見せる必要があるのだ。もう殿下とは呼ぶな!」
「そのために、仲睦まじく領地に行けと?」
「ああ、そうだ。断っても、俺はここから動かんぞ。そして捕まったらお前達とも共謀したと言い募ってやる。お前も俺との婚約を嫌がっていたのだからな。婚約して領地に行くか? 無実の罪で処刑場に行くか? 領地か処刑場か、二つに一つ、どのみち俺との道行きだ。好きな方を選ばせてやる、有難く思え」
スタイリスに嘯かれて、ファレノはむっとした。
だが、すぐにあざとい笑顔を作り上げ、顎を突き出してスタイリスを見上げた。
「……わかりました。領地に行きましょう。ただし」
「ただし、何だ?」
「貴族の愛は何にも縛られない自由な愛。いいですわね?」
「ああ、望むところだ。俺もお前に縛られたくはないからな」
「いいえ、私が言ったのは私のこと。貴方も先程御自身で誓われましたわよね。もう、私以外の女に手は出さないし、見向きもしないって。国王陛下の剣に立てられた誓いを、まさか破られはしませんわよね」
愉しそうに目を細めて言うファレノに、スタイリスは「ぐっ」と詰まった。
返す言葉が無い。
悔しく歪む美しいその顔に、ファレノは畳み掛けた。
「それに伯爵位は貴方が名乗ったとしても、この家の血を繋ぐのは私、つまり家督は私のもの。我が家から勘当されれば貴方は爵位も貴族籍も失って、王族籍にも戻れない。行きつくところは平民籍。そのお顔にお似合いの華やかな世界におりたければ、貴方は私に逆らえない。おわかり?」
その言葉に、スタイリスは自棄になって顔を背けた。
頭を掻きむしれば長い金髪が振れて回って輝きを撒き散らすが、口から出るのは汚い罵り言葉だけだ。
「糞っ、畜生っ、この性悪女めっ」
「ええ、糞畜生の性悪女で申し訳ありません。私ではお嫌であれば、貴方にお似合いのお可愛くてお馬鹿な令嬢の所へ行かれれば? どうせ私は尻軽の淫乱の男狂いの浮気性ですもの。構いませんわよ。貴方さえここにいなければ、私達は身の証しぐらい何の問題も無く立てられます。お帰りならこちら。性悪女でもお見送りぐらいはいたしますわ」
逆に嘯き返し、扉の方につかつかと歩むファレノの腕にスタイリスは慌てて取り縋った。
「待て、わかった、悪かった。もうどうにでもするがいい! どうせ、俺にはもう他に行き場所は無いのだ!」
「するがいい? ふうーん」
「ど、どうぞ貴女様の御随意に、我が麗しの婚約者殿」
「結構」
「では、行くぞ」
「ええ、でもその前に」
「何だ?」
ファレノは訝し気にするスタイリスの周りを意味ありげに歩き、背後に回るといきなり元王子の膝の裏を蹴りつけた。
「痛い! 何をする!」
たまらず前に崩れて両膝を突いたスタイリスの頭を、ファレノは押さえ付けて無理やり前に垂れさせた。
「まずは陛下と妃殿下の御無事を祈りなさい! 貴方の大切な御祖父様、御祖母様でしょうが! この不孝者!」
「わ、わかった」
スタイリスが慌てて胸に両手を当てるとファレノは満足そうに「ふんっ」と鼻息を鳴らし、その横に並んで跪くと同じように胸に手を当てて頭を垂れ、国王夫妻の回復を願う長く優しい祈りの言葉を慎ましやかに捧げた。
それが済むと立ち上がり、両腰に手を当ててスタイリスに向いた。
「では、元王子スタイリス・ヴィンティア卿、私に付き従って、我が家の領地へ参られますか?」
そして右手をスタイリスに向かって差し出す。
スタイリスは美顔をくしゃくしゃに歪めたが、渋々と立ち上がってその手を受けた。
「……謹んでお供させていただきます。お手を私めにお預けください」
「光栄ですわ。オッホッホッホッホ」
その日、ファレノ・アンデーレ伯爵令嬢の笑い声が高らかに響くと共に、この国屈指の美男美女のカップルが再誕した。
だがその二人はたちまち王都から姿を消した。
二人が領地から戻って社交界の華となったのは、しばらく先、事が収まった後のことだった。




